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20 於久田先生

 忍の話を聞いた於久田先生は、しばらく2枚の描きかけの絵をじっと眺めていたが、やがて忍の方を振り返って

「大丈夫ですよ。たぶん・・・。こういう絵は・・・。」

と小さく言った。

「大丈夫です。戻ってきますよ。萌百合さんは・・・。」


「この赤は・・・」

 於久田先生は再び汚された天使の絵の方を向く。

「萌百合さんの中に溜め込まれていた何かです。それを吐き出せたんです。」

 先生は、ふっとわずかに笑顔を見せた。

「前にも言いましたでしょう? 絵でしか表現できないものもあるんですよ。言葉では表現できない・・・。」


 それが、あの赤い鬼の顔なのか・・・?

 忍はむしろ不安になる。


 いつも、少し弱々しそうな、おとなしいと言った方がいい静香が、その中にあんな怒りを溜め込んでいたというのか・・・?


 その「怒り」は、親とか宗教というものに対する、それらが標榜している「愛」や「優しさ」に対する憎悪なのでは・・・?

 あの鬼の顔は、どう見ても禍々しいものでしかなかった・・・。


「そして、それを阿形さんの目の前で削り取ってしまったんでしょう?」

 先生は忍の不安を見透かしたように、微笑をたたえてそう言った。

「その全部が『作品』です。無意識の『インスタレーション』ですよ。大丈夫。彼女は呑み込まれたりしてはいませんよ。吐き出すことができただけです。」


「さあ、もう遅いから帰りましょう。明日も美術室は開けておきますから。心配なら、彼女のスマホに電話してみたらどうですか?」


 そうだった・・・。と忍は、今ようやくそのことに気がついた。

 それさえ思いつかないほど、忍には衝撃的な出来事だった。


 だが、忍はスマホを手にしてから、電話をするのはやめることにした。

 今、自分がどんな声を出せるか分からない。

 忍はSNSでメッセージだけを送った。


『大丈夫?』

 既読はついたが、何の返事もなかった。

 しばらく時間が経ってから

『大丈夫』とだけ返事が返ってきた。


 忍は小さくため息をついてから、三谷歩夢に電話をした。

「ちょっと・・・、相談に乗ってほしいことがあるんだけど・・・。」



   *   *   *


 翌日、忍が美術室に登校・・してみると、萌百合静香はそこにいた。

 あの天使の絵についた赤い汚れをできるだけ落とそうと、ウエスで丹念に拭き取っているところだった。


 於久田先生が忍に、ほらね、という感じで軽く目配せした。

「なんか、うまく描けなくてヤケになっちゃったらしいですよ。」


 それは、先生に対する表向きの言い訳だろう。

 と忍は思う。

 昨日のあの鬼気迫る空気は、そんな軽い言葉で表現できるようなものじゃなかった。



 静香自身も、実はよく分かってはいない。

 あれは、ヤケになった、ということなんだろうか?

 そうであるような、ないような・・・。

 自分の中に嵐のように巻き起こった感情がいったい何なのか、静香は把まえられないでいた。


「こういう、全く違う色が下に隠れていると、絵に奥行きや力が出たりするもんですよ。そういう技法があるんです。」

 於久田先生にそんなふうに言われて、静香はこの上にもう一度仕上げの色を乗せていくことにしたのだった。

 とりあえず、描き上げないと・・・。


「昨日はびっくりさせちゃったよね・・・。ごめんね。」

 そんなふうに言う静香に対して、忍は

「ああ、うん。びっくりはした。」

としか言えなかった。

 他のどんな言葉をかけても、今の静香にどう届くか分からない。



 静香が前の天使の絵をなぞりながら新しく絵の具を乗せ始め、忍が自分の風景画と格闘し始めてしばらくした頃、三谷歩夢が美術室にやってきた。


「よほぉーい。陣中見舞いに来たぞぉ。あれ? 2人だけ?」

「陣中見舞いと言うからには、なんか持ってきたんだろーな?」

 忍がすぐにリアクションする。

「おう。甘いもの買ってきた。先輩方も居るかと思ってけっこう買ってきちゃったよ。甘いの苦手な人いる?」

「いませーん!」

と忍が小学生みたいに手を上げる。


 歩夢と忍の掛け合いがテンポいい。

 こういうテンポの中に入るのが静香は苦手だったが、この人たちはそんな静香を置いてけぼりにしたことがない。

 だから、彼らの中にいると静香も普通・・になれたような気がして居心地がいい。

 

「萌もニガテじゃないだろ? 甘いの。」

「あ・・・うん。」

「先生も、どうっすか?」

「いいですねぇ。疲れた脳は糖分を欲しますからねぇ。」

 於久田先生もにっこり笑った。


 実は昨日、忍は歩夢に相談して、先生が言うように静香が来ていたらショートメールで連絡することにしていたのだ。

「そしたら、俺もちょい顔出すから。」

 例によって、歩夢は1歩踏み込んでくれた。


「んじゃ、阿形はお茶淹れな。」

「は?」


「あ、わたしがやります。」

 静香が筆を置いて立ち上がった。



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