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第69話・庚申待ちと鷹使い

草薙紗綾たち城西衆を逃がす為、囮となった禰津神平であるが、こちらも八方塞がりである。

滅多な事では死なないとは思うが、そういう者ほど風邪拗らせてあっさり…とか、言うしなぁ。

さぁ、彼等の足跡を追ってみよう!

戦国奇聞!(せんごくキブン!) 第69話・庚申(こうしん)待ちと鷹使い


 さて、前話では原彦十郎(はらひこじゅうろう)たち美濃組が、生駒の追手から辛くも逃れ 境川を渡った迄をお伝えしたが、尾張国内に残っていた禰津神平(ねずしんぺい)たちはどうなっているか。

 今回はこちらを追ってみたいと思う。

 名鷹鶚丸(みさごまる)を鮮やかに取り返したまでは良かったが、古渡(ふるわたり)城の織田方の対応は素早く、三河・駿河方面の東海道の関は閉じられ 宮宿から東へ進む道は塞がれてしまった。

 那古野(なごや)方面からは平手政秀(ひらてまさひで)の隊が殺到して来るし、古渡でうかうかしている時間は無い。

 動ける方向は京方面しかなかった。

 京都へ向かうには 熱田―桑名間を繋ぐ、東海道唯一の公の定期便 『七里の渡し』 が有名であるが、あれが運航開始したのは 関ケ原の戦いも終わり、徳川幕府になってからである。

 定期便が無かった戦国真っ盛りはと言うと、佐屋街道と言う陸路があった。

 熱田から万場宿、佐屋宿を経て桑名宿へ至る道であるが、全9里(36㎞)の行程で木曽川、揖斐川の水路三里(12㎞)は渡し舟を使わざるを得ず、遠いし 結局船便に乗換えが必要であった。

 熱田湊から桑名宿へ舟が使えれば 行程は7里(28㎞)で、途中乗換無しだし、波が静かなら早いし、何しろ歩かなくていい…

 いつの世でも需要があれば供給はあるものである。

 結果、民間の海運業者(川並衆)が船荷の間に人も乗せる、渡し船便(フェリー)運航を盛んに行っていたのである。

 足早に宮宿(熱田湊)まで移動してきた神平たちは早速、桑名行きの渡しを捜す。

 が、神平たちは風体に足元を見られたのか、通常価格の10倍近くを要求された。

 まぁ、腕に鷹を乗せたヤツ(神平)が、狼連れたオーク(縫殿右衛門尉(ぬいえもんのじょう))と熊二頭(源三郎(げんざぶろう)十座(じゅうざ))を従がえているのである。

 RPGの世界であっても、勇者か魔物か判断に苦しむパーティーと言えよう。

 通報されず乗せてくれるだけでも、御の字とも言える。

 持ち合わせの路銀をすっかり巻き上げられ、伊勢国桑名宿へ渡った尾張組…改め伊勢組であった。


―――――――――

 桑名宿である。

 この当時の桑名は交通の要衝と言うだけでは無く、寺と神社関係者がやたら多い地でもあった。

 伊勢と言えば 『伊勢神宮』 が思い浮かぶが、桑名に一番近いのは 『願証寺』 である。

 願証寺は長島の一向宗、本願寺門徒を集める寺であり、僧侶や神官が我が物顔で跋扈するのが桑名であった。

 つまり、宗教勢が力を持つ、尾張にも伊勢にも属さない、カオスな町なのであった。

 で…尾張の織田方から逃れる神平たちには最適な場であったが、ここで路銀が尽きた。

 何しろ金目の物は全て彦十郎率いる 美濃組に渡してきてしまったのだ。

 少人数のパーティーと言えども、旅は御足が掛かるので動けない…雪隠詰めの状態であった。

 取り敢えずの居を桑名に定め、諏訪上原(すわうえはら)城へ海野十座を使いに出した。

 友であり、主とも言える真田幸綱(さなだゆきつな)に、忍芽の不幸を早く伝えなければ、これから先 何も出来ない神平なのだ。

 織田三郎は信秀の嫡男、吉法師であった事。

 その吉法師を助ける為、忍芽様が最後まで奮戦し 非業の死を迎えた事…等々を書状にまとめ、忍芽の遺髪と共に十座に持たせた。

 “銭を持って来るから待ってろ!” の言葉と共に去る十座を見送る源三郎が独り言ちる。


「十座は躍起となっている織田方の目を逃れられましょうや?」


 隣で神平が独り言の様に答えた。


「一人であれば、監視など搔い潜るは造作も無いと申しておったの…今はそれを信じるしかあるまい」


  “待ってろ!” と言われたが、いつ来るとも判らない十座の銭を漫然と待っている訳にも行かない。

 かと言って織田領を通らず、出来れば今川領も通らず 甲斐・信濃に戻るとすると…非常に遠回りのルートとなるのは、読者諸氏も当たりが付くであろう。

 ざっと考えても、東海道をこのまま上り、近江の草津辺りで中山道に入り、美濃経由で伊那、諏訪に入るルートになる。

 先行している美濃組を大外回りで追っかける様な道程である。 そこそこ 金が掛かる。

 もう一つ、海路で伊勢安濃津(あのうつ)から駿河興津(おきつ)に渡り、身延道経由で甲府に入ると言う手も考えられるが、太平洋側は海流早く、また波の荒れやすい海で、安全な海路が無いのであった。 こっちは無謀な分だけ危険手当がうんと掛る。

