お前じゃないナニカ
1.
雨が降っていた。11月の終わり、冷たく細かい雨がアスファルトを黒く濡らし、街灯の光をぼんやりと反射させていた。
俺、佐藤悠斗は、コンビニの袋を片手にアパートへの道を急いでいた。袋の中にはビールとカップ麺。
いつもの夜だ。
「悠斗!」
突然、背後から声がした。聞き慣れた声。だが、どこか懐かしく、ありえない声。俺は足を止め、振り返る。雨の音と車のエンジン音が混じる中、街灯の下に人影があった。フード付きのコートを着た男が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「…誰だ?」
声が震えた。暗くて顔はよく見えない。でも、その歩き方、肩のライン、どこかで見たことがある。
いや、知っている。知りすぎている。
「悠斗、久しぶりだな。俺だよ、翔太だ」
その瞬間、俺の心臓が止まりそうになった。
そこにいたのは俺の親友の佐々木翔太だった。
佐々木翔太は4年前、登山中の事故で死んだはずの親友だ。遺体すら見つからなかった。あの日のニュース映像が脳裏をよぎる。雪崩に飲み込まれた山、捜索隊の無力な姿、翔太の両親の泣き崩れる顔。
「嘘だろ…お前、死んだはずじゃ…」
「ハハ、死んだって? そんなわけねえだろ。ほら、ちゃんとここにいるじゃん」
翔太はフードを下ろした。そこには、確かにあの佐々木翔太の顔があった。少しやつれてはいるが、鋭い目元、軽くカールした髪、口元の小さなほくろ。間違いなく翔太だ。俺は言葉を失い、ただ立ち尽くした。
「びっくりしたんだから。4年も音沙汰なしで、急に現れるなんて…どこにいたんだよ?」
「長くなる話だ。とりあえず、寒いからさ、どこかで話せねえ? お前の家、近くだったよな?」
俺は迷った。確かに翔太に見える。声も、話し方も、昔のまま。でも、なぜか胸の奥で警鐘が鳴っていた。
何かがおかしい。だが、こんな雨の夜に、親友を放っておくわけにもいかない。俺は頷き、アパートへ向かった。
アパートの狭いリビング。翔太はソファにどっかりと座り、俺が差し出したビールを一気に飲み干した。
昔からそうだった。翔太はいつも、まるで自分の家のようにくつろぐ奴だった。
「で、どこにいたんだよ? 4年間、なんの連絡もなしで。家族も、俺も、みんなお前が死んだって…」
翔太は少し笑った。その笑顔が、どこか不自然に見えた。いや、気のせいか?
「悪い、悪い。実はな、事故の後、記憶がちょっとやられててさ。山で彷徨ってたら、どっかの村のじいさんに助けられたんだ。そっから、しばらくその村で暮らしてた。携帯も壊れてたし、世間と隔絶された場所だったから、連絡できなかったんだよ。」
「村? どんな村だよ。そんな話、聞いたことねえぞ。」
「まあ、マイナーなとこだ。地図にも載ってねえような山奥。名前も忘れちまった。」
翔太はそう言うと、話を変えるように立ち上がり、部屋を見回した。
「懐かしいな、悠斗の部屋。昔、よくここで飲んだよな。覚えてるか? お前が酔っ払って、カラオケでX JAPAN歌いながら泣いたこと。」
俺は笑いそうになった。あの夜のことを覚えている。
確かに翔太と馬鹿みたいに騒いだ。でも、同時に違和感がまた頭をもたげた。翔太の口調、昔と変わらない。でも、どこか…演じているような? いや、まさかな。
「で、これからどうするんだ? 家族には連絡したのか?」
「ああ、まだ。とりあえず、悠斗に会いたかったんだ。親には…そのうち連絡するよ。」
翔太はそう言うと、急に黙り込んだ。目が、俺をじっと見つめている。その視線に、背筋がぞくりとした。何か、翔太の目に、異様な光があった。
「なあ、悠斗。俺、戻ってきてよかったよな?」
その質問に、俺は答えられなかった。なぜか、口が動かない。翔太の顔は笑っている。でも、その笑顔の奥に、何か得体の知れないものが潜んでいる気がした。
2.
