17 夏合宿
美術部の夏合宿は、8月の初日から始まった。
行き先は、下呂。
岐阜県の真ん中あたりに位置する有名な温泉街で、飛騨川のほとりにある。
静香たちの高校からは、電車を乗り継ぎ、JR岐阜駅からさらに高山線に乗って飛騨川を縫うように遡ってゆく。
飛騨川は乗鞍岳を源流として岐阜県の東寄りを蛇行しながら縦に流れ、美濃加茂で長野県から中津川、恵那、と流れてきた木曽川と合流する。
渓谷は美しく、鉄道は初め木曽川に、そして飛騨川に寄り添うようにして走りながら、時に右岸へ、時に左岸へ、鉄橋を渡って渓谷の絶景を見せながら絡み合うようにして進んでゆく。
「すご! きれーい!」
「めっちゃ、絵になるじゃん!」
絵になる——とは絵画のことではなく、この場合写真や動画のことだ。
皆てんでに車窓からスマホを構え、移りゆく風景の瞬間を捉えようとしている。
静香は小ぶりのスケッチブックを取り出し、色鉛筆で印象に残った風景を描き留めようと画用紙の上を滑らせ始めた。
風景は秒単位で移り変わっていく。
正確にデッサンすることなんかできない。目の中に焼き付いたその印象だけを、メモのように描き留めてゆく。
於久田先生に教えてもらったやり方だ。
その於久田先生は、この合宿にはついてきていない。あくまでもこの「合宿」は、美術部員の「有志」たちによる自主的なものという位置付けだ。
顧問が関与すれば学校にもそれなりの責任が発生するし、生徒たちも堅苦しいだろう。というわけで於久田先生は
「事故などにあわないように、気をつけて。また元気に登校してきてください。美術室は開けてますから。」
と言っただけだった。
3年生は受験があるから、もちろん参加者はいない。
「おおおお。萌百合、美術部員だなぁ!」
静香がスケッチブックを開いているのを見て、部長の鬼島亜萌先輩が大袈裟に目を丸くした。
「あ・・・」
静香はすぐには反応できなかった。
これは、褒められてるのか、揶揄われてるのか、どっちだろう?
亜萌先輩は2年生。快活で行動的な人で、この下呂の合宿のプランもほぼこの部長が1人で作ったらしい。
すらっとしたちょっとだけ美人で、美術部員の中では珍しくいつも制服をキッチリ着ている人だ。
でも今日はなんだかオシャレで、ダブダブのズボンに色を合わせた丸っこい帽子をかぶって、Tシャツの上から男性もののシャツみたいなものをボタンを留めずに羽織っている。
なんか、かっこいい。
こんなセンスって、どうやったら身につくのかな?
静香はあとで「ダブダブのズボン」はパラシュートパンツと言い、帽子はキャスケットと言うのだと忍に教えてもらった。
そういう言葉さえ知らないなぁ・・・、わたし。
「まあ、スケッチもいいけど、スマホで撮っておいて、後からそれ見て描くって方法もあるよ。写真はコンマ何秒の瞬間を捉えるからね。」
亜萌先輩にそう言われて、静香はスマホでも撮ってみることにした。
それが普通なのかな・・・。だから、みんなそうしてるのか・・・。
だが・・・。
静香は運動神経が鈍い。
スマホは構えてみるものの、「あっ」と思った瞬間を上手くシャッターボタンで捉えることができない。
一番いい瞬間を通り過ぎてしまうか、思いっきり手ブレして何が写っているか分からない画像になってしまうことがほとんどだった。
「・・・・・・・」
「あはは。」
と亜萌先輩は快活に笑った。
「そっか。萌百合ちゃんには、スケッチブックの方が合ってるかもね。うん。いいんじゃない? 美術部員だ!」
背中を、ぽん、と軽く叩く。
たぶん・・・、励ましてくれてるんだろう。(・ω・);
* * *
宿は、わりと駅から近いところにある旅館で、一応温泉付きではあるが、外観はくたびれた感じのビルだった。メインの観光地のある温泉街からは、川の反対側にある。
早朝に出たので、午後の早い時間に着いた。これなら、初日の午後から描き始められる。
「安くて、温泉もあって、大部屋で、絵の道具持ち込んでも文句言われない。全条件を満たすベストな選択肢は、これだったんだな。」
鬼島亜萌部長が、えっへん、といったドヤ顔で胸を張った。
和室2部屋を2泊3日キープしてあって、男子3人、女子4人でそれぞれの部屋に泊まる。
部屋に浴室はなく大浴場のみだったが、どうやら風景の眺められる露天風呂もあるらしい。
「足湯、浸かりに行こう! 足湯!」
「下呂まで来て足湯浸からないなんて、あり得ないよね。」
早速、そんな会話が飛び交う。
美術部の合宿・・・なんだよね?
と、静香は思ったが、こういうものなのかもしれないな、普通は——。とも思う。
なんだか、楽しい。
静香は旅行というものに行ったことがない。
物心ついた頃には、父親は滅多に家に帰ってこない状態だったし、家族旅行なんて行ったこともない。
旅行に行けないほど収入がないわけではなかったが、母親が教団に献金してしまうので、家にはいつもあまりお金はなかった。どこかに出かけるといえば、教団の教会か研修施設ばかりだった。
中学の時は、「友達」とどこかに行くような誘いは1つもなかった・・・。
何もかもが、初めての経験だった。
「よおっし! じゃあ、足湯に浸かりに行きながら、みんな自分の写生ポイントを探しに行こう!」
亜萌部長が両手の拳を突き上げて、高らかに宣言した。
「ぃやったあ——!」
「おっしゃあ——!」
静香もみんなに倣って片手を突き上げてみる。
わたし。普通になれるかもしれない! 美術部を通して——。