 ここで、話しの流れついでに海運航路を説明すると…

 今でこそ日本の港の物流量上位は東京港、横浜港、名古屋港等 太平洋側となっているが、本州を取り囲む航路が完成するのは、東廻り航路が1671年。 西廻り航路が1672年だ。

 江戸時代も中期に差し掛かる頃までは東北、蝦夷地(北海道)の物資は陸路 あるいは日本海側から若狭、琵琶湖を通って、江戸まで運ばれていた。

 逆に日本海側の海運は古くから大陸との交易で海路が出来ていたので、室町時代でも三津七湊(さんしんしちそう)と呼ばれる、十の港が賑わっていた。

 因みに三津は

  ・安濃津 - 伊勢国安濃郡(三重県津市)

  ・博多津 - 筑前国那珂郡(福岡県福岡市)

  ・堺津 - 摂津国住吉郡・和泉国大鳥郡(大阪府堺市)

 で、太平洋側は安濃津だけである。

 ついでに七湊は

  ・三国湊 - 越前国坂井郡(福井県坂井市)、九頭竜川河口

  ・本吉湊(美川港) - 加賀国石川郡・能美郡(石川県白山市)、手取川河口

  ・輪島湊 - 能登国鳳至郡(石川県輪島市)、河原田川河口

  ・岩瀬湊 - 越中国新川郡(富山県富山市)、神通川河口

  ・今町湊(直江津) - 越後国頸城郡(新潟県上越市)、関川河口

  ・土崎湊(秋田湊) - 出羽国秋田郡(秋田県秋田市)、雄物川河口

  ・十三湊 - 陸奥国(津軽、青森県五所川原市)、岩木川河口

 で、見事に日本海側だけである。

 つまり、船体が大きく、頑丈になって初めて 太平洋の荒波に立ち向けえる様になったのである。


 と、日本の海運に思いを馳せていても、神平たちの懐は軽くなる一方である。

 旅立つにせよ逗留するにせよ、日銭を稼がねばならぬのだが、出来る事は…神平&鶚丸(鷹) そして、縫殿右衛門尉&山犬(甲斐犬)のアニマルショーであった。

 馬や荷車を止めておく、今で言えば駐車場スペースで鷹と甲斐犬の芸を見せ、小銭を稼ぐ、有体に言えば大道芸である。

 とても名のある鷹匠、忍術の家元とは思えぬ身の処し方ではあったが、この足止めで思わぬ遭遇をするのであった。


―――――――――

 こちらは尾張那古野で一時解体を迎えていた 雪斎党:伊賀者集団の皆さまである。

 大規模かつ長期間に及ぶ 『青田刈り作戦』 を成功裏に終えた伊賀衆は、何だかんだとゴネた挙句、割増ボーナスを香山教頭から引き出し、故郷の伊賀へ帰省するのだ。

 彼らは殺気立った尾張を抜けるにあたり、目立たぬ様 3名以下での移動、尾張国内での遊興禁止 等の厳しい掟が課せられ、浮き立つ心を抑えつけ、集合場所の桑名へ向かっていた。

 別に集団で里帰りしなくても良い様な気もするのだが、成功報酬は(かしら)である藤林保豊(ふじばやしやすとよ)が配布するので、何処かに集めておく方が都合か良かったのである。

 ゆえに彼らの普段着、修験者姿でも目立たない場所、桑名が選ばれた。

 また、成功報酬は香山を駿河に送り届けた双子の中忍 世碌、護碌が持ち帰る事になっていたので、長逗留が目立たない桑名が最適なのだ。

 そんなこんなの偶然の結果、運命の悪戯で、八幡部隊の生え抜きと雪斎党の実行部隊、本性を知れば殺し合う間柄が桑名、それも同じ宿に滞在する事態となっていた。


 先に相手の存在に気が付いたのは、探査能力に定評のある 望月源三郎であった。

 神平と縫殿右衛門尉が大道芸で日銭を稼いでいる間、特にやる事の無い源三郎は宿で昼寝をしていたのだが、廊下の向こうで昼から酒を飲み騒いでいる集団に気付き、いつもの習い性で素性探査(プロファイリング)をしていたのだ。

 すると、向かいで酒を飲んでいるのは、先月まで必死に追っていた雪斎党を想定していたプロファイルにヒットしまくる集団であった。

 憎き 忍芽様の仇が目の前に居る!

