第77話・一方その頃 蝮の巣では
体調不良やら多忙やら諸々ですっかり筆が止まってしまった…
佐久の状況が停滞しているので、まぁしょうがないですよね。(そんな訳あるか!)
とは言え武田の甘利虎泰はガードを固め、村上勢の攻勢は見せかけで、上杉勢も様子見。
村上義清の姿が見えず、読者諸氏もイライラされていると思うのですが、こういう時は焦ってもしょうがないのです。
(お前が言うな!の声が聞こえますが…)
と言う事なので今回は八幡部隊(美濃組)のその後です。
“次回を待て” …などと引っ張って置いて ずっとほったらかしとなっていましたが、草薙紗綾ちゃんや古澤先生たちは元気なのでしょうか…
忘れてしまった方は第68話辺りを再読して下さい。
では、本文へ。
第77話・一方その頃 蝮の巣では
生駒衆の追撃を振り切り、境川(木曾川)を渡り美濃へ逃れた、草薙紗綾たち八幡部隊(美濃組)であるが そう簡単な帰り道では無かった。
天神の渡しから、稲葉山城経由で加納宿に下り 中山道は諏訪宿を目指すルートは50里弱、約200㎞の旅程である。
それも街道の名前通り、中山道だ、順調に行っても20日は掛かる。
それ以前に気掛かりなのは稲葉山城なのだ。
八幡部隊を救ってくれた松原芸久が、彼らを何としても稲葉山城に連れて行くと息巻いている。
松原芸久は境川(木曾川)の川船頭である。
川船頭と言われると川の両岸を行き来する渡し舟や、古典落語の船徳の隅田川をのんびり行き来する船頭をイメージすると思うが、境川の川船頭はもう少し手広い…と言うか手荒い。
川浪衆を名乗り、境川流域を縄張りとする船輸送の元締めである。
現代で言えばフェリー会社の経営者…うーん、アメリカ大陸を駆け巡るコンボイを取り仕切る、トラックドライバー組合のボスの方がイメージは近いかもしれない。
その上 美濃守護代の意を受け、尾張領にまで攻め入ったりする武装集団でもあった。
つまり美濃、尾張の物流を抑え、そこら辺の大名を凌ぐ経済力と武力を持っている実力者なのであった。
そんな物流マフィアが会わせたいと言う相手、これもまた油断のならない相手だ。
美濃の実質的支配者、斎藤利政、法名は道三。
そう、蝮の斎藤道三である。
歴史で知られている道三は織田信長の才を見抜き、娘を娶わせ 若き信長の後ろ盾ともなった、戦国時代そこそこのビッグネームである。
後年の伝説では、油売りの行商人から美濃代官の長井氏に入り込み、守護の土岐氏に取り入り いつの間にか守護代斎藤家を乗っ取り、目障りとなった主君や娘婿を次々と毒殺し 美濃を掠め取ったとされている。
正に毒蛇である。
北条早雲と並んだミスター下剋上だが ここまで来ると下剋上と言うより、戦後呉市の闇市でのし上がって来た 『仁義なき戦い』の主役みたいなオヤジだ。
…あれ? 戦後混乱期のヤクザ抗争が戦国時代の下剋上を彷彿とさせていたのか?
