第76話・佐久の策、錯綜す
前話では上州・上杉憲政が各勢力の思惑に振り回されていましたね。
実際に振り回されたのは伊賀の中忍・楯岡道順だった様ですが…
いつの世も中間管理職ってぇのが、一番のシワ寄せを喰うのでしょうかねぇ。
で、今回は真田幸綱再び です。
戦国奇聞! 第76話・佐久の策、錯綜す
払暁の城西屋敷である。
早馬が慌ただしく到着し バタバタと乗り手が屋敷に駆け込んで行った。
若き甲斐の国主 武田晴信は平和を希求していたが、周辺の国々は野心をぶつけ合い 国境では諍いが絶えない。
この早馬も新たな戦の知らせであろうか…
取次の間では家宰を務める吾介が書状を受け取り、素早く内容を確認する。 (おぉ吾介さん…元気であったか)
城西屋敷は軍師・山本勘助の屋敷であり、雑多な研究&実験を行う鷹羽先生の住まい そして 最高機密の御経霊所吽婁有無も抱える場所なので、緊急で重要かもしれない意味不明な連絡事項が多いのだ。
ゆえに何事にも卒のない吾介が情報流の整理を行っている。
吾介の後ろに控える伝令役の若侍は 口上と共に書状を渡され、宛先の相手と部屋を聞くと一目散に廊下を走るのであった。
城西屋敷の台所の程近い場所に、食堂がある。
吾介の女房 『たね』 の腕によりをかけた食事が供される場所であり、今まさに生徒と教師が朝餉をいただいている所であった。
そこへ伝令役の若侍が中畑先生目がけ駆け込んで来た。
美月は驚きもせず、生徒に注意する際の通常モードで
「ごら君、廊下は走らない!」
「相済みませぬ。 勘助様より美月様へ早馬が着きましたゆえ、気が急きました」
と書状を差し出した。
美月は手紙に目を通すと思わず立ち上がり
「えー!どうしよう。 幸綱様が私を呼んでいるって!」
近くの席で味噌汁の具について語り合っていた薫ちゃんと桜子ちゃんが耳聡く反応した。
「え! 真田様が美月先生を呼んでいるんですかぁ?」
「この前、大旅行から帰って来たばっかりで また呼ばれちゃったんですかぁ」
「きゃ~美月先生、どういう関係なんですぅ」
騒ぐ桜子たちの向かいの席から、佐藤有希が冷静な声を掛ける。
「幸綱様の奥さん、草薙さん救出の時 亡くなったんでしょ? 囃し立ててる場合じゃないよ」
「…ごめんなさい」
有希に諭された形で ゆっくりと着席した美月に、中林巴が小声で問いかけた。
「で、先生、何て書いてあるんです、その手紙。」
「え? …と、佐久地方で真田がどう動けば良いか占って欲しいって」
「あぁ、美月先生 真田推しですもんねぇ。 真田氏の動向だけは詳しいんだっけ」
「私達には歴史に干渉するな とか言ってさ、なんか美月先生だけバンバン使ってない?その知識」
「そうそう ズルいよねぇ…めっちゃ当たる巫女とか、カッコよだよね」
「私もなっちゃおうかな、伝説の占い師!」
「でもさ、桜子 日本史苦手だったじゃん。 何を当てるの?」
「そうなんだよねぇ…未来の事だからって、アニソン歌っても意味無いし…」
「あ、またみんなで巫女行列! あれやろうよ」
「それよか神宮寺君から聞いたんだけどォ…」
話しが逸れて行くのは女子が元気な証拠である。
が、美月は腕を組み何かを考え込んでいる。
それに気付いた巴が再び小声で問いかけた。
「先生、どうしたんですかぁ。 真田様に呼ばれたのに暗いですよ~」
「え? …と、幸綱様へのお悔やみ。 どうしよう。
有希ちゃんが言う通り、忍芽様は私たちを助けようとして亡くなった訳でしょ。
どんな顔して行けばいいのよ…」
「…そうですよね。私たちに係わらなきゃ、こんな事には…グス」
いきなり涙ぐむ女子たち。 この年頃は情緒が敏感なのである。
そんな友人たちに佐藤有希が 再度冷静な声を掛ける。
「悪いのは教頭先生だよ、それと藤堂! 巻き込まれたのは確かだけど、私たちは悪い事していない」
「それはそうだけど…なんとお慰めしたら良いか。 キツイわ…」
何かを思いついた桜子ちゃんが挙手して
「賛美歌! 前に上原城で歌いましたよね。
あの時は途中から小芝居に移って中断しちゃいましたけど、皆 うっとりしてたじゃないですか。
あれを真田様に聴いて貰いましょうよ」 (※1)
巴が挙手した。 一つアイディアが出ると連鎖反応が起こるようである。
「私 歌苦手だから慰めのお手紙 書きまーす。 有希もそうしよ?」
パスを受けた有希は
「歌も字も下手なので…千羽鶴折りまーす」
目標が決まれば美月の行動は早かった。
美月先生は立ち上がり、食事中の生徒に課題を伝達した。
「ハイハイ、皆さん聞いて!