 急ぎ営業中の神平の元へ報告に走り、返す刀で討ち入る気満々の源三郎であったが、神平は源三郎を止め 更なる情報収集を命じた。

 雪斎党の全滅を内心誓っていた神平は、襲撃するのは今では無いと感じていたのだ。


―――――――――

 源三郎の探査の結果、元雪斎党現里帰り途中支払い待ち組(長いので以下、帰省組と称す)は、今夜大宴会を行う事が判明した。

 いよいよ(かしら)が登場し、待ち望んでいた報酬を受け取り、夜を徹しての宴会だそうだ。

 向かいの部屋で仇がドンチャン騒ぎをするのは、腹に据えかねる状況であり、伊賀者の頭目だけでも討ち取る事を源三郎は主張したが、神平は抑えた。


「源三郎殿の気持ちは良く(よう)判る…儂とて腹が煮える思いじゃ。

したが 今の我等が打ち掛かった所で、こちらも無事では済むまい。

ここで果てては忍芽様にお悦びいただけぬ…

命が惜しくて申しておる訳では無い。 雪斎坊主の首を取らねば気が済まぬと申しておるのだ」

「されば、神平殿は如何いたすと申すのじゃ」

「彼奴等の鉄砲を頂戴いたす。 実物を持って居るかは知らぬが、少なくともなにか弱味を聞き出せねば、彼奴等の(せん)は取れぬ…」

「は…斯様な事、余程難しゅう御座ろう…」

「伊賀者の(かしら)は 藤林と申したの? さればじゃ、幸綱殿の書状通りであれば 藤林は酒に弱い!

ならば酔わして 全て聞き出してやろうではないか。今宵は夜通し飲むのであろう?」

「確か、庚申待ちで徹夜じゃと申しておりましたが…

!雪斎党と酒を呑むので?正体がバレましょうに」  (※1)

「そう、藤林と呑むのじゃ。 …多分 バレぬ。

秘在寺で鉢合わせしたは、忠継(坂井)幸綱殿(真田)だけじゃ。合って(おうて)は居らぬ。

それに宮宿、古渡でも あ奴が出張っては来て居らぬであろうから、儂の顔は知らぬ筈じゃ。

そうか、庚申待ちか…ならば、こちらもそれに乗るか」

「…神平殿の酌で口を割りますかの?」

「うむ、一つ考えがある。城西衆の巫女殿からの知恵じゃがの…」

「…美月殿 で、御座るか?」 


 美月とはほとんど接点の無い源三郎が疑いの眼差しで神平を見る。

 彼にとっては美月の神憑った噂は 眉唾でしか無かったのだ。


「巫女殿は菓子で尼の口を割った。

女子(おなご)は甘い物が好きなれば、菓子を与えれば放って居っても喋ると申しておった。

要は好きな物を山ほど与えれば、口が軽く(かろう)なると言う事じゃ。

藤林は酒好きで愚痴が多いと書いてあった。

なれば旨い酒と美味い肴を与え、思う存分愚痴を吐かせれば、隠し事も喋ってしまうじゃろ」

「ふぅ、神平殿は巫女殿を盲信して居られる様で…我は信じられませぬ」

「良いから 宿場一番の酒と肴を調達して来てくれぬか」


 半信半疑の源三郎が台所へ向かうのであった。


 ※1:庚申待ち とは?

 突然ですが中の人です。…この出方は初めてですね。

 雪斎党の帰省組が夜通し宴会をするのは “庚申(こうしん)待ち” だからと言われても、意味 判らないですよね?

 何かと理由を付けて飲み明かすのは酒好きの習性だろう… と勝手に納得していた貴方!

 違います。 これはもう少し 由緒正しい風習なのです。

 元は中国で生まれた道教の考えなのですが、人間の身体には生まれながらに三尸(さんし) の虫が住んでいる。

 その虫が60日に1度巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜に、眠っている身体からこっそりと抜け出し、天上の帝釈天の所へ昇り その人間の60日間の行状を報告するそうなのです。

 で、帝釈天は悪事・悪心の報告を受けると、その者の寿命を減らしてゆく…というシステムなのですね。

 そこで対策として庚申の夜は徹夜して、三尸の虫に身体から抜け出す隙を与えない。

 と、完徹する方が体に悪い気がしますが、正に中国思想 『上有政策下有対策』=(上に政策あれば下に対策あり)ですね。

 この習俗は平安時代に我が国に伝わり、面々と実行され 宴会の口実となり、江戸時代に全盛を迎え 明治になってもなお行われていたのです!

 今も路傍でしばしば見かける庚申塔はその名残りです。