第1話 倒さず、奪わず、雇うこと
ぱちり。
まぶたの裏で白い花火が散った。
熱い。
それが最初の感覚だった。胸の奥で何かが燃えている。
心臓と呼ぶには激しすぎる鼓動が、生まれたての血管を叩いて回る。
目を開けると、世界は白かった。壁も床もない。ふんわりと光に包まれた、揺りかごのような場所。
その光の中心に、女が立っていた。
輪郭は真夏の逃げ水みたいに頼りなく滲んで、歳の見当もつかない。けれど目だけは違った。覗き込んだら二度と帰れない——深い井戸の底のような青。
女神だ、と思った。理屈ではない。いま胸で暴れている熱が、彼女の指先から注がれたものだと、魂が覚えていた。
喉に手を当てて確かめる。この声帯は、まだ誰の名前も呼んだことがない。恐る恐る咳払いをひとつ。音になることを確認して、
「……どうも」
声が出た。少し掠れている。この喉はまだ、誰の名前も呼んだことがない。
「ずいぶんと、急な目覚めですね」
女神の話は簡潔だった。
「ゴメンね」
「渋滞、起こしちゃってるの」
「渋滞?」
「澱よ。人間の負の感情とか、使いきれなかった魔力とか。放っておくと腐るの」
彼女の声は軽い。けれどその目は、僕の反応を一つも見逃すまいとしている。
「一年前に魔王が死んでね。モンスターが減ったら、人間たちの発散先がなくなっちゃった」
「……それで僕ですか」
「そう。キミにはダンジョンを作ってもらう」
ダンジョン。
言葉の意味は、なぜか最初から知っていた。
地下に潜る迷宮。罠と魔物と、そして——冒険者たちの墓場。
「人を殺せ、と?」
女神は首を傾げた。
「殺してもいいし、殺さなくてもいい。キミのダンジョンだもの」
細い指が僕の額に触れる。熱い雫が、脳の奥まで染み込んでいく。
「天賦を二つあげる。『創成』——土や空気を、思うままに組み替える力」
指が離れる。名残のように熱が疼く。
「『雇用』——キミが打ち負かした魔物を、手足として迎え入れる力。彼らの天賦は、キミのものにもなるわ」
打ち負かして、奪うのではなく。雇う。
奇妙な響きだった。けれど——悪くない。
「身体も特注しておいたわ。地上で怪しまれないようにね」
空間の端に水鏡が現れる。
映っていたのは、ガラス細工のように線の細い——少年だろうか。少女だろうか。色素の薄い髪。中性的な目鼻立ち。
掌を握り、開く。指先まで神経が通っている。
「よかった」
女神が一歩、退いた。
「最後にひとつ。キミには名前をあげない」
「名前?」
「自分で見つけなさい。キミが何者かは、キミが決めることだから」
足元の光が、薄くなっていく。
「地下の国を——賑やかにしてね」
床が抜けた。
落ちながら、僕は考えていた。
殺してもいいし、殺さなくてもいい。彼女はそう言った。
なら——僕は、どちらを選ぶだろう。
答えが出ないまま、意識は闇に呑まれた。
* * *
ずん、と重い着地音と共に、静寂が訪れた。
ひやりとした空気が肌を撫でる。
そこは、天然の鍾乳洞のようだった。どこからか水の滴る音が反響している。土と、岩と、わずかなカビの匂い。
ふしぎと不快ではなかった。ここが、僕の家であり、職場になるのだ。
僕は立ち上がり、暗闇に目を凝らした。
「まずは、灯りが必要だな」
僕は足元の湿った岩肌に手を触れた。女神から授かった『創成』の力を試すときだ。
魔法の呪文はいらない。必要なのは、明確な完成図のイメージ。
――薄暗い洞窟でも育つ、発光性の苔。色は、人間を安心させる淡い青緑。
指先から魔力を流し込む。
じわり、と岩の表面が泡立ち、次の瞬間には柔らかな光が広がり始めた。蛍の光を集めたような、幻想的な輝きが、無機質な岩壁を覆っていく。
美しい。
鼻を近づけると、微かに甘い蜜のような香りがした。光合成のできない地下で生きるため、この苔は匂いで虫を誘き寄せ、胞子を運ばせる性質があるらしい。