知っていると思いますが、草薙紗綾さんを誘拐犯から取り戻す時、真田さんの奥様が犠牲となってしまいました。
皆さんも心を痛めていたと思います。
今度、諏訪の真田さんの所へお悔やみに行く事となりました。
真田家の方々をお慰めする為に、私達は自分の出来る事で心を伝えたいと考え、“賛美歌コーラス” “遺族へのお手紙” “鎮魂の千羽鶴” を用意したいと思います。
各自 どれに参加するか考え、先生に申告して下さい。
1週間位で準備して諏訪に届けたいと思いますので、みんな協力して下さいね!」
朝餉を掻き込む周りの者を巻き込み 弔問の準備に入る城西衆であった。
※1:音大出の威信をかけた『城西シスターズ』の歌声。 諏訪衆を蕩かしかけた顛末は第11話参照。
―――――――――
ここは上原城に程近い、真田屋敷である。
愛妻を失った喪失感から屋敷に引き籠った真田幸綱であったが、その後聞こえて来る様々な声が幸綱の心をそっとしておいては呉れなかった。
まず何よりも心を搔き乱したのは雪斎党であった。
何者かは定かではないが、駿河今川家の軍師・太源雪斎の息が掛かり、城西衆と因縁があるらしい。
先頃立て続けに起きた高遠頼継、小笠原長時の乱に雪斎党が絡んでいた事は明白。
表では同盟を組みながら裏では武田の足を引っ張る 厄介な連中とは思っていたが、どこか他人事であった。
しかし忍芽を手に掛けたとなれば直接の仇、何を置いても叩き潰すべき者となった。
今回の村上の佐久侵攻にも雪斎党の暗躍が伺われると聞き、尻尾を掴み引き釣り出してやろうと復讐の炎が燃え上がった。
早速 海野十座を筆頭に手の者を四方に飛ばし、雪斎党の足取りを捜させたのだが、一向に影すら見えないのだ。
普通であれば、戦が始まり裏に隠れていた者たちも動きも激しくなり、何らかの痕跡が見えて来る筈なのに、である。
雪斎党が恐るべき相手なのか、真田の探査能力が落ちたのか…
種を明かせば、予算オーバーとなった三虎が活動資金を止められ、暗躍したくても出来なくなった時期と重なっただけなのだが、幸綱は仇の姿を捉えられない苛立ちを抱え、独り屋敷で蹲っていたのであった。
悶々としていた所へ訪いを告げる女性の声が聞こえて来た。
聞き覚えのある、美月の声である。
どうやら勘助は幸綱の願いを叶えて呉れた様だ。
真田家の救いの神、神憑りの巫女である。
この巫女の御託宣は突拍子も無いが、突破力は抜群なのだ。
手詰まりの今、進むべき方向が決まる筈だ。
早速の御託宣を受けようと出迎えた幸綱は巫女の集団に囲まれる事となった。
諏訪に御柱を引っ張って行った時に活躍した 『城西シスターズ』 である。
今回の衣装は一層派手にグレードアップした、目がチカチカする巫女装束だ。
美月たちは当然 悪意など無いのだが、真田家の常識からは逸脱している装束で伝えられる弔慰や、恭しく手渡された千羽鶴に唖然としつつも答礼を返す真田家の人々であった。
(その様子を事細かに伝えるのは痛すぎるので、説明のみで勘弁していただく…)
救いであったのは音楽の力が文化・常識の違いを超え、『城西シスターズ』 の賛美歌が人々の心に届いた事である。
真田屋敷内に大量の涙が流された後 美月は別室に呼ばれた。
室内には瞑目した幸綱と 目を真っ赤に泣きはらした十座が待ち構えていた。
静かに目を開いた幸綱に改めて弔意を伝えようとした美月を幸綱が手で制し、声を被せた。
「慰めは充分にいただいた。
美月殿を呼んだは、忍芽の弔いの為では無い。 真田の行く末を聞く為である」