まぁ、どちらにしても迂闊に近づくと危ない人物なのである。
しかしこのような事も歴史を知る者の後知恵で、今の八幡部隊の中で斎藤道三の恐ろしさを知っている者は皆無であった。
松原芸久に誘われるまま、道三の居城 稲葉山城へ向かう美濃組一行。
目通りするのは、原康景(彦十郎)、工藤昌祐(籐七郎)、祐長(源左衛門)兄弟、それに古澤(亮按)だ。
松原芸久は物珍しさから美濃組全員を連れて行くと言っていたが、望月新六と千代は武田の人間では無いので遠慮した。
と、言うより本来 武田と敵対している陣営(村上側)なので、どこでどう話しがバレるか判らず名乗りを控えた。
それに坂井忠や草薙紗綾、それに達川一輝はどこでどうボロが出るか判らないので、当然 会わせる訳には行かない。
古澤先生もボロが出るリスクは変わらないのだが、手土産のセイロガンやら石鹸やらの説明を押し付けられ、渋々城へ向かわされたのであった。
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稲葉山…今の呼び名は金華山である。
標高320mちょっとの小山であるが、眼下に長良川を望み 四方を睥睨する風格がある山だ。
鎌倉時代から砦が置かれた山であるが、道三は山頂にあった物見の塔を大増築し、多層階の櫓を造り 旗指物やら吹き流しやらをたなびかせ 一際目を引く山となっていた。
彦十郎たちは麓の道から山頂の(敢えて言おう)天守を見上げ、身の引き締まる思いを感じた様だが、後世姫路城などの大城郭を知っている古澤にはアスレチック施設に見えた。
が、そこが地方のテーマパークの展望台を思い出させ、古澤先生の郷愁を誘うのであった。
それはともかく、現代の展望台であれば麓からはロープウェイであったり、送迎バス等で連れてってくれるのだが 今は戦国、ここは生きた軍事施設である。
敢えて登り難くしてある山道を(素袍に侍烏帽子の礼装で)登らされるのだ。
ハッキリ言って嫌がらせである。
と、ここでいつもの様に少し脱線する。
稲葉山城に出現した多層の櫓は天守閣と呼んでも良い物であろう。
歴史に興味がある読者から “日本の城のシンボル、天守閣は信長の安土城が最初だ!” の叫びが聞こえる様であるが、事はそう簡単ではない。
起源にしても元々は物見櫓・司令塔であった施設が、遠方からでも見望できる華麗な、権力を象徴する建造物となったと言われているが、学会でも結論は出ていない。
デカい櫓を捜すと、安土城以前にも陸奥国府や鎮守府が置かれた多賀城の正殿、楠木正成の千早城・望楼櫓。
1400年台中盤の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、摂津国人の伊丹氏の居城伊丹城 等々、多層櫓は割と作られていた様である。
また “てんしゅ” の呼び名も最後の室町将軍、足利義昭の御所であった室町第が先だとか、諸説あるのだ。
…と言う事で、稲葉山城のてっぺんに 訪問者を驚かし、交渉を有利に進める装置として、コケ脅し的な空間を道三が作っていたとしても おかしくは無いのである。
そして若き日の信長が舅である道三の稲葉山城を参考に、壮大な安土城天守閣を造ったのだ! とぶち上げても、言下に否定は出来ないのである。
(…この時空では信長が居なくなったので言った者勝ちなのだ、ハッハッハ)
さて、本線に戻り 彦十郎たち一行に目を戻そう。
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汗だくで登り切り、背負ってきた手土産の品を下ろす間もなく 櫓の最上階に通された。
そこは30畳程の板間で、周辺には色とりどりの吹き流しがたなびき、間には道三の紋所二頭波が翻り、山頂と言うより船出した甲板の様であった。
板間の四隅には四天王よろしく、鎧姿の槍持ちが訪う者を監視しており、威嚇度抜群な空間を演出している。
ここを造った人物は相当な派手好きなのであろう。
板間の奥 3分の1位が一段高くなっており、その上だけに屋根が掛けられ、その下には五色に輝く煌びやか着物を着て床几に腰掛けた人物が見えた。
逆光で顔はハッキリとは見えないが、座っているのは坊主頭のオヤジで、派手な服装が異彩を放っていた。
父親(原虎胤)の奇行に慣れていた彦十郎は平静を装えたが、純朴な籐七郎は口が開いたまま、シニカルな源左衛門も落ち着きなく四方に目を配っていた。
松原芸久に促され、光り輝く坊主頭に平伏した一行の頭上から 思わぬ怒声が響いた。
「芸久!何を思ってその様な者どもを連れ帰ったか!!」
