表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/52

16 夏休み

 夏休みが始まった。


 一応進学校であるため、夏休みといっても宿題はあるし、希望者には補習授業も行われる。塾に行けない子対策であった。

 静香の家は、塾に行くようなお金はない。母親が全て教団につぎ込んでしまうからだ。


 静香も別に塾に行きたいとは思わない。どうせ浮き上がってしまうだけだ——ということが分かっているから。

 それよりも、できる限り教団の活動からは逃げたい。

 クラスメートの多くが塾と遊びの予定で夏休みの日々を埋める中、静香は補習授業を口実に利用した。

 それでも週3日、駅前のパンフレット配りや清掃活動に駆り出されることになった。


 清掃はまだいい。

 それほど奇異な目で見られないから。


 辛いのは清掃の後、パンフレットを配る活動だった。

「あなたの幸せを祈ります。」と言って微笑んで、駅前のデッキを急ぐ人の胸の前にパンフレットを差し出すのだ。

 受け取ってくれる人は少なく、たいていは胡散臭い目で一瞥をくれてわざと足を速めるだけだ。

 それでも、貼りついたような微笑を絶やさない。神の慈愛を体現しなければならない。


 静香にはそれが辛かった。

 こういう時期だからマスクは許されていたが、それでも知った顔に出会うのではないかと思うと恐怖だった。

 それを気取られないように笑顔をつくる。

「マスクしてるんだから、目はできる限り神の慈愛を伝えられるようにね。」

 母親のそんな言葉に、ともすればせり上がりそうな吐き気を抑えて、静香は必死に笑眼をつくっていた。


 ワタシコソゼンゼンシアワセジャナイヨ?




 補習授業のある日は、静香は必ず美術室に行った。

 そこで絵を描いている時だけ、静香は嫌なことを忘れることができた。

 時々、補習授業がない日も、母親に嘘を言って学校に来て美術室に入り浸った。


 警備室で鍵を借りなくても、美術室はたいてい開いていて、そこに於久田先生がいた。於久田先生は誰もいない美術室で、自分の作品を描いているのだった。

「家のアトリエで描いてるより、広いですからねぇ。」

 於久田先生はそんなふうに言う。


「美術部の顧問ですから、美術部が活動しているときはできるだけここにいないとね。」

 そうは言っても、市民展の作品を描き上げてしまった栗真先輩は出てきていないし、美大を目指している3年生の御堂先輩は予備校の夏期講習に行っている。

 補習授業のあるときは忍や他の部員も顔を出すことはあるが、基本的には補習授業のない日に美術室に来るのは静香しかいない。

 静香の家庭の事情を知っている於久田先生は、そんなふうに言いながら静香のために美術室を開けてくれているのだろう。


 そんな於久田先生の描く絵は、筆のタッチが少しセザンヌに似ている。が、色合いはもっとずっと優しくて春霞がかかったような風景画だった。

 静香が見たことのない異国の風景だ。

「これ、どこなんですか?」

 そんな質問ができるほどに、静香はこの於久田先生に心を許すようになっていた。

 於久田先生は今のままの静香に対して、他の子に対するのと変わらない調子で話してくれる。


「サントーニャです。スペインの——。」

 そう言って先生はスケッチブックを開いて見せてくれた。

 その異国の風景が、素早いタッチの水彩で何枚も何枚も描かれていた。

「現地でね、感じたものを感じたままに、こうしていっぱい描いてくるんですよ。」

 中には人物だけを描いたクロッキーもあった。

「それを元にして、記憶に残してきたイメージと合わせて1枚の作品に仕上げてゆくんです。」


 すごいなぁ——。と思いながら、静香はそのページをめくってゆく。

 さまざまな風景や人物が、鉛筆だけで描いてあったり、水彩で色付けしてあったり、色鉛筆がこすり付けてあったりしている。

 中には同じ景色を、色を変えて描いたものもあった。

「それは、同じ場所で時間の移り変わりの中で見えたものを描き留めてるんですよ。」


 陽が移ってゆくだけでも、雲の影がさすだけでも、光も色も変わる。先生はそれを写し取っているんだろう。

 静香にも、それは少し分かった。


「写真を撮ってくる人もいるようですが、私はやっぱり自分の目で見たものをスケッチブックに描き留めてくる方が好きです。その瞬間にしか感じられないものが、写真では分からなくなってしまいますからねぇ。」

 先生は、食い入るように見つめながらページをめくってゆく静香にそんな話をしてくれる。


「先生という仕事をしていますから、向こうに滞在できるのは1週間くらいですがね。こういうスケッチブック50冊くらいは毎回描いてきますよ。」

「50・・・!」

 静香は思わず於久田先生の顔を眺めてしまった。


「今度、合宿でやってみます? 萌百合さん。 油の方は帰ってきてから、この美術室で仕上げればいいんですから。どうせ3泊4日じゃ、油絵は仕上がりませんよ。」


「50冊・・・・」

「いや、そんなに描かなくても・・・。」

 於久田先生は笑い出した。

「2〜3冊持っていけば十分でしょう。高校の美術部なんですから。」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ストック溜まったので、再び読み始めました!これからちょくちょく読んでいきますね(*´Д`*) 次は夏合宿……どんなイベントになるのか [一言] 自分の作品の参考にするため、画材の名称とかは…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