それから数日、翔太は俺のアパートに居着いた。仕事から帰ると、翔太がソファでテレビを見ていたり、キッチンで何かを作っていたりする。まるで、4年間の空白なんてなかったかのように、昔の日常が戻ってきたようだった。
でも、違和感は消えなかった。
たとえば、翔太は昔、辛いものが大嫌いだった。カレーは甘口しか食べず、キムチを見ただけで顔をしかめた。それなのに、ある晩、翔太がコンビニで買ってきた弁当は激辛キムチチャーハンだった。
「お前、辛いの食えるようになったのか?」
「ん? ああ、村にいたときにな。現地の飯が辛えのばっかりで、慣れちまったんだよ。」
そう笑って、翔太は平然とチャーハンを口に運ぶ。
だが、その説明が、どこか無理やりな気がした。
また別の日、翔太が昔の話をしたとき、妙な齟齬があった。高校時代、俺と翔太は文化祭でバンドを組んだことがある。翔太はドラムで、俺はベース。曲はBOØWYの「Marionette」だった。なのに、翔太はこう言った。
「なあ、悠斗。あのときの文化祭、X JAPANの『紅』演奏して、めっちゃ盛り上がったよな!」
俺は固まった。「紅」じゃない。「Marionette」だ。
翔太が間違えるはずがない。あの曲は、翔太が「BOØWYのこの曲しかねえ!」って押し切って決めたんだ。
「…翔太、お前、ほんとに翔太か?」
冗談めかして言ったつもりだった。だが、翔太の動きが一瞬止まった。フォークを持った手が、空中で静止する。そして、ゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
「何だよ、それ。ハハ、冗談きついな、悠斗」
笑顔だった。
でも、その目は笑っていなかった。冷たく、まるで俺の心を探るような視線。俺は慌てて話を変えた。
夜、寝る前、俺はスマホで翔太の事故について調べ直した。4年前のニュース記事がいくつか出てきた。
「20代男性、雪崩で消息不明」「捜索打ち切り」「遺体発見に至らず」
どれも同じ内容だ。翔太の名前は実名で出ていた。
佐々木翔太、25歳
記事を読みながら、俺はあの日のことを思い出した。翔太は登山が趣味だった。俺も何度か誘われたけど、高所恐怖症の俺はいつも断っていた。あの日、翔太は大学の山岳部の仲間と北アルプスへ行くと言っていた。
「今度こそ、悠斗も連れてくぞ!」って笑いながら
それが、最後の会話だった。
記事のコメント欄には、知らない人たちの書き込みがあった。
『ご冥福をお祈りします』『若いのに可哀想』『山は怖い』
その中に、妙なコメントが混じっていた。
『雪崩なんかじゃ死なない。あの山には、もっとヤバいものがある』
匿名のアカウント、4年前の書き込みだ。
俺はスクロールして、他のコメントを探した。
似たような内容がもう一つ。
『あの山で消えた人は、戻ってくる。でも、それはもう人間じゃない。』
ゾッとした。こんな書き込み、ただのイタズラだろ? でも、なぜか胸がざわつく。俺はスマホを閉じ、布団をかぶった。隣の部屋で、翔太の寝息が聞こえる。
いや、寝息じゃない。低く、うなるような音。
まるで、何かを呻いているような。
3.
1週間後、俺は翔太を連れて、昔よく行った居酒屋へ行った。翔太の「昔みたいに飲もうぜ!」という誘いを断れなかった。
店は変わらず、カウンターにはいつもの店員の大将がいた。
「お、悠斗! 久しぶりじゃん! って、そっちは…翔太!? お前、生きてたのか!?」
大将の驚いた顔を見て、俺は少し安心した。やっぱり翔太だ。知り合いがそう言うんだから、間違いない。
「ハハ、死ぬわけねえだろ、大将。ちょっと長い旅に出てただけさ」
翔太はいつもの調子で笑う。大将も笑いながら、ビールをジョッキで出してくれた。昔話に花が咲き、店は笑い声で満たされた。だが、俺だけが、どこか浮いていた。
翔太の仕草が、微妙にズレている。たとえば、ビールを飲むとき、ジョッキを左手で持つ。昔の翔太は、絶対に右手だった。箸の持ち方も、なんかぎこちない。細かいことだけど、積み重なるたびに、違和感が膨らんでいく。
「なあ、翔太。お前、左手で飲むようになったんだな」
「ん? ああ、村で怪我してさ。右手がちょっと使いづらくなったんだ」
また、村の話。いつもその話でごまかす。俺は黙ってビールを飲んだ。
その夜、帰り道、翔太が急に立ち止まった。路地裏の暗い一角、街灯がチカチカと点滅している。
「悠斗、ちょっと待て」
「どうした?」
翔太は振り返らず、じっと路地の奥を見つめていた。そこには何もない。ただの暗闇だ。
「…誰かいる」
「は? 誰もいねえよ。酔ったか?」
「いや、いる。見てる」
翔太の声が低くなる。俺はぞくりとした。路地の奥、確かに何かが動いた気がした。影のようなもの。
だが、目を凝らすと、何もない。
「翔太、行こうぜ。気持ち悪いな、ここ」
俺は翔太の腕を引っ張った。だが、翔太の腕は、異様に冷たかった。
まるで、生き物の体温じゃないみたいに。
4.
