19 消えた鬼
「やっほ。萌・・・・」
その日、午後から学園祭に出品する風景画の続きを描こうと3日ぶりに美術室にやってきた忍は、入口の戸を開けたままそこで声を失った。
3日前、ここにきた時には弱々しいが綺麗な天使が描かれていたキャンバスが、今は赤と黒が荒々しく塗りたくられたおどろおどろしい何かに変わっている。
そのキャンバスの前でペインティングナイフを握り、まるで絵そのものを叩き壊そうとするように静香がそれをキャンバスに叩きつけている。
目が異様に光り、忍が入ってきたことにも気づいていないようだ。
何をしているんだ? 萌は・・・・。
忍はそのまま立ちすくんでしまった。
地下深くのマグマが分厚い岩を溶かし、押しのけて、怒りと共に噴き上がってきたような荒々しいエネルギー。
キャンバスの上に描かれているのは、何かそんなようなものだった。静香のこれまでの作品からは、まるで想像もつかないような荒々しい絵画。
力強く、エネルギーに満ち、そして禍々しい——。
鬼だ。
これは・・・
怒り狂った鬼の顔だ。
静香は、優しそうだった天使の上に、それを押し潰すように赤黒い鬼の顔を出現させている。
それは、描いている静香自身の顔にも、どこか似ていた。
忍は背中から冷気が這い上ってくるような不安に襲われた。
静香が・・・・壊れた・・・?
「萌・・・?」
まるで聞こえていない。
「どうしたの? 萌。・・・萌ってば!」
その声でようやく忍の存在に気づいたらしく、静香はビクッと体を震わせ、それから驚いたような目で忍を見た。
「どうしちゃったの? それ・・・。天使の絵は?」
静香は目を泳がせた。
「あ・・・、ちょっと・・・・。行き詰まっちゃって・・・。」
それから見られてはいけないものを見られた子どもみたいに、慌ててペインティングナイフでキャンバスの表面をこそげ始めた。
塗られたばかりの絵の具はナイフの幅に削り取られ、鬼の顔は縞模様になって消えてゆく。
その下から弱々しい天使の絵が、再び浮き上がるように現れた。
天使は微笑んでいる。
静香は忍から目を逸らしたまま、ナイフで赤と黒の絵の具を削り取っては、ナイフに盛り上がった絵の具の残骸を新聞紙に拭き取ってゆく。
そうして鬼の顔が消えると、静香は、からん、とペインティンクナイフを箱の中に落とし、赤黒く汚れた新聞紙をぐしゃぐしゃと丸めてゴミ用のレジ袋の中に突っ込んだ。
その間、静香は無言である。
口元に微笑みのようなものを浮かべているようにも見えるが、頬がひくひくと痙攣している。
きちんと道具を片付けると、静香は2枚の製作途中の絵を残して美術室を無言で出ていった。
出ていく時、忍とは目を合わせようとせず、小さく首だけでお辞儀のような仕草をしたように見えた。
取り残された忍は、それを呆然と見送る。
「どうしたの? 大丈夫?」
とは声をかけられない。それほどに静香は拒絶の空気をまとっていた。
夕方戻ってきた於久田先生は、そこにいるのが萌百合静香ではなく阿形忍であることに少し驚いたようだった。
「萌百合さんは、もう帰ったんですか?」
「え・・・ええ・・・。」
忍は自分の絵を描こうと思ってここに来たのに、全く手につかなくなり、先生が帰ってくるこの時間まで静香の2枚の絵をぼんやりと眺めていたのだった。
1枚は奔放とも言えるほど色彩にあふれた飛騨川の風景。
もう1枚は、赤黒く汚された天使の絵。
忍はけっこう、静香を気にかけて見ていたつもりだった。
でも・・・・。
これは分からない・・・。
あの、鬼の顔のような赤い絵は、静香の内面の何かを表していたのだろう・・・とは思う。
それは何だろう?
なんだか、忍なんかが踏み込んではいけないエリアのような気がしないでもなかった。
あの拒絶は、そういう意味なんじゃないか・・・?
そんな考えが一瞬忍を縛りつけて、声をかけることも追いかけることもできなかった。
しかし・・・・。
追いかけた方がよかったんじゃないだろうか・・・?
戻ってきた忍の理性が、そんなことを囁く。
早まったことをしないだろうか・・・?
怯んだ自分が情けなく、罪悪感すらじわじわとわき上がってくる。
窓から眺めてみたが、静香の姿は見えなかった。
もう帰ってしまったんだろうか?
それとも学校内のどこかにまだいるんだろうか・・・?
今から探すとしたら、どこを探せば・・・?
止まり木を外されてしまった籠の鳥のように、飛び立つこともできずにただ籠のあちこちをうろうろと忍の心が彷徨っていたところに、於久田先生は帰ってきたのだった。
「帰ったかどうか、分からないんです・・・。」
そうして、忍は見たままを於久田先生に話した。
上手く紡ぎ出せない言葉を、継ぎ足し継ぎ足ししながら。