突然の叱責に芸久は身を竦めながらも口を開いた
「は? この者たちは織田弾正の城を脱して来たと聞きまして…お役に立つのではと、連れて参りました」
「…城を脱した? それだけでは有るまい? もそっと暴れて居るぞ」
「はて、詳しゅうは聞いて居りませぬが…追手を鮮やかな技で追い散らしたのは見て居ります。
その術も道三様のお役に立つと…」
どうやら目の前のキンキラ坊主が斎藤道三である様だ。
年の頃は50前後、マツケンサンバの松平健を坊主頭にした様なオヤジである。
平伏したままの彦十郎たちの頭上で芸久と道三のやり取りが続く。
「儂の手の者が色々話しを持ってきて居る…それに因ると
鷹を使い土岐頼芸殿を唆し、古渡城に入り込み織田信秀の寝首を掻こうとするが失策、逃げる途中の那古野城で信秀の嫡男を手に掛けた…と聞いて居る。
信秀の嫡男は元服前であったそうだが、その童を雷神を呼び込む術で撃ち殺したとか…
その様な者共と知っておって引き込んだのか?」
芸久は目を丸くし、無言でブンブンと首を振った。
それにしても…(事実は含まれているが)話しの繋げ方一つで八幡部隊はこの上ないヴィランである。
世間にこの線で広まるのは由々しき事と思われるが…道三の言葉は尚も続いた。
「信秀は息子の葬儀で ”早すぎる” と叫び、抹香を位牌に投げつけたそうじゃ。
色々と気に障る織田であるが、子を喪った親の気持ち、この道三も身を割かれる心持ちじゃ。
…そこな外道を美濃で匿っては、織田が攻め入る格好の口実となると判らぬか? 虚けが!」
芸久は顔を白くし押し黙ってしまった。
このままでは四隅の四天王の槍が彦十郎たちを貫くヤバイ流れである。
突拍子も無い事に慣れているリーダー彦十郎は平伏したまま 落ち着いた声を上げた。
「今のお話、色々と異議があり申す。
片方の言葉で沙汰を出すは天下に名を知られる道三様とは思えませぬな」
道三はその声で今まで目に入れていなかった平伏している彦十郎たちを改めて眺め、
「偉そうに儂に意見したのはたれか?…面倒じゃ、皆 面を上げよ。
それぞれ名乗って見よ」
彦十郎が真っ先に面をあげ、朗々と名乗った。
「我は原康景、甲斐武田の臣で御座る。
駿河の悪党どもに拐かされた巫女を取り戻す為、尾張まで後を追って参りました。
織田殿に罠を仕掛け、嫡男 吉法師様に害を為したはその悪党ども。
武田には女子供を手に掛ける様な卑怯な者は居りませぬ。
我等はその旨 織田様に申し上げ、共に悪党退治を望みましたがお信じいただけず、気の毒な結果と相成った次第。
罪を擦り付けし悪党どもを捕らえ、事の真実を明らかにしたいは山々なれど、今は取り戻したる巫女を国元に連れ帰るが第一。
臍を嚙む思いで御座ります」
原康景(彦十郎)に続き籐七郎らも名乗りを終えた所で、道三が徐に訊ねた。
「その話、証となる物は在るのか? 無ければ如何様にも言い繕えるな」
言葉に詰まる彦十郎をフォローする様に工藤弟(源左衛門)が答えた。
「ならば我等が雷神を使い 童を撃ち殺したと言う話し、何か証が御座りましたか?
それも単なる噂で御座りましょう。
そもそも我等武田が尾張の織田に喧嘩を売る理由が御座らぬ。
また尾張と美濃の間の諍いも甲斐には与り知らぬ事、そちらの都合をこちらのせいにされるは迷惑で御座ります」
歯に衣着せぬ源左衛門の物言いに、前列の松原芸久が髭面を強張らせ、腰を浮かした。
が、道三はそれを目で制し、ニヤリと笑った。
「小童が威勢が良いの。
理屈は爾が申す通りじゃ…が、理屈なんぞはこちらの都合で使い分ける物での。
女子供も必要ならば磔とするのが世の習い、童殺しなんぞ どうと言う事も無い」
「…左様な事は存じております。
ならば我等をどの様にお使い為さるが 一番得かをお考え召され…と、申し上げておりまする」
「ははは、|小童が小賢しいの。 どう使うが得か 爾に考えが在るのか?」
「…我等の首を尾張に送り信秀が怒りを鎮めるも手でありましょうが、それでは道三様が尾張織田家の下に立ち申そう。
我等を甲斐に送り届けていただければ、武田は土岐では無く道三様と誼を結びましょう。
さすれば、伊那・諏訪からの物資、援軍が手に入り、斎藤家は紛れもない美濃守護として実を得られるのでは…」
「ふん、面白みの無い案だな。 それに武田も山国じゃ…周りを見て気が付かぬか?」
道三は風にたなびく二頭波の旗指物や吹き流しを顎で差し、
「儂が欲しいのは海じゃ。
芸久ら川浪衆が動けるのは美濃の内だけ。
尾張を見よ、織田は大した領地は持って居らぬのに、他国との交易でたんと稼いで居るわ。
山に囲まれた美濃を大きくするには海が要るのじゃ!