翌日、俺は会社を休み、翔太の事故があった山について調べ始めた。ネットで検索すると、その山、北アルプスの奥深くにある「黒岳」には、奇妙な噂がいくつもあった。
「黒岳で消えた人は、時々戻ってくる。でも、戻ってきた人は、どこかおかしい」
「山には古い祠があって、近づくと呪われる」
「夜、黒岳の頂上付近で、人の形をした影がうろつくのを見た」
どれも、都市伝説の類だ。だが、翔太の行動、言動、あの冷たい視線を思い出すと、ただの噂とは思えなくなってくる。
俺は、翔太の大学の山岳部に連絡を取った。4年前の事故の詳細を知りたかった。応じてくれたのは、当時の部長だった男、田中というやつだ。
「佐々木の事故、覚えてますよ。あれは…ほんとに辛かった。雪崩が起きたとき、俺たちはもう少し下にいたんです。佐々木だけが、頂上近くにいた。助けられなかった…」
「頂上近くって、どんな場所だった?」
「黒岳の頂上には、変な祠があるんです。古い石の祠で、なんか気味が悪くて、みんな近づかなかった。佐々木は、好奇心旺盛なやつだったから、写真撮るって言って一人で登ってったんです。」
祠。ネットの噂と同じだ。俺の背筋が冷えた。
「その祠、何か変なことなかった?」
田中は少し黙った。電話の向こうで、ため息が聞こえる。
「…実は、佐々木が消えた後、俺、夢で見たんです。あの祠の前で、佐々木が立ってる。でも、顔が…なんか、ぼやけてて。人間の顔じゃなかった。笑ってるんだけど、目が真っ黒で…」
田中の声が震えている。俺も震えていた。
「田中さん、佐々木が…最近、戻ってきたんです」
「は!? 何!? 生きてたのか!?」
「わからない。見た目は佐々木だけど…なんか、違うんです。」
電話の向こうで、田中が息をのむ音がした。
「佐藤さん、聞いて。黒岳の祠には、昔から変な話がある。山の神じゃなくて、もっと古い、得体の知れないものが祀られてるって。そいつは、死んだ人間の姿を借りて、生きてる人間に取り憑くらしい。もし、佐々木が戻ってきたなら…それは、ほんとに佐々木じゃないかもしれない」
5.
その夜、俺はアパートに戻るのが怖かった。翔太がいる。いや、翔太じゃないナニカがいる。
田中の言葉が頭から離れない。
「死んだ人間の姿を借りる」、そんなバカな話、信じたくない。でも、翔太のあの目、冷たい手、ズレた言動。すべてが、ナニカの存在を裏付けている。
ドアを開けると、翔太がキッチンに立っていた。包丁で、何かを切っている。トントンという音が、静かな部屋に響く。
「よ、悠斗。遅かったな。飯、作ってるぜ」
翔太が振り返る。その手に持った包丁が、妙に光っている。俺は一瞬、動けなくなった。
「…何……作ってるんだ?」
「ん? 肉。村で教わった料理。食ってみねえ?」
テーブルの上には、赤黒い肉の塊があった。生臭い匂いが鼻をつく。牛肉とも豚肉とも違う、得体の知れない匂い。
「いや、いい。腹減ってねえから。」
「そうか? もったいねえな。すげえ美味いのに」
翔太は笑いながら、肉を切り続ける。
トントン、トントン。
その音が、まるで心臓の鼓動のように聞こえる。
俺は部屋に逃げ込み、ドアに鍵をかけた。心臓がバクバクしている。翔太の声が、ドアの向こうから聞こえる。
「悠斗、なんでそんなビビってんだ? 俺だよ、翔太だよ」
その声は、確かに翔太の声だ。でも、どこか歪んでいる。
まるで、別の何かが、翔太の声真似をしているみたいに。
夜中、俺は目を覚ました。部屋が暗い。静かすぎる。
いや、静かじゃない。微かに、床がきしむ音がする。
誰かが、部屋の中を歩いている。
「…翔太?」
返事はない。きしむ音が、近づいてくる。
ドアの前で、止まった。ノブが、ゆっくりと回る音。
カチャ、カチャ。鍵がかかっていて、開かない。
「悠斗…開けてくれよ」
翔太の声だ。でも、低く、唸るような声。人間の声じゃない。俺は布団をかぶり、息を殺した。心臓の音が、うるさいくらいに響く。
「悠斗…俺だよ。なんで信じてくれねえんだ?」
ドアを叩く音。ドン、ドン。だんだん強くなる。俺は叫びそうになった。だが、突然、音が止まった。静寂が戻る。まるで、何もなかったかのように。
6.
