月夜で待ってるから①
外ではひっきりなしに蝉が大合唱を続け、一日の暑さの盛りを迎えた。それでも現代の夏と違って海からの風のお陰で格段に涼しい。
一匹の蝉が鳴き繰返すのを何度聞いただろうか、侍の腕の中で何度か脱出を試みた。が、出られるはずもない。
もぞもぞ
やりながら
離せー
と言わんばかりに暴れても効果はなかった。気の短いあかねが、これ以上耐えられるはずもなかった。しかし、力ずくでどうなるものでもない。今まで散々あばれてもビクともしなかったものが、今更力を込めたところでどうにかなるわけがない。
(…だったら。)
こうしてやる!と、言わんばかりの行動に出た。
(あんたがくっついてくるなら、こうだ!)
侍に、
ぴたり
身体をつけた。だが、それ以上はどうしていいのか分からない。”引いてだめなら押してみろ”の如く、”引き剥がそうとしてだめならくっついてみろ?!”をやろうとした。しかし、色気の”い”の字もないあかねがやっても、ただの子供がくっついたようにしかならなかった。
それは確かに侍にも伝わって、あかねを抱き締める腕が僅かに緩んだ。すかさず腕から逃れ、侍の手が届かぬ位置まで飛び退いた。殆ど部屋の端である。しかし、すぐ後ろは隣の部屋へと続く戸なので、何時でも逃げられる。
侍は少し”ばつ”が悪そうに背を向け、床の間近くに座り直した。
すまん
「少し取り乱した……。それよりも、”これ”はいいのか?」
侍が座り直すまで畳に転がっていたあかねの刀をいつの間にか、手にしている。
あ
と思い、立ち上がりかけると、侍は刀を目の前に置いて、懐かしむように撫でた。
私が
「この村に来たのは、吉二郎に会うためだ。しかし、この刀がお前の元にあるということは…。」
吉二郎とは、あかねの祖父のことである。
眼だけを上げた侍に、あかねは頷いた。
いつだ
侍は、視線を庭の方へとやる。小さな庭の中で、一際小さい梅の木が、
さらさら
と風に吹かれて枝を遊ばせている。生前、吉二郎が特に可愛がっていた樹で、あかねの生まれた年に植えたのだと得意げに語っていた。
五年前
「の春先。…あんたはじいちゃんとは何処で?」
ここの村人達は滅多に外には行かない。外からも、殆ど人が来ない。あかねの記憶の中でも、今目の前にいる侍を見たことも、来たということを聞いたこともない。
随分
「昔のことになる。吉二郎の幼い頃からの。」
意外な言葉に、あかねは耳を疑った。侍はどう見ても二十代半ば、歳より若く見えるとしても三十代。七十代で亡くなった吉二郎を幼い頃から知っているとすれば、一体侍は何歳なのだろう。
仕方
「がない。多少強引だが、起こすしかあるまい。」
しかし、後でどれだけ怒ることやら
侍が何を言っているのか、全く解らない。
侍は指を唇に当て何やら
ふつふつ
呟いた。すると、刀がひとりでに
かたかた
音を立てたかと思うと
ふわり
浮き上がった。侍の胸元辺りで
ぴたり
動きを止める。あかねは目を丸くし、そして思い出していた。祖父の吉二郎も生きていた頃、不可思議なことをよくやって見せてくれていた。侍のやったことはそれとよく似ている。
侍が続けて
ふつふつ
呟くと今度は刀の鞘が動き、三、四寸程刀身が剥き出しにされる。その刃に侍は躊躇いもなく
す
と指を当てた。血が流れ、その血を刀に塗りつけるように動かす。しかし、血はまるで刀に吸い込まれるように無くなる。
途端に刀は、力を失って倒れ込む人の様に
かちゃり
落ちかと思うと
ぱちん
鞘に収まった。これで終わりだろうかと覗き込むようにしていると、刀から
すすす
煙が立ちその煙はやがて人の形になっていく。
あ…ああ
その人型はあかねにとって懐かしい人物へと変わっていく。会いたくても、もう二度と会えない、そう思っていた最後の肉親に。
じ
「…い…ちゃ…ん。」
溢れてくるのを抑えきれず、大粒の涙が幾つも頬を伝っては落ちた。
ほ
「ほ、あかね。大きなったのー。」
吉二郎の形をとった人型はあかねの頭を
そ
と撫でた。人型からは涙は出ていないが、泣いているに違いない姿だった。
あかねは人型にしがみつきたくなるのを必死に堪えて、声を殺して泣いた。大声で泣いては、周りの村人達が集まってきてしまう。この人型をどう説明していいか分からない。
旦那
「さん。お懐かしゅうございます。確か最期にお顔を見たんは十年程前でしたなあ。」
人型は手をついて頭を下げ、目を細めた。侍の目元も、僅かに緩んでいるように見える。
久しい
「な、吉二郎。」
人型は毛のない頭を
つるり
撫で、真剣な面持ちで侍に尋ねた。
それ
「で、旦那さんが来なすったということは例の衣のことですな。」
しかし、あれは…
歯切れの悪い返事の吉二郎、あかねの方を
ちらり
肩越しに振り返ってから、
なごう
「なりますよって、酒でもやりながらで…。」
くい
と口の前で手をひねる。侍は
くすり
口元だけを笑わせたが、後ろで既に涙が引っ込んでいたあかねが、人型に釘をさした。
あのね
「うちに酒なんてないよ。もう、飲む人いないんだからさ。」
それを聞いて人型は後ろ頭を
ぽん
と叩きながら
ありゃ
「忘れとったわ。」
日がまた少し傾き、大合唱していた蝉達が
ぽつぽつ
鳴き止み、やがてひっそり静まり返った頃、
どっかーーん
という耳が張り裂けるどころか、大の大人が飛び上がりそうになる程の轟音とともに、大粒の雨が降り出した。
大地の熱を充分に奪い、辺りがすっかり涼しくなったのを見計らってか否か、激しく降っていた雨は
ぴたり
と止んだ。今までの雨が嘘のように赤い夕陽が一日を惜しむように顔を出し、蜩達が昼の蝉と
交代
と言わんばかりに鳴き出す。
中庭の木々についた雫を眺めながら、侍と人型は酒を呑んでいる。吉二郎自慢の梅の木が雨粒を、まるで貴婦人が豪華な宝石で着飾るように身に纏って、この世のものと思えぬほど、美しく立っている。
んん
「ー、んまい。いや、こら生き返ってしまいますなあ。」
吉二郎が望んだ酒は、侍が用意した。
再会の祝酒だ
と、例の黒装束達に持ってこさせたのだ。それも、大きな酒樽を三つも。
その梅の姿と酒の味に舌鼓を打ちながら、
ぽつぽつ
吉二郎は話し始めた。