「…」
「村上には手を出すべからずとの御託宣は聞いて居るが、それだけでは埒が明かぬ。
佐久は煮詰まって居る。
甘利様と村上勢は互いに何をしようとしておるか判らぬまま睨みあっておるだけじゃ。
望月や大井からはどうにかせよと催促が絶えぬのだ。
長陣は兵が嫌がる…田畑の世話が出来ぬからな」
幸綱は曖昧に頷いた美月を見つめ、話しを続ける。
「それに相手が増えた…十座の調べでは佐久志賀城に上州の長野業正様が入った様だ。
南佐久で守りについて居られる甘利虎泰様にお伝えした所…喜ばれたとの事。
儂にも確とは申さぬが、村上勢に手出し出来ぬ憤懣を業正様にぶつけるのではないか…と見えるのだ」
状況が飲み込めていない様子の美月の前に十座が南佐久の略図を広げた。 (図1)
図1:南佐久の現状
地図を覗き込む美月を見ながら幸綱は
「儂は業正様には恩義を受けて居る…出来れば戦いたくは無い。
かと言って横手からの上杉勢を捨て置く事も出来ぬ。
片や虎泰様は戦上手な御方。
村上には手を出すなとの命なれば我慢されて居るが、腕を撫しておる御様子。
上杉なれば手を控える必要は無く、一戦交える気 満々。
儂が止めても聞く耳は持たれぬであろう。
そこでじゃ…美月殿に新たな御託宣を頂戴したいのじゃ。
…どうすれば良い?」
推しから呼ばれた事に舞い上がっていた美月は、ここに至り 自分が呼ばれた意図を理解したのだが、即答出来るような問題では無かった。
美月の脳内には真田オタクの基礎知識として “長野業正” は蓄えられてはいた。
ただ ”長野業正はいい人” 程度の内容であった。
…美月の目が泳ぐ。
業正と真田は戦ったこと無かったと思うけど…武田と長野業正は戦ったんだっけ?
思い出せ…思い出せ…自分に言い聞かせる。
武田は村上に大怪我させられたけど、最終的に真田が調略で村上を内部から突き崩したんだ…
フフフ♡…真田推しは顔が綻ぶ。
違う違う、武田と長野業正の関係だった。
美月は幸綱に目をやり、探るように話しだした。 (探っているんだけど…)
「えーと…長野様って…上州で真田家を匿ってくれて、武田に来る事も許してくれた…とてもいい人でしょ?」
「良い人…などでは足りぬ。 大恩人だ」
「ですよねぇ。…で、幸綱様は長野様と戦う気は無いと」
「…うむそうじゃ?」
「…で、武田の甘利さんと幸綱様は仲 悪いんですか?」
「良い悪いの問題では無い。
…虎泰様はお偉方ゆえ、殆ど話した事が無い間柄じゃ。
腹を割って下さるか判らぬ」
「ですよねぇ…」
片方は飛び切り良い人、もう片方は良く知らない人…なら考えるまでも無い。
「なら、説得するなら長野様でしょ」
「何を説得するのだ?」
「えーと…兵を引いた方がいいよ~ って忠告するんです」
「…忠告? 業正様に戦わずして兵を引く理由があるか?」
「えーと…細かい事は説明できませんけど。 結局佐久は真田様が治める事になりますんで、お引き取り下さい と」
説得力皆無の言葉である。
いくら美月のお告げには全乗っかりの幸綱と言えども、なんだそりゃ な話しだし、業正が納得する筈も無い。
幸綱が呆れた声で答えた。
「どう見ても戦う気で押し出して来ている相手に、手土産も無しでノコノコ行ってその様な話しが出来るか!」
推しからのダメだしに撃沈しそうになる美月であるが、真田の未来は自分が一番知っていると思い直す。
長野業正と真田幸綱は戦ったこと、無かった!(…ハズ)
なら、会って呉れさえすれば説得は上手く行く!(…ハズ)
「えーと、大丈夫です!