翌朝、翔太はいつも通りソファにいた。テレビを見ながら、笑っている。昨夜のことは、夢だったのか? いや、ドアのノブには、確かに細かい傷がついていた。
「よ、悠斗。顔色悪いぞ。寝不足か?」
翔太の声は、いつも通りだ。でも、俺はその笑顔を見ていられなかった。
「翔太、お前…ほんとに翔太なのか?」
また、同じ質問。翔太の笑顔が、一瞬、凍りつく。
だが、すぐにいつもの笑みに戻る。
「ハハ、何だよ、それ。またその話? 俺が偽物だと思ってるわけ?」
「じゃあ、証明しろよ。昔、俺とお前しか知らないこと、言ってみろ」
翔太は少し考えるように目を細めた。そして、ゆっくりと言った。
「高校の修学旅行、京都でさ。お前、夜中に旅館抜け出して、コンビニでエロ本買おうとしたけど、店員にバレて追い出されたよな。俺、隣の部屋からそれ見て、腹抱えて笑ったんだ」
俺は凍りついた。その話、確かに本当だ。俺と翔太しか知らない、恥ずかしい思い出。でも、なぜか、翔太の口からその話が出た瞬間、余計に恐怖が募った。だって、翔太の目が、まるで俺の心を覗き込むみたいに光っていたから。
「お前…どうやってそれ知った?」
「ハハ、知ったって、俺がその場にいたからだろ? 悠斗、ほんと、ビビりすぎだぜ」
翔太は笑いながら立ち上がり、俺の肩を叩いた。
その手が、また冷たい。まるで、死体みたいに。
俺は決めた。翔太を、このナニカを、家から追い出す。
いや、逃げる。どこか遠くへ。
このままじゃ、俺の心が持たない。
だが、その夜、翔太が先に動いた。
「悠斗、ちょっと話がある」
リビングの電気が消えている。翔太は、暗闇の中で立っていた。顔が見えない。だが、目だけが、ぼんやりと光っている。
「何…だよ?」
「俺、ずっとお前に感謝してるんだ。こうやって、戻ってこられたのも、お前が俺のこと忘れなかったからだろ?」
「何、言ってんだ?」
「だからさ、悠斗。俺、ずっとお前と一緒にいたいんだ。一緒に、行こうぜ」
翔太が一歩、近づく。俺は後ずさる。背中が、壁に当たる。
「行こうって…どこに?」
翔太は笑った。その笑顔が、初めて、完全に崩れた。口が、耳まで裂けるように広がる。目が、真っ黒に染まる。
「黒岳ダヨ。俺がいた場所。あそこなら、ずっと一緒ダ」
俺は叫んだ。だが、声が出ない。翔太の手が、俺の首に伸びてくる。
冷たい、異様に冷たい手。
視界が暗くなる。意識が、遠のく。
7.
目が覚めたとき、俺はベッドにいた。
朝だ
陽の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
夢だったのか? いや、首に、うっすらと手形のような痕がついていた。
リビングに、翔太の姿はない。だが、テーブルの上に、メモが置いてあった。
「悠斗、ちょっと用事ができた。また戻るぜ。待ってろよ。 翔太」
俺は震えながら、メモを握りつぶした。
翔太じゃない。あれは、ナニカだ。俺は荷物をまとめ、アパートを飛び出した。どこへ行くあてもない。ただ、逃げたかった。
今、俺は電車に乗っている。窓の外、雨が降り始めた。隣の席には、誰もいない。なのに、背後に、誰かの視線を感じる。振り返っても、誰もいない。でも、感じる。
あの笑顔。あの冷たい手。あの黒い目。
翔太は、どこかにいる。
いや、ナニカが、俺を追いかけてくる。
こちらのお話は読み切りとなりマす
結末は読んでる皆様でオカンガエくだサイ