8 健志の過去:命の恩人
【早乙女 健志 15歳】
今から5年前、中学3年の夏。俺は最高の毎日を過ごしていた。
海育ちで泳ぐのが大好きで、泳ぎには自信があった。
小学生から水泳を始めてすぐに大会で入賞するようになり、水泳クラブのコーチは熱心に俺を指導してくれた。
俺の体は水泳向きらしく、コーチ曰く100人に一人の人材で、泳ぐのに最適な骨格と必要な筋肉が付きやすいらしい。自分が恵まれた体に生まれたことを両親に感謝した。
大会に出る度に入賞し、家の居間にはどんどんトロフィーやメダルが増えていった。父はガラス扉付きの大きなショーケースを買って、それらを丁寧に並べて満足していた。
周りからも期待され、オリンピックを目指そうなんて話も出て、自分でもそうなるのが当たり前だと思っていた。
俺は自分の泳ぎを過信し過ぎていた…。
その幸せの絶頂から一転、俺は思いもよらない出来事に見舞われた。
その日、クラブの仲間と海に遊びに行くと、何やら騒がしかった。
誰かが防波堤から海に落ちたらしい。
必死で水面に顔を出している少女の姿が、少しずつ沖に流されていくのが見えた。
まずい、早く助けないと!
俺は夢中で海に飛び込み、少女の方へ泳いでいった。
ところが俺は、服を着たまま泳ぐのは初めてだった。
海水を吸った衣服が重い。腕や足に張り付いて、上手く体が動かせない。
あれほど得意だったクロールなのに、なかなか前に進めない。
でもどうにかようやく、少女の所まで泳ぎ着くことができた。
少女に手を伸ばすと、彼女は夢中で俺の腕を掴んできた。
その時、もがく彼女に引き込まれるように、俺の体が沈んでいくのが分かった。
「まずい!」と気付いた時にはもう遅かった。
死に物狂いの彼女は、今度は俺の首に抱きついてきた。
凄い力で首を絞められ息が苦しい。その手を解こうとしても離れない。
少女の力がこんなに強いなんて…少女の体がこんなに重いなんて…。
そしてそのまま海の中に引きずり込まれるように、俺の体は海の中に沈んだ。
俺はパニックで水を大量に飲んでしまった。
少女に捕まえられた状態で、海面に浮上することが出来ない。
「俺、このまま溺れて死ぬのかな?」
そう最悪のことが頭をよぎった…そして意識を失った。
その後の記憶は無い。
幸い助かったが、どうやって助けられたのか記憶にない。
目を開けた時、俺の顔を覗き込むように、見知らぬ男の人の顔が間近にあった。
外国人?白っぽい明るい色の髪。彫りの深い顔。睫毛が長い。
一瞬、外国まで流されたんだろうか…と思ったけど、遠くで日本語が聞こえてきた。
「意識が戻ったぞ!」と誰かが言って、わぁっと歓声が上がる。
俺は目を覚ますとすぐに、胃の中のものが逆流してきて、口から噴き出した。
外国人らしき人は、がっしりとした腕で俺を抱え、仰向けの俺を横向きにして優しく介抱してくれた。
だから俺がその人の顔を見たのは、目を開いた直後の一瞬。
「よかった…もう大丈夫…」
低くハスキーな声が、頭のすぐ後ろで聞こえた。流暢な日本語。
「よかった…本当によかった…」と独り言のように繰り返す。
振り返って、介抱してくれている人にお礼を言いたかったけど、苦しくてそれどころではない。
救急車が到着して、その人と入れ替わるように救急隊が俺の体を持ち上げ、担架に載せて運んでくれた。
俺は担架で運ばれながら、目でその人を探した。
いた!白っぽい明るい髪。一人だけ背が高く体格の良い男性。
人混みの外側から立ってこちらを見ている。でも夕日の逆光で顔が良く見えない。
その代わり、男性の体のシルエットだけは、はっきりと良く分かった。
鍛えられた筋肉の逆三角形のキレイな体。皆より頭が出ているから背も高そうだ。
俺はスポーツをやっているから分かる。彼は絶対アスリートかスポーツ選手だ。
本当になんてキレイな体なんだろう…。
その頃、スポーツオタクで、筋肉オタクだった俺は、寸前まで溺れていたことも忘れ、すっかりその男性の美しさに見入っていた。
でも、砂浜から公道の救急車まで運ばれている時間は僅かだった。
俺を乗せた担架が運び込まれると、救急車のドアは閉まり、サイレンと共に走り出した。
◇◇◇
病院のベッドの上。
あの時一緒だった友人が俺の心配をして来てくれていた。
俺の命が助かったことを心から喜んでくれて、ことの一部始終を教えてくれた。
あの後すぐ大人たちが協力して、浮き輪とロープで海から俺と少女を助けてくれたと。
少女は幸い息はあったらしく、その親が救急車を待たずに車で病院に連れてったらしい。
良かった。その話を聞いてホッとした。
でも俺だけ息がなく、救急車もなかなか来ないから、みんな焦っていたんだって。
「そしたら男の人が、救急救命ができるって駆けつけてくれて」
友人たちは、その時の様子を口々に語ってくれた。
「凄かったよな。心臓マッサージっていうの?TVのドラマみたいだった!」
「あと、口を付けて人工呼吸もしてたぞ!」
「そう、何回か心臓押して、次に口から空気入れて…って繰り返してた」
おい待ってくれ!あの人が俺の口に?
どうやら俺の顔が赤くなったんだろう。友人達は察したみたいだった。
「ひょっとして、おまえファーストキス?」
ますます頭に血が上って顔が火照るのが分かる。
仕方ないよな、確かに俺はキス未経験で、しかも15歳。多感な年ごろってやつだ。
友人達は照れている俺を揶揄った。
医師が回診に来てくれて、騒いでいた友人と俺を注意した。
そして話が聞こえていたようで、俺達にこう言った。
「マウストゥマウスは人工呼吸で、キスではないよ。立派な医療行為だよ」
一緒にいた看護師さんも笑いながらこう付け加えた。
「キスではないから安心して。男同士でのファーストキスなんて困るわよね」
そう言われて不思議な気持ちになった。
あの人にキスされたと思うのは全然嫌じゃない。むしろ嬉しい?
あれ?何考えているんだろう…俺…。
俺はまだこの時の気持ちの正体が分からずにいた。
友人と入れ替わるように両親が来てくれた。
母はベッドの脇で泣き崩れながら俺の手を取った。父も目が潤んでいた。
心配かけてゴメン! 両親に泣かれて初めて、俺は事の重大さに気が付いた。
あの人が助けてくれてなかったら、俺どうなっていたんだろ?
後から誰かに教えられた。
心臓停止で呼吸が止まったら、酸素無しで生きられるのは3~4分らしい。
生存率は、心肺停止から5分で25%、10分で3%以下と、どんどん下がっていき、正に一分一秒が生死を分ける。救急車を呼んでも通常は十数分かかるから、間に合わない計算だとか。
つまり、あの人がいなかったら、俺は今こうして生きていることはなかったのかもしれない。
会ってちゃんとお礼を言わないと!
でも警察が現場検証に現れる前に、その人は去ったらしい。
両親もお礼をしたかったらしいが、名前も分からないと言っていた。
そうか、命の恩人なのに、誰かも分からず、もう二度と会えないのか…。