19 イチと累
お隣君がジムに来るようになってから、累が変わったように思う。
それまでは、ジムで累と出会う度にトレーニングを見てくれとせがまれていたのに、今はそれが減り、基礎的な論理的なことや解剖学について尋ねてくるようになった。
これには驚いた。
累には骨折後のリハビリとして、彼向きのトレーニングしか教えていなかったからだ。それは基本のメソッドではなく、累だけのオリジナルのようなものだった。
きっとお隣君に触発されたのかもしれない。それは累にとって良いことだろう。
今日、ジム終わりにたまたま累と一緒になった。オレが帰りにコインランドリーに寄って洗濯物を回収してから帰ると言うと、累もついて来ると言う。
道すがら、累はお隣君から聞いたらしい解剖学のことを尋ねてきた。累がスマホを取り出し、3Dのインタラクティブな画像を見せて質問してくる。
へぇ、今はこんなものもあるのか。便利だな。オレが勉強した頃は本しかなかったから、お隣君には図書館で借りられる本を進めたんだけど、累は独自に勉強をしているようだった。
コインランドリーに着くと、オレはマシンの上に置いておいた袋の中に、無造作に洗濯を終えた衣類を入れ、その店を後にしようとした。
すると累が唐突に「洗濯したの畳まないんスか?」と聞いてきた。
「家に帰ってから畳むよ」と返すと「何で今畳まないんスか?」と更に聞いてきた。
確かに、その店の中央には長机とパイプ椅子が置いてあって、洗濯物を畳める場所はあるのだが、正直オレはそんなこと考えたことも無かった。
「いや、オレんちここから近いし…」と言いかけると、
「今できることは、今すぐにやった方がいいっス!」と食い気味に反論してきた。
「今できることを後回しにしても、何もいいことないっス。これは習慣の問題っス」
累はいつも曇った瞳をしているのに、今は瞳が真剣だ。声のトーンもいつもと違う。彼は真面目にオレに訴えかけているようだった。
そう気付くと、急に胸がズキンとする。後回しにして好いことが無いという言葉には、思い当たる節がある。事件の後、抜け殻状態になって、何カ月も無駄に生きてきたオレ…。
「でも、気分が乗らない時は?無理にやっても良いことは無いだろ?」過去の不甲斐なかったオレ自身を弁明するように、累に問う。
「それは甘えっス。先延ばしにする口実作っているだけっス」
「気分なんて自分の気持ち次第なんで、兎に角やれる時にやるのが一番ス」
既に洗濯物を何時畳むかの話ではなくなっている。累もオレの過去を知っているんだろうか…。
「それでも、死にたくなる程辛くて、何もできない時はあるだろ?」
そう尋ねるが、累は視線を外さない。その瞳はまっすぐにオレを見つめている。
「そしたら、その気になるまで待つんスか?それは何時スか?」
「『いつか』と『もしも』の未来ほどあてにならないものは無いっスよ」
累の口調に淀みが無い。そして、そう言い切った累の瞳に光が宿り、更に真剣な眼差しでオレを見つめた。
「その場合は、自分で期限を決めればいいっス。悲しんで落ち込む期限を」
「例えば、1週間て決めたらそれ以上は引きずらずに、1週間後には元に戻る」
「できるだけ早く動くに越したことは無いっス」
「それが自分の未来の為にできる一番いいことっス」
何だろう?これは哲学か?オレが二の句を継げずにいると、累の目元がふっと軽くなった。
「でも、師匠は今、死ぬほど洗濯物畳みたくないわけじゃないっスよね!」と言って、オレがぶら下げていた袋を取り上げ、中の物を机の上に広げた。
「おれも手伝いますから、今畳みましょう!」
呆気に取られているオレを尻目に、椅子に腰かけ、どんどん畳んで片付けていく累。オレも椅子に座って、洗濯物を畳み始めると、累は何やら満足そうだ。
そして、オレの下着を手に取った累は、両手で掴んで開いて「めちゃデカっ!」と大げさに驚いておどけてみせた。
「こんだけの大きさじゃなかったら、師匠のもの収まんないスもんね~!」って、またそのネタか!
オレが累の手からそれを奪って「下着はオレが畳むから、累はTシャツ畳んでくれ」と言ったら、累はケタケタと笑った。
・・・うん、いつもの累に戻った。
最近、累と話をすると、度々こんなシーンに遭遇する。今まで他の誰からも言われたことも、聞いたこともないようなことを、オレに訴えかけてくることがある。そんな時は、累の特別な一面を見たような気がする。
正直以前は、累を我儘な金持ちのボン位にしか思っていなかった。ジムの皆もそう思っているだろう。でもよくよく考えると、それはおかしな話なんだ。
何故なら、累は驚く程ストイックに、自分の体を作り上げてきたと思うから。
彼の肉体は、決して生まれつき恵まれているものではなく、恐らく後天的な己の努力で作られたもの。
それにダンスバトルで優勝経験もあると聞くが、種目によっては、その場で相手に合わせてアドリブで踊るらしい。バトルという位だから、対戦相手に応じて攻撃や防御を変えるんだろう。積み上げたスキルと的確な判断が無ければ勝てるはずがない。
そう考えたら、けっして我儘でバカな者では成し遂げられないはず…。
そんな風に累の人物象に疑問を感じていると、やがて累の本性が明らかになることが起こった。
「株式会社を作りましょう!」
それは、オレのメソッドを売るための株式会社を作ろうという、累からの提案だった。