…言うまでも無いが、織田家の下に立つ気は無い。 誰が信秀の機嫌なぞ取るか。
…童、もそっと儲かる話しは無いのか?」
源左衛門の横でやり取りを聞いていた彦十郎は内心安堵した。
どうやら即刻討たれる危険は少なく、交渉次第で庇護を受ける事も出来そうな感触である。
そしてこれは最近どこかで得た感触だ…と思い、気付いた。
織田信秀と古渡城でのやり取りだ!
尾張の虎と美濃の蝮、どちらも儲け話に貪欲である。
良く言えばエネルギッシュ、有り体に言えば成り上がり特有の匂いである。
とすれば…熱田古渡城で受けが良かった毒消し、石鹸、武田菱印の鉛筆などは 目があるかもしれない。
現代ならば反社集団の関係者、目を合わせてはイケない人物としか見えない強面オヤジの斎藤道三であるが、元を辿れば山崎屋庄五郎と言う油売りの商人であった。
一文銭の穴に通して油を注ぐというパフォーマンスでバズり、それを切っ掛けに美濃一国を乗っ取った人物だ。
儲け話に乗らない筈は無い…
ここまで思い至った彦十郎が声を上げた。
「…ならば、我等には外つ国の技で作りました、品々が有りまする。
織田信秀様に商売のご相談を持ち掛けられた物なれば、ご興味を持たれるのでは?
後ろに控えし者がその効能、効果をご説明致しましょう。…亮按先生、良しなに」
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キラーパスを受けた古澤はもう あたふたしないのである。
彼も駿河尾張と旅を重ね、武将やお偉方相手に幾度か修羅場を潜って来た。
それに古澤はコミュニケーションお化けである。
鷹羽先生の似非スティーブジョブズよりは、聴衆の反応を見ながら話を進める古澤流プレゼンの方が判り易いとの評価も受けている。
今回も堂々とジャパネットよろしく、毒消しの薬と、丸餅の解説を行うのであった。
…が、キンキラ坊主(道三)の反応が鈍い。 今一響いていない様子である。
それでも挫けない古澤は相手のキンキラに負けない位のキラキラ笑顔で笑いかけた。
…が、道三は古澤から目線を外し横手の松原芸久に話し掛けた。
「うむ、これも面白みの無い品だな。 儂は何を喰らっても腹痛は起こさぬ。
多少臭い者共を散々喰らって来たが、当らずぴんぴんしておる…のう、芸久」
笑えない物騒な例えに芸久は身を竦め、道三が気に入る事は無いかと考えを巡らせた。
はたと思い出し、叫ぶ様に古澤に問いかけた。
「お主等が天神の渡しで振り回しておった 徳利! あれはどうした?
火炎太鼓がなんちゃらと叫んで、織田の手勢を追い払ったであろう? あれを出せ!」
芸久は古澤が答えるより早く、道三に向かい説明を始めた。
「この者共が尾張、天神の渡しで怪しい技を使って居ったのです!
