22 出会い
父親はクズだった。
じっとしていなければ殴られた。
怖い。
痛い。
気持ち悪い。
母親の再婚相手である「父親」のすることが、心美には何であるかが分からない。
幼い心美は、逆らうことも、何かを言うこともできない。
泣くことすら恐ろしくてできない。
その時間が過ぎるのを、ただじっと待ち続けることしかできない。
母親が再婚して間もなく、「父親」は心美を性的欲求の対象として扱った。
母親はいつの頃からか気づいていたようだったが、「父親」には何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
やがて「父親」が母親に振るう暴力も激しくなり、心美は出口のない暴力の闇の中に閉ざされてしまった。
その闇の中では、巨大なヌメヌメとした悍ましい芋虫のような蟲が何匹も、口からねばねばした涎を垂らして心美のまわりで蠢いていた。
その化け物が心美を押しつぶそうとのしかかってくる。
そいつは、暗闇の中で遠雷のような、妖怪の叩く太鼓のような音を響かせていた。
ドン ドロロロロロ
ドロン ドン ドロロン
ドロロン ドロロン ドロンドン
その音が心美の耳に常に響き渡り、やがて心美は痩せて目ばかりぎょろぎょろした子どもになっていった。
心美の外見がそんなふうになると「父親」は心美には興味を失ったようで、もっぱらその暴力は母親の方に向かっていった。
しかし、心美の闇の中には相変わらず、ドロロンドロロンいう音が聞こえ続けている。
心美はその音から逃れようと、耳を押さえて目ばかりをぎょろつかせていた。
母親が「父親」を殺したのは、そんな頃だった。
寝ているところを包丁でめった刺しにした。
その血だらけの手で心美を抱きしめて何かを言っていたが、心美にはただ、ドロロンドロロンいう蟲の蠢く音だけが聞こえていた。
心美は小学3年生で児童福祉施設に預けられた。
一応、外形上は暴力から解放されたことになる。
しかし、蟲の這う音は心美の耳から離れることはなかった。常に鳴り響いていて、特に男性が近づくとそれは雷鳴のような大きさになった。
ドン! ドロロロロン ドロン ドロロン! ・・・・・
心美は男性の擁護教員にも同世代の少年にも近づこうとしない子だった。いつも耳を押さえて恐怖の色を目に宿していた。
当然、普通に学校には行けないから、施設の中で女性教員が勉強を見た。
施設の大人たちも、そんな心美をを社会に馴染ませようとさまざまな努力をしてくれてはいた。
そういう努力の甲斐あってか、6年生になる頃には心美も2人だけでなければ男性教員の授業を受けることができるようにはなっていった。
・・・が、相変わらず不特定多数のいる学校へは行けなかったから、他の登校できない児童と一緒に施設内での個別学習を受けていた。
そんな心美も中学生になると、保健室に「登校」できるようになる。
やがて心美は少しずつ普通の生活に馴染んでゆけるようになった。
男性が近づくとあの音が響くのは同じだったが、それでもそれは少しずつ小さくなっていて、現実に耳に聞こえているのではなく、頭の中で響いているのだということを心美はもう理解していた。
心美は頭はよく、勉強はできる方に入ると言っていい。
それでも高校受験を控えた3年生になると、学校の授業をちゃんと受けられていないのは不利だろうと職員たちは慮った。
施設の予算もあまりあるわけではなかったが、学校に行けていない中学生のために家庭教師を1人増員することになり、心美もその生徒に加えてもらった。
やって来たのは雄索という名の男子大学生だった。教えるのが上手く、穏やかな眼差しの青年で、年齢よりもずっと大人びて見えた。
初め男子大学生ということで施設の職員たちは心美のために心配したが、意外にもそれは杞憂に終わった。
不思議なことに、この雄索さんの前では心美の耳に響き続けているあの音は大きくなったりはしないのだ。
なぜだろう?
と心美自身も考えてみる。
そういうことができるほどには、心美も自分自身を冷静に見ることができるようになっていた。
少し中性的な感じがするせいかもしれない。
それに、とても優しいお兄さんだ。勉強の教え方も分かりやすい。
心美には兄弟はいない。
でもきっと、「お兄さん」というのはこんな感じなんじゃないか・・・。
心美は勉強を教えてもらいながら、ふと、そんなことを思ったりした。
そうして心美は高校に合格する。
あえて共学の公立高校を選んだ。
心美はもう、幼い心美ではない。自分なりに前に進もうとしている。
しかし現実は心美の前に立ちはだかった。
実際に高校に通い始めてみると、心美の耳にはまたあの音が大きく響き始めた。やはり男子とは上手く向き合うことができない。
特に、年頃の男子の眼差しが、どうしてもあの「父親」のそれに重なるような気がした。
吐き気が襲い、体が震えた。
それを隠しきることができない。
結局、高校も保健室登校でなければ休みがち、という状態になってしまった。
ただ、そんな心美にとっての例外は雄索さんだった。
この人といる時だけ、あのドロロンドロロンという音は大きくならないのだ。
雄索さんはその後2年間、施設に家庭教師のアルバイトに来ていた。
その頃になると彼も、心美がなぜ男性とまともに向き合えないのか、その事情を知らされていた。
そんな心美が雄索さんにだけは懐いている。
いや・・・懐いている、というよりあれは・・・。
雄索さんの方も、心美に対して「生徒」以上の気持ちを持っているように見えた。
ただ年齢よりも大人びた雄索さんは、あまり軽率にそういう感情を表には現さず、あくまでも施設の子どもたちのための家庭教師という姿勢を崩さなかった——。
心美自身は、気がついているのかどうか。
「あの2人の出会いは、神様の采配かねぇ。」
「幸せになってほしいよね。」
心美を子どもの頃から看てきた職員たちは、そんなふうに噂しあった。
男性というものに対して激しい拒絶反応が出る心美という少女にとって、雄索さんは人並みの人生への入り口のように職員たちには見えた。
だが、問題は目の前に迫っている。
こうした福祉制度の限界だった。
心美はまもなく18歳になる。
法で保護される「児童」ではなくなるので、施設を出なければならない。
しかし、雄索さん以外にまともに男性と話すことのできない心美が、社会に出てはたして自立できるのか。
心美は勉強の成績だけは、そこそこ良い。
しかし、この状況で大学に通えるとは思えないし、そもそも学費を払うことのできる経済力もない。
返済不要の奨学金をもらえるほどの成績ではないし、返済の必要のある奨学金を受けたとしたら、必ず就職できなければ負債だけが残ることになる。
男性とまともに話もできない心美に、就職できるような会社があるだろうか。ここを出て、彼女は生きていけるのだろうか?
施設の誰もがそんな心配を抱えていた頃、心美に手を差し伸べた人がいた。
しかもそれは、誰も予想だにしていなかったものだった。