「次は、通路の確保か……」
そのとき、背筋がぞわりとした。
気配——というより、匂いだ。苔の甘さを押しのけて、獣くさい何かが漂ってくる。
振り返る前に、音が届いた。
爪が岩を引っ掻く音。
暗がりの奥から、それは現れた。
ジャイアント・ラット。
中型犬ほどもある大きなネズミ。濡れたような黒い毛並みが、苔の明かりに照らされてぬらりと光る。一本一本が脂っぽく艶めいていて、その下で筋肉がごりごりと動いているのが分かった。
目が、赤い。
暗がりの中でもはっきりと光って、僕をじっと見つめている。これは獲物かどうか、品定めされている。そんな感じがした。
口が開く。
黄色い前歯が見えた。上下二本ずつ、まるでノミのように尖っている。歯の根元についた白い粉は、きっと岩を齧った跡だ。
「……初めまして」
声は震えなかった。
怖くないわけじゃない。むしろ、怖すぎて感情の針が振り切れたのかもしれない。
ネズミが跳んだ。
考えるより先に、身体が横へ転がっていた。肩を岩にぶつける。痛い。でもそれどころじゃない。
背後でガツン、とすごい音がした。
振り返ると、さっきまで僕がいた場所の岩壁に、深い傷がついていた。
あの前歯でやったのだ。石を、本当に砕いたのだ。
「なるほどね」
僕は立ち上がりながら、足元の地面に手をついた。『創成』を使う。
まず思い浮かべたのは壁。でも、すぐに考え直した。あの歯の前では、土の壁なんて紙と同じだ。
だったら、檻。
硬い檻じゃなくて、粘土みたいにぐにゃぐにゃで、でも蜘蛛の糸みたいにしつこく絡みつくやつ。そんな都合のいいものを頭に描いた。
ネズミが二度目の突進をしてくる。
地面から触手みたいに伸びた粘土が、その四本の足にべたりと絡みついた。
ぎぃ、と変な声。ネズミが暴れる。前歯で粘土を噛みちぎろうとする。でも、ちぎれた端からまた伸びて、また絡んで、どんどん締めつけていく。
僕は近づいた。
赤い目が、怒りに燃えてこっちを睨んでいる。それでも、なぜだか嫌いになれなかった。こいつはこいつなりに、ずっとこの暗がりで生きてきたのだ。
それを責める気にはなれない。
「君、名前はあるのかな」
答えが返ってくるはずもない。でも、聞かずにはいられなかった。
額に手を触れる。
『雇用』の力が、自然と流れ出した。
熱い。
女神に触れられたときと似た感覚。でも今度は、僕のほうが与える側だ。
ネズミの身体から力が抜けていく。赤い目の色が、ほんの少しだけ穏やかになった気がした。
『クロム』
声じゃない。頭の中に直接、何かが響いた。
名前なのか、種族としての誇りなのか、よく分からない。でも、それでいい。
「クロム。いい名前だね」
同時に、また別の何かが頭に流れ込んでくる。
――『暗視』の天賦を獲得しました。
――『危機察知(微)』の天賦を獲得しました。
ああ、そういうことか。
これがクロムの持っていた力。暗闇を見通す目と、危険を察する本能。それが今、僕のものにもなったわけだ。
試しに目を凝らしてみる。
苔の明かりが届かない洞窟の奥まで、ぼんやりと輪郭が見えた。なるほど、便利だ。
粘土が解けて、地面に戻っていく。
自由になったクロムは、僕の足元に静かにうずくまった。敵意はもうない。かといって、尻尾を振るような態度でもない。ただ、そこにいる。
僕はその頭に手を乗せた。濡れた毛並みは思ったより温かくて、心臓がとくとく動いているのが伝わってきた。
「よろしく、クロム。一緒に、このダンジョンを賑やかにしよう」
赤い目が一度だけ瞬いた。
それは、うん、という返事に見えた。
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