44 現実との狭間で
空気・・・か。
と静香は思った。
静香は今まで「モノ」しか見ていなかった。
そこに反射する光や色や・・・。
でも、たしかに、モノのまわりには空気がある。
いや、空間がある。
そういう意識で見てみると、これまでとは違って石膏像のまわりの空間も含めた立体感が見えてきた。
すると、モノが在る、ということの感動のようなものが静香の内に湧き上がってきた。
モノが在るから、空間が在る。
空間が在るから、モノが在る。
それを、どうやって表現すればいいのか?
木炭1本で・・・・。
「おお? なんか、萌百合さんもよくなってきたねぇ。響くんのいい影響が出てるかな?」
古瀬先生が静香の後ろでそんなことを言って、静香は少しどきっとする。
杏奈がちょっと焦ったような顔で、静香のデッサンをチラ見する。
響くんは自分のデッサンに集中したまま・・・のようなそぶりで、少し頬を染めた。
たしかに、杏奈が見ても静香のデッサンはこれまでとは段違いに立体感が出てきている。
「ど・・・どうやってこんな短期間に上達したの?」
古瀬先生が他へ回っていってから、杏奈がこそっと静香に訊いてきた。
「この間、響くんが言ってたみたいに、まわりの空気を描こうと意識してみたんだ。」
「ふ・・・2人して言ってることが分からんぞ??」
静香は翳りのない笑顔を見せた。
同じ目標を持って美大予備校に通う仲間たちのいる世界は、静香には居心地がよく、未来が見えるような気がした。
しかし、そんな予備校でのやりとりと熱も、アパートに帰ると一気に冷めるような心地がする。
「食費・・・かかり過ぎてるかな・・・。」
かなりしっかり節約してるはずなのだが、口座の残高が遅々として増えない。
このままでは後期の授業料が払えなくなる・・・。
画材代のことが頭からすっぽり抜け落ちていたのだ。
今はまだ、デッサン用の木炭や紙だけでいいけれど、2次試験に備えた油や水彩の課題のための画材も必要になる。
描いた枚数が合否を決める——というなら、キャンバス代だってバカにならない。
どうしよう?
バイト時間増やそうか・・・。
それで予備校の課題と両立できるだろうか?
親に泣きつく?
・・・・・いや、だめだ。
お父さんは出してくれるだろうけど、お母さんが後で必ず何か言ってくる。
最悪、家から通えるところに変われって言われかねない。
静香はバイト先に時間の延長を願い出ることにした。
これまでは店出しや倉庫整理の裏方中心だったが、接客やレジの絡むカウンター業務のシフトも割り振られることになった。
「いやあ、人手は慢性的に不足してるから、助かるわぁ。静香ちゃん。」
店長はそんなふうに言った。
だが、実際に動き出してみると、けっこうキツいことになった。
そもそも、接客というのは静香の最も苦手とする分野なのだ。
「ふつう常識でしょ? そんなの!」
などと言われることが増えた。
ふつう
じょうしき
しばらく遠ざかることのできていたその言葉は、錆びついた刃物のようにして静香の胸をえぐっていった。
鋭利な刃物でない分、傷の痛みがエグい。
慣れなきゃ・・・。
お金、要るんだもの・・・・。
静香は、何を言われても営業スマイルを絶やさないように努力した。
ある意味教団でやっていたことだから、これについては年季は入っているはずだ。
が・・・・
どうやら、教団の常識はここでも通用しないようだった。
「あのさあ。そういう貼り付けたみたいな笑顔、気持ち悪いんだよ。もう少し、自然にできないの?」
そして、ある日。
店長にこんなことを言われた。
「悪いんだけどさあ、萌百合さん。元の時間に戻して、裏方に回ってくれるかな? 頑張ってるのは分かるんだけどさぁ。お客さん減っちゃうと、ウチも困るんだよね。」
「それか、いっそのこと、全部他の人と代わってもらえるとありがたいんだけど。」
「他って・・・どなたと・・・?」
店長は鼻で、ふっと笑った。
「そういうとこな。」
まごつく静香の前で、店長の顔からすっと笑いが消えた。
「鈍いというか、伝わんないんだよね。はっきり言わないと・・・。」
「同じ人件費払うなら、もっとちゃんと仕事できる人に取り替えたいってこと。」
静香はバイトをクビになった。




