34 家庭という幻想
萌百合雄策が出張先のインドネシアでその連絡を受けてから日本に帰るまでに、引き継ぎやら何やらで4日を要した。
心美は見るも無惨なほどにやつれていた。
責めるまい。
と雄策は飛行機の中で自らに言い聞かせてきたが、目の色にはそれが出てしまったようだった。
心美もまた、雄策に対して責めるような目をしている。
家を空け過ぎたんだ・・・。と、それだけは雄策にも分かった。
苦い後悔が食道を逆流して口の中まで広がってゆく。
「それで・・・」
雄策はできるだけ声を落ち着かせるようにして口を開いた。
「静香は、無事なのか?」
少しの沈黙の後、心美が声を絞り出した。
「岐阜で保護されたって・・・。」
「なぜ・・・」そんな所まで・・・と雄策は思った。
「知らないでしょ?」
心美が低い声で呟くように言う。
やつれた顔に、目だけが異様に光っている。
「家のことなんて、なんにも知らないでしょ?」
いつも帰ってくるたびに暖かく迎えてくれていた心美の、そのあまりの変わりように雄策は狼狽えた。
「なんで・・・家出なんか・・・?」
声の中に、思わず責めるような響きが出てしまった。
「わからない・・・」
心美の目の異様な光が強くなる。
「わからない。わからない! わからない! わからない!」
フローリングの上に座ったまま叫び始めた心美を、雄策はひざまずいて背中から抱きしめた。
幸せにするはずだったのに・・・。
心美も静香も幸せにするために身を粉にして働いてきた。はずなのに・・・。
オレは、どこで間違った・・・?
「あの子・・・、クラスメートが亡くなってショックを受けてた・・・。でも、ちゃんとお祈りしてたのに・・・」
雄策の腕の中で、心美がか細く震えるような声で呟いた。
「そんなこと言うはずがありません! あの子が!」
2人して児童相談所に出向き、すぐには帰せない理由を聞かされた時、心美はそう叫び、雄策はようやく何が起こったのかを悟った。
この時になって初めて、雄策は心美が入信していた宗教が『宇宙の真理』だったことを知った。
心美が、その教団に多額の寄付を繰り返していたことも初めて知った。
足かけ15年もの間——。
家庭を守るためだと信じて稼いでいた金が、そんなところに消えていたということを。
心美の言うとおりだ。 と雄策は思った。
家のことを何も知らなかった・・・・。
静香は「宗教の家には帰りたくない」と言っているらしかった。
「お子さんの精神面でも教育面でも、帰らせていいものかどうか、専門家の診断を待ってからになります。」
あの『宇宙の真理』ですから——と言外に匂わせていた。
心美はそれに激しく反発した。
狂態を演じる心美を抱き止め、なだめ、とにもかくにも「今日は帰ろう」と雄策は家に連れて帰ってきた。
「明日また行こう。そして、もう少し落ち着いて話そう。——な? ココ。」
・・・・・・・・・・
「・・・うん・・・。」
しばらくの沈黙の後、心美が小さくうなずいた。
なぜ・・・、こんなことになった?
なぜ、今まで気づかなかった?
オレは幸福な家庭を手に入れた——と思っていた。それを守るために戦っていたはずだった。
それが・・・・
いつの間にか、古木にウロができるように、内側から腐っていた・・・。
帰ってくるたびに、全身を笑顔にして飛びついてきていた小さな静香。
結婚して以来、いつも全身で慕い続けてくれていたはずの心美。
その心美の心は、いつの間にか得体の知れない宗教に取り込まれてしまっていて、娘は深夜に家出して帰ることを拒絶している。
なぜ、こんなことに・・・?
とにかく・・・、答えの出ないことを考えていても仕方がない。
今は・・・、心美に寄り添って・・・。
静香を迎えられる環境を整えて・・・。
家庭を、取り戻さなくては・・・。目的と手段がずれているのだから、それを修正する。
目的を、明確にして、具体的に、1つずつ、クリアしていく。仕事の問題を片付ける時と同じように・・・。
そう雄策は思考の焦点を絞った。
翌日、雄策は会社に電話をして事情を説明し、落ち着くまでしばらく休職したいと申し出た。今の心美の精神状態では、目が離せない。
上司も、事情が事情だけに——と言ってはくれた。 一応・・・。
「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」
突然のこんなわがままをすれば、会社には居づらくなるだろうな。ひょっとすると遠回しに退職を促されるかもな・・・。
そう思いながらも、雄策はいちばん初めに誓った初心を思い出して自分を鼓舞する。
心美を守る。
静香を守る。