幸綱様と長野様の間柄なら、誠心誠意呼びかければ 会って呉れます。
それと何か手土産… そうだ! 私たちが甲府から持って来た毒消しや石鹸を持って行けば喜んでくれますよ!」
「…戦の最中だぞ。 手土産と言えば名のある武将の首 とかであろう…それをお裾分けで会って呉れるか?」
「大丈夫 自信を持って! 幸綱様なら出来ます!」
と、ここで突如十座が参入した。
餌付けされている十座は幸綱以上に美月の信者である。
「そうじゃそうじゃ! 毒消しは凄いぞ! 尾張でも志摩でも大層喜ばれ、売ってくれ売ってくれと大人気じゃ。
それに石鹸と鉛筆…あれも使ってみると皆欲しがる! 長野様も気に入られる事間違い無しじゃ!」
「いや、十座。 …商いをしに行くのではないのだ…」
「否、人は儲け話が好きじゃ。 長野様も嫌いな筈は無かろう? 巫女殿のお告げはそういう事じゃろ」
十座ならではの援護射撃である。
幸綱は一旦黙り、考えた。
甘利虎泰と長野業正がぶつかるのは時間の問題である。
それを止める手立てが思い浮かばないならば…美月のフワッとした話しでも乗るしかないのか?
数舜の後 幸綱が口を開いた。
「巫女殿の御託宣、承った…だが、今一つ。
村上義清には如何する所存か? 御屋形様の御心はどうなって居る?」
「えーと…鷹羽先生と勘助さんは説得でどうにかする気みたいですよ」
「そちらも説得か? どの様な説得か?」
「詳しくは知りませんけど…なんか儲け話ですって」
「そちらも商売か? うぅむ 業正様を説得できる気が全くせぬが…
虎泰様には我が戻るまで志賀城攻めを待っていただく様、書状を書くしかないか…
十座すぐに支度致せ、志賀城へ向かうぞ」
―――――――――
幸綱と十座は佐久志賀城へ向かった。
志賀城は上杉方として城を守る立場で詰めていた所を、秋山十郎兵衛からリクルートを受けた馴染み深い城だ。
聳えたつ櫓も分厚い板で増強され、見張りの兵も増え、迂闊に近づくと問答無用に矢が飛んで来る 緊張感MAXの状態である。
緊張感を解す方法は幾つかあるが、十座が主張したのは本能に訴えかける策であった。
見張りからは見えるが矢は届かない場所で、城の風上に陣取り、火を焚いた。
そこに味噌に付け込んだ雉やら兎それに猪を焼き、香ばしい煙を流したのである。
火攻めか煙で燻すのかと身構えていた城兵は櫓の上で身悶え、腹を鳴らす。
頃合いを見計らい、串にさした食べ頃の肉をかざしながら城門に近づき、大声を掛けた。
「我は海野十座と申す! 傍らに居るは六道幸綱!
かつて上州の方々の世話になった礼に、雉などを持参致した。
良く焼けて御座るで、御受け下され!」
大きな軋み音を立てながら城門が開き、目を輝かせた兵が我先に飛び出して来た。
作戦は成功である。
門前で兵士たちに鱈腹ご馳走し、皆の目から敵意が消えた頃 敵方の主将である長野業正へ面会を申し込んだ。
さすがに臨戦態勢の城内に幸綱が入る事は不可能の様で、長野業正と対面は大手門前の広場の一角、厳重な監視の下となった。
長身で大髭を蓄えた西牧信道が何故か同席を申し出た。 (※2)
頭を下げる幸綱に鎧姿の長野業正が声を掛けた。
「まずは皆への馳走、礼を申す。 色々活躍しておる様だの…此度は信忠殿は居られんのか?」
顔を上げた幸綱が答える。
「其れも此れも 快く送り出していただいた業正様がお蔭。 今日は我のみで参上いたしました。」
鷹揚に頷いた業正の横から、西牧が目をクリクリさせながら口を挟む。
「諏訪での小笠原との一戦、話しは聞こえて居るぞ!
貴殿の一党が あの長時を捕らえ、成敗したのであろう。 素晴らしい!」
何が有ったか詳しくは知らないが、因縁の間柄らしく 西牧は小笠原長時を非常に嫌っていたのだ。
今日はこの一言が言いたかっただけの様である。
※2:愛すべき武将、西牧信道との出会い、為人は 第21話参照。
満足気な西牧を横目で見ながら業正が再度幸綱に話し掛ける。
「皆は息災か? この付近で姿を見かけぬゆえ気に掛かって居った」
「…は、お気遣いいただき、有難き事。
されば申し上げますが…我が室 先頃身罷りましたゆえ、喪に服しておりました」
「なんと…病でか?」
「否。 怪しき徒党の手に掛かり…」
「それは痛ましき事。 愁傷であろう…言葉も無い」
「実はその事も含め、業正様に目通りをいただいた次第」
「…儂に係わりがあるとな?」
「…単刀直入に伺い申す。 雪斎党なる者どもは業正様の周りに跋扈しては居りませぬか?」
「…答える前に、儂からも幸綱殿に尋ねたき儀がある。
雪斎と言えば駿河を牛耳る坊主で御座ろう?
