47 海へ
静香は手元のありったけのお金をかき集めた。銀行のカードも持った。
キャンバスショルダーバッグにスケッチブックと水彩の道具と、そして2Bの鉛筆と消しゴムを1コ放り込む。
少し踵のすり切れたスニーカーをはいて、静香はそのままアパートを出た。
ここに居ちゃいけない。
この薄暗いアパートに居たら、あの扉がまたおいでおいでをするかもしれない。
ミロク天使は救いにならない。
いや、ヘタをすれば恭しく扉を開けるドアマンこそ、ミロク天使かもしれないのだ。
ここに居ちゃいけない。
静香は、あの下呂で見たような光が欲しかった。
色彩が欲しかった。
どこかへ行こう。
景色を見に・・・。
ふいに、於久田先生の顔が浮かんだ。
ースケッチは描けましたか?ー
名古屋駅にまで出てから、静香はそこで迷った。
どこへ行こう?
下呂・・・は、やめた方がいいかも・・・。
あそこは思い出の色が強すぎて、悲しくなるだけかもしれない。
行ったことのない場所へ行こう。
海。
が見たいかな。
静香は海を見たことがない。
海なし県に住んでるわけではないけれど、小さい頃から家族で海に行ったりしたこともないのだ。
どうせなら水平線が見たいかな・・・。
コンコースで立ち止まって、スマホで地図を見てみる。
ここに来てからやるかな——。
相変わらず無計画・・・。と静香は少し自分が可笑しくなる。
太平洋が見える鉄道線は・・・?
静岡の方に行く東海道線と、熊野の方に行く紀勢本線がある。
風景的に魅力的なのはそっちかな・・・と思えた。
できるだけ海岸線を走る路線選択として、まず近鉄線に乗って、それから松阪で紀勢線に乗り換える——というのが費用的にも安そうだった。
JRの駅から近鉄線の駅まで歩いている途中で、バッグの中のスマホが着信音を鳴らした。
慌てて取り出すと、忍からだった。
『ごめん! 講義中だったんだ。なんかあったの?』
「あ・・・、いや。ちょっと声が聞きたいと思っただけ・・・。」
・・・・・・・・
『試験、・・・ダメだったのか?』
「受けてないんだ。」
『は?』
『なんで?』
「予備校のお金、続かなくなっちゃって・・・。」
『なんでわたしに相談しなかったの!?』
・・・・・・・・
「そんな、迷惑かけられないし。うちにお金がないわけでもないし・・・。家を避けてるのは、わたしのワガママだから・・・。」
『今どこに居ンの?』
「名駅。」
『よし、そこ動くな! 今から早退していくから!』
「いや、大丈夫だよ。スケッチ旅行に行こうとしてるだけだから。忍、授業があるんでしょ?」
静香が笑う。
ちょっと力のない笑いだ。
『どこへ?』
「えっと、熊野の方。海が見たいな・・・って。」
『変なこと考えてんじゃねーだろな?』
もう1回静香は笑った。
「大丈夫だよ。考えてないから。——そういうことしないために、風景を見つけにいくんだから。」
嘘ではない。
あの扉を覆い隠す風景を、できればまたあの色彩を、探しに行こうとしているのだ。
静香は生きようとしている。
生き延びようとしている。
あの25歳の青年とは違う。
あいつみたいに、扉を開けたりはしない!
『帰ってきたら、スケッチ見せろよ。於久田先生にもだぞ?』
静香は思わず微笑む。
崖から飛び込んだりしないように、防護柵を作ってくれようとしている。
「大丈夫だよ。約束する。心配してくれてありがとう。」
近鉄の駅に入る前に、静香はデパートの文具売り場でポストカードを買った。
画仙紙の10枚入りのやつだ。
向こうでいいのが描けたら、忍に真っ先に送ろう。