一合徳利で五~六の騎馬を一瞬に倒しましたのですが、正体が判りませぬ。
火攻めのようでしたが炎が見えませなんだ。
油でも無し蝋でも無し…何を仕込んでいたか…怪しい技としか申せませぬ。
それを見て我が方へ引き入れるべしと思った次第…」
芸久が見たのは高純度メタノールの炎であった。
この当時の日本では純度の高いアルコールは作り方も知られておらず、アルコールの青い火は見た事も無いのだ。
民生品には興味を示さなかった道三が、軍事品と見るや反応した。
ましてや元油売り、炎が見えない火攻めには興味が湧いた様だ。
「ほほぉ、それが真なれば、丸餅よりは役に立ちそうじゃな…」
話しをふられた古澤は一瞬顔を曇らせたが、再び笑顔になり
「えーと、あれは全部使ってしまいました! もうありません」
道三の眼から表情が消えた。
何を考えているか判らない爬虫類の眼の様である。
マムシの道三の異名はここから来たと思わせる瞬間であった。
ヤバさを瞬時に感じたのは命を賭けたやり取りを経験して来た、彦十郎や工藤兄弟である。
咄嗟に道三へ進言する。
「今ここには御座いませんが、本国では作り続けて居りますれば、道三様の誼を得、我等が帰着致せば こちらへ送ることは何の造作も御座りません!」
道三の瞳に光が戻った。
「ふ、ははは
儂に気を持たせ、道中の安全を得る気か?
判った…爾等をここで毟った所で大した得にはならん様じゃ。
護衛を付けて国元に送り届けるゆえ、その一合徳利を持って 戻って参れ。
…と申しても、向こうに着いたら爾等の気が変わらぬ保障も無いな。
芸久、この者達が悪党どもから取り返した巫女が居るのであったな?」
急に振られた芸久が無言でカクカクと頷くのを見て道三は言葉を続ける。
「ならばその者をこちらで預かろう。
長旅で疲れておるであろう、美濃で緩りとするが良かろう」
いきなり紗綾を人質に取る話しとなった。
彦十郎が慌てて声を上げようとする所へ芸久が被せた。
「毒消し薬と丸餅も是非に! あれは我が売り捌きましょう程に」
「おう、芸久はそれが欲しいか?
なればこちらが欲しい物を書き記してこの者たちに持たせよう」
彦十郎が ”恐れながら” と発した声に今度は道三が被せて来た。
「爾等の主人は何と申したか? 序でに挨拶状くらいは書いて進ぜる程に、急ぎ国に戻り品々を取り揃え戻って参れ。
…何じゃ、その目は?
安心致せ、道中の安全はこの道三が保証してやる」
やっとの事で彦十郎が喋れた。
「あ…否、左様な事では。
我らの巫女は難儀を重ねて参りましたゆえ、一刻も早く国許へ。
ここでまた人質とは余りに不憫」
「人質とは人聞きが悪い、養生じゃ 養生。
…だから何じゃ、その目は?
爾等が約束を果たせば、巫女は土産付きで国に帰れると申しておるのだ。
安心致せ、この道三 約束を違えた事は一度もない!」
”う、嘘だ!” と叫ぶ所を辛うじて飲み込み、彦十郎は瞑目した。
約束を違えまくって美濃を乗っ取ったのが道三である。
このオヤジは自分の父、虎胤より難物だ。
しかしここで揉めては全員が危機に陥る。
これは『上有政策下有対策』=(上に政策あれば下に対策あり)で対処するしかない。
後ろの席の籐七郎の憤りの鼻息を手で制しながら、彦十郎は答えた。
「御意! 出立の支度を整えます」
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麓の宿舎に戻った彦十郎は千代たちから責められる事を覚悟していたが、思いのほか皆 優しかった。
理不尽な戦国の世で揉まれてきた者たちは、メンタルも逞しいのである。
さて、哀れここでも囚われの身とされる草薙紗綾であるが、何も正直に紗綾を残す必要は無かろうという案が出た。
芸久にしろ道三にしろ、誰が巫女か判らないのである。
つまり女子であれば誰でも問題なかろうと言う話しとなり、結果 くノ一の禰津里美が美濃に残る事となった。
里美であれば、いざとなれば単独で脱出も出来ると、自ら立候補したのであった。
以上の顛末で蝮の巣に迷い込んだ美濃組は漸く、一路中山道を下り 下諏訪を目指すのであった。
とは言え下諏訪宿までは50里(200㎞)近い道中である。
国に帰り付くのはもう少し掛かりそうな一行であった。
第77話・一方その頃 蝮の巣では 完