そうであれば其方の味方…それに連なる者共が何故 我等上杉の周りに居ると思ったのじゃ?」
「味方の顔は表向き。裏では信濃、尾張と手を伸ばし 我等の足を掬おうと画策しております。
かつて高遠頼継の誘いに応じ、業正様とこの地に赴いたのも、実は裏で雪斎党が糸を引いて御座った。
そして我が室も彼奴らの策略に嵌り…」
顔を伏せた幸綱に業正が優しく声を掛ける。
「それは、気の毒な事であったな…」
その声に応えるように、浮かんだ涙を振り切るように キッと顔をあげた幸綱は
「仇の尻尾を追っておりました所、此度は村上義清に伸ばした手が見えました由、されば 上州にも策を弄す筈と…
我が家の仇、このままにはしておけませぬ。 御知りな事あらば、何卒我にお教え下され」
幸綱の血を吐くような言葉に業正が深く頷いた。
「成程…あ奴等は斯様な者どもなのじゃな…
推察通り一昨日、雪斎党の楯岡道順なる者が儂を訪ねて参った。 その者が何を申したかお教え致そう」
その言葉に同席していた西牧信道は飛び上がり、業正に詰め寄った。(この光景もデジャヴであるが)
「業正様、その件は軍機。 他者へ申すは如何なものか」
「信道殿、座りなされ…幸綱殿の無念を思えば、教えるが人の道であろう。
さて幸綱殿、貴殿の仇が何を申して行ったか聞かせよう…」
業正の口から語られた楯岡道順の提案内容は幸綱の想定外の物であった。
(読者諸氏は御存じであろうから詳細は省くが、お忘れの方は前話参照)
ここで重要なのは長野業正の対応である。
今回ばかりは雪斎党の誘いに乗って武蔵河越城へ転進してくれれば、佐久での戦は回避され双方丸く収まるのだ。
唾を飲み込みながら、幸綱が業正に鎌を掛ける。
「…よくぞお話し下された。 感謝のしようも御座りません。 これで仇は武蔵に居ると判り申した。
…して、業正様も河越城へ駆け付け召さるのでありましょうな…」
「否、雪斎党が偽り多い者共と知れたからは、河越城は鬼門と思えて参った。
憲政様にも迂闊に動かぬ様、注進いたす所存。
儂はこの地に留まり、事の成り行きを見届ける!」
「…雪斎党の言に惑わされぬのは、流石業正様。 しかしここで陣を構えておりますと何かと火の粉が飛んで参りましょう。
…佐久もお取りになるおつもりで?」
「それも否じゃ…村上の後詰の約定であったゆえ、我らが先に動く事は無い。
…なのだが、村上は我らの姿を見るとコソコソと手勢を抜いて居る由。 本音の攻め口はここでは無いのではないか?
まぁそれはそれとして、儂がここに残ると申しておるは上州への蓋じゃ。
殿、憲政様が手柄に走り 河越城攻めで転びなさると、村上やら武田やらが掌返して上州へ攻め込むやも知れぬ。
それを案じての駐屯じゃ」
「流石で御座います!」
最後の一言は幸綱と西牧信道の声がハモった。
幸綱は取り敢えず知りたい情報を手に入れたので、そこから先は手土産の開陳&セールスとなった。
トークが良いのか売り手の自信の効果か、十座の予見していた通り 城西衆の品々は好奇の目で手に取られ、その効果効能で有難がられた。
―――――――――
滋賀城を辞し自陣に引き返す幸綱と十座である。
煮詰まり、乱戦に突入しかけていた三竦みの一角、上杉が何を考えているがハッキリし、主敵村上の貴重な動向も入手したのだ。
予想以上の成果である。
睨みあっている三者が皆、他に気になる事を抱え この地では誰も本気では無いのだ。
互いの本音が見えた以上、それに乗っかれば良いのだ。
錯綜していた対策が整理できそうに思えて来た。
甘利虎泰の陣が見えて来た頃、幸綱は美月の力を改めて感じた
長野業正を説得しに行けと言われた時は ”何言っているんだこの女は?” と思っていたが、美月の言葉は正しかったのである。
矢張り神懸かりなのだ。
しかしこの顛末を甘利虎泰に説明しても信じてくれるだろうか…
新たな心配事が頭を擡げる幸綱であった。
第76話・佐久の策、錯綜す 完




