3 母の狂乱
「何も薬は飲ませたりしないから、とにかくベッドで休もう。」
という先生の言葉に従って、結局静香は保健室まで来てしまった。
保健室に来てしまったことが怖い。
「保健室には行かず、家に帰ってきなさい。」という母親の言葉が、静香の首筋から背中にかけてトリモチのように絡みついて、灰色の粘っこい不安の中に少しずつ静香を沈めようとしていた。
先生は約束どおり、何も薬を飲ませたりはしなかったが、静香はベッドに横になっていても落ち着かなかった。
早く、家に帰らなくては・・・。
帰って祭壇の前でお祈りをしなくては・・・。
一方で静香は、この不調が自分の中にある違和感によってもたらされていることを、ほとんど直感的に感じ取ってもいる。
お祈りはただの気休めだ。
静香の理性は、そんな言葉を脳のどこかに漂わせてもいる。
ただそれは、漂っているだけで、どこかにしっかりと根を下ろすことはなく、やがて静香はそれを見失った。
いつの間にか少し眠ってしまったらしい。
保健室の入り口の扉を乱暴に開ける音で、静香は目を覚ました。
「静香! 大丈夫なの? あなた!」
甲高い母親の声がして、静香はそちらに顔だけを向けた。
すごい形相の母の顔が見えた。
「何か変な薬、飲まされなかったでしょうね!?」
そのあまりの剣幕に、少し怯えながら静香は答える。
「何も・・・。少し寝ちゃっただけ・・・。」
母親はベッドの脇にひざまずき、両手で急いで印を結ぶと、その手を静香のお腹の上に置いて目を閉じ、小さな声で破邪文を唱えた。
それから立ち上がって、保健の先生に向き直る。
「どうしてすぐに連絡をよこさなかったのです?」
表情が険しい。
「す・・・少し横になって、休ませた方がいいと思いまして・・・。」
「それは、良いとしましょう。なぜ、保護者にすぐ連絡をよこさなかったのです? 学校にもうちのことは伝えてあるはずですよね? 体調が悪ければ、すぐに祈祷しなければならないことは——。何かあったらどうするんです!?」
保健の先生も、少し気色ばんだ。
「何かあったら救急車でしょう!」
「バカなこと言わないでください! 何のために学校にうちの宗教について伝えてあると思ってるんですか!? まず、保護者である私に連絡と言ってあるでしょうが! 私がついていなくて、禁忌の薬剤を注入されてしまったら、どう責任取るんですか!?」
保健の先生は母親の剣幕にたじろいだ。
目を泳がせて、静香の方もちらちらと見る。
「し・・・しかし、今回は大したことありませんでしたし、もし命に関わるようなことであれば、宗教の教義とか言っている場合では・・・」
「素人のくせに、神の言葉も読んだことないくせに、何勝手なこと言ってるんですか! そのためのご祈祷であり、神薬なんです! このことはもう十分学校側とも話し合ったはずです! あなたでは話になりません! 今すぐここに校長を呼びなさい!」
これが・・・、いつもは「穏やかに、神の祝福を伝えてゆきなさい」と言っている母親のとる行動だろうか・・・?
感情が激しやすいところのある人だが、それにしても・・・、今のこの狂態は・・・。
静香は、これを恥ずかしいと思った。
思って、止めたいと思ったが、止める言葉が見つからない。
「お母さん。」
保健の先生にくってかかっていた母親が、その顔のままでふり向き、そして自分の表情のことに気がついたのだろう。無理矢理な優しい顔を作って静香に見せる。
静香にはそれが、ただの歪んだ顔にしか見えなかった。
オカシイヨ。コノヒト・・・。
「お母さん、家に帰ってご祈祷して・・・。」
静香なりに必死に考えた抑止の言葉だった。
母親はようやく我に返ったようだった。
「ああ、そう。そうだわね。大事な静香のことを忘れてごめんなさい。」
母親はベッドの脇にきて静香の手をとる。
「起きられる? 車まで歩ける?」
静香は小さく頷いて上体を起こした。
保健の先生が、なんとも言えない顔で静香を見ている。
静香は母親に見えないようにして、軽く保健の先生に頭を下げた。
あの事件があってから、むしろ静香の中では歪みが大きくなった。
いや、歪みというより、亀裂が入ったと言った方がいいかもしれない。
静香は2つの静香を使い分けし始めた。
学校の常識(と静香が思っているもの)に合わせて暮らす静香、と、母親の信仰を全面的に信じているふりをする家での静香。
クラスでは、これまでみたいに1人で席に座っているのではなく、集まって何かを談笑しているグループがあるとその近くに行くようにしてみた。
話の輪に加わるのではない。ただ、端の方にいて話を聞いているだけだ。そもそも、話そうにも静香の方から話せるような話題が何もない。
家では、これまで以上に敬虔な信徒のふりをした。
そうすると、母親は機嫌がよかった。
父親は海外に単身赴任している。家にいることは年に何日もない。
ただ、お金だけは銀行に振り込まれるから、静香の家は収入がないというわけではなかった。なかったが、父親に叱られない程度には抑制しながらも母親はかなりの額を教団に寄付し続けていたので、決して裕福でもなかった。
当面はこれで、上手くやっていけそうだ——。
静香は新しい身の処し方を見つけたように思ったが、それは長くは続かなかった。