10 水先案内人
「だったら、それ、話そうぜ。普通に・・・。」
静香の目の中に、またうっすらと絶望の色が現れる。静香はそのまま顔を伏せて、視線を路上のカラータイルに向けてしまった。
やっべ・・・。
なんか地雷踏んだか? 俺・・・。
歩夢は宗教2世についてはニュースなどで知っていたし、彼らが苦しんでいることも解っているつもりだった。
受け入れて、視野を広げてゆければ、自然に一般社会にも馴染めてゆくだろう。くらいに考えていたが、甘かったかもしれない。
俺が発した数少ない言葉のうちの、何が萌百合さんの目に絶望の色を呼んでしまったのか・・・?
歩夢はじっと相手の言葉を待っているような表情をしているが、頭は目まぐるしく回転させていた。
どの言葉だ?
しばらくして静香がまた口を開いた。
「わたし・・・、普通って、分からないんです・・・。」
消え入りそうな声だ。
ああ、それか。
確かに、それは不用意な言葉だったかもしれない。・・・けれど・・・。
「なんだ・・・。そんなの誰も分かんないよ。みんな自分の知ってる世界が普通だと思ってるだけさ。」
「でも・・・わたしの場合・・・」
そこまで言って、また静香は黙った。
歩夢がくすくす笑い出す。
「贅沢な悩みだなぁ。自分は普通じゃない、ってアピールしたがってるヤツいっぱいいるのにな。」
普通なんてどこにもないよ、たぶん。
と歩夢は言う。
「なんとなく自分に近い世界を持ってる人との共通項を『普通』って言ってるだけだと思うな。俺自身がそうだもん。」
だから違う世界を持った人と話をするのは面白いんだ。自分が見たことのない世界が見えるから。そうして自分の視野を広げることができるから。
歩夢は正面の夕陽に照らされたビルの壁を見つめたまま、そんなことを言った。
「萌百合さんが信じてきて、そして嘘だと気づいた世界の話も聞いてみたいな。俺は。」
静香にとって三谷歩夢は、人生の中で初めて出会った『普通』の世界への窓口のように思えた。
知らない世界を知ることで、視野を広げる。
そんな考えを今まで持ったことがなかった。
静香のいた世界では、近づいてはいけない世界がいくつもあり、「選ばれた子供」は成人するまで純粋であることが求められた。
そしてその考え方は、静香が成長するにつれて周囲との齟齬を生じさせ、やがてそれは中学に入る頃には手に負えないほどの亀裂になってしまっていた。
ある意味、静香にとっては視野が広がった分苦しみも増えた、とも言える。
気づかないふりをして生きる、ということもできたのかもしれない・・・。母親みたいに、教団の示す世界に浸って・・・。
そうすればこんなに苦しまなくてよかったのかな・・・。
しかしそれは・・・。あの悍ましい微笑の仲間になり切るということでもあった。静香はそれを悍ましいと思ってしまったのだ。思ってしまった以上・・・、そんな世界の水にわざわざ全身を浸そうとは思えない。
キモい。
時おり外からも聞こえてきたその言葉。
それは、静香自身も感じていた何かなのかもしれなかった。そして静香の気づかないところで、静香自身に埋め込まれている何かかもしれなかった。
そんな静香を、三谷歩夢はごくさらりと「知りたい」と言った。言ってくれた。
話がしたい——と。
やがて、夕暮れの中で少しずつ色が消えてゆく景色を眺めながら、静香は少しずつ、ぽつり、ぽつり、と降りはじめの雨のように歩夢に話し始めた。
教団のこと、家のこと、中学であったこと・・・など、脈絡もなく。
歩夢は何か意見を言うでもなく、ただ相槌を打つだけでそれを聞いてくれていた。全身を耳にするようにして。
まとまりのない話をするうちに、静香の両目から涙がこぼれ始めた。
悲しいわけでもないのに・・・。
「ずいぶん遅かったわね。心配したわよ。」
仕事から先に帰っていた母親が、玄関でいきなり静香に責めるような口調で言った。
「あ、・・・部活・・・見学しないかって、友達が・・・。」
静香は咄嗟に嘘をついた。
「あら、どんな部活?」
「い・・・いろいろと見て回っただけ。」
「その友達にも渡した? パンフ、もっと持っていく?」
「あ・・・うん・・・。」
部屋に入って扉を閉めてから、静香は波だった気持ちを落ち着かせるように目を閉じた。
瞼の裏に、ずっと話を聞き続けてくれていた三谷くんの温かな眼差しが浮かんできた。




