9 健志の過去:奇跡の再会
俺は無事に病院を退院でき、日常の生活に戻ることができた。
しかし、水泳だけは、元に戻ることができなかった…。
プールのスタート台に立つと眩暈がする。
あの時の全ての感覚が蘇る。
濡れた衣服で重くて思うように動かない手足。
海の中に引き込まれ水を飲んで苦しむ感覚。
まるで今さっき体験したことのように、まざまざと記憶や感覚が蘇る。
俺もしかして水が怖い?
そんなバカなと思い、無理やりプールに飛び込むが、ダメだった…。
プールの水の冷たさに肺が締め付けられる。息継ぎをしても呼吸が上手くできない。俺はすぐにプールから上がり、トイレに駆け込み吐いてしまった…。
溺れた時、本当にあの時は死ぬかと思った。
それほど怖かったし苦しかった。自分に言い聞かせても、体が上手く反応しない。
次の日もその次の日も、同じように俺はプールが怖かった。
日が経てば治ると思っていたが、一向に元に戻れる気配が無かった。
トラウマ…その言葉は聞いたことがある。
まさか自分がそうなるなんて思わなかったけど。両親は色々と病院を探して俺を連れていってくれたが、克服することは出来なかった…。
やがて両親は諦め、過去のトロフィーやメダルを見るのは辛かろうと、ケースごと倉庫に仕舞われた。
そして水泳部と水泳クラブも正式に辞めた…。
コーチはとても残念そうだった。一緒にオリンピックの夢まで語っていたんだから、俺だって辞めるのは辛い。
◇◇◇
高校に進学したけど、俺はどのクラブにも入らずにくすぶっていた。
そして高校2年になると、自分の将来が不安になった。
以前は、水泳の推薦入学で体育会系の大学に進むつもりだったが、その道は閉ざされている。今の高校は偏差値が低いから、大学に進むには猛勉強しないと間に合わないだろう。
その夏休み、予備校の夏期講習に通うのに、叔父の家に居候させてもらうことにした。実家の周りにはまともな予備校なんて無いけど、叔父の家は都会で、有名な予備校が近くにあったから。
俺は、昼は予備校に行き、夜はバイトをすることにした。叔父には世話になっているから、せめて食費位は渡したい。
家から10分位のところにファミレスがあって、そこでバイト募集の張り紙を見つけた。
比較的時給が高かったので、翌日には早速履歴書を持って面接に行った。すぐに人手が欲しかったのか、その場で即採用されて翌日から来てほしいと言われた。
そしてバイトの初日、俺に奇跡が起こった!
店に行って、支給された制服に着替えると、「この人から仕事のやり方習って」とスタッフを紹介された。事務室の奥から出てきたのは、大柄で背の高い外国人のような風貌の男性だった。
俺は一目見るなり直感した。この人は2年前に俺を助けてくれた命の恩人では!?
顔はよく覚えてないけど、体のシルエットは目に焼き付いている。こんなに背が高くて、こんなにキレイな体形の人は、滅多にいない。
俺は心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。
そして再会させてくれた運命に感謝した。しかも職場の先輩?嬉し過ぎる!
仕事の説明をしてくれる彼の横顔を見ながら、俺の思いは確信に変わった。
低いハスキーな声、彫りの深い顔に長い睫毛、白っぽい明るい色の髪。もう間違いない!絶対にこの人だ!
今すぐにでも「あなたは俺の命の恩人ですよね!」って確かめたい!そしてあの時言えなかった感謝の言葉を伝えたい!
一通りの説明が終わったのか、その人は「何か質問ある?」と聞いてきた。
「はい、あります」と反射的に返答したけど、ちょっと待て…。あなたは、俺を救ってくれた命の恩人ですか?…なんて、今このタイミングで聞けるか?2年も前のことだし、もし彼が流しの救急救命士で、各地で命を救っていたら、もう覚えてないかもしれないし…。
「俺、早乙女健志って言います。先輩の名前を聞いてもいいですか?」
いいぞ!自然な質問だ!
すると彼は胸のネームプレートを指さして「壬生だ」と言った。
下の名前も教えてくれないかな…と念じながら見つめていると、察してくれたのか、「壬生イリイチ…イリイチはロシアの名前なんだ」と教えてくれた。
ロシア人?道理で日本人離れしているはず!
彫りの深い顔も美しい体なのも納得だ!
俺が余程嬉しそうな顔をしていたのか、先輩はクスリと笑って「他に聞きたいことは?仕事のことは大丈夫そう?」と尋ねてくれた。
仕事のことなんてどうでもいい!…いや、どうでも良くはないけど、何とかなるだろう。それより、先輩があの時俺を助けてくれた人かを確認したい!
「もう一つ質問していいですか?」俺は聞いた。
「いいよ、何?」ああ、ヤバい!優しく見下ろされながら、低いハスキーボイスで囁かれるとか。男の俺でもしびれる。もうずっと心臓が高鳴りっぱなしで…
理性が飛んだ。
「あなたの体形はとても美しいんですが、どんなトレーニングをしているんですか?」
何言ってるんだろうな、俺…。
でもこれは本心。だから思わず口をついて出てしまった。
先輩は少し驚いた顔をしていたけど、俺の姿を上から下まで見て、「キミ、何か運動してた?」と聞いてきた。
「はい、水泳を7年やってました」
「なるほどね…今はやってないの?」
「え…はい…」
「…だと思った。元スポーツ選手。でも今はやっていない人ってすぐ分かるから」
「そう…なんですか?」
「で?オレのトレーニング聞いてどうしたいの?」
先輩は冷静に淡々と聞いてきた。
本当だ、それを聞いて、俺はどうしたいんだろう?
もう水泳はやっていないのに…。
普通の大学に進学しようと決めたのに…。
でも先輩の体があまりにキレイで、あの時からずっと憧れてて、自分もそうなれたらいいなと強く想う気持ちがあるのは確か…。
「水泳を再開したいんです。でも2年間も離れていたから体作りから始めたくて…」
また、口をついて出てしまった。これはきっと俺の本心なのかもしれない…。
「分かった。明日から毎晩出てこれる?シフト入ってなくても来て。1週間、オレの仕事終わりに教えてあげるよ」
思いがけない先輩の嬉しい提案に、俺は夢を見ているのかと思った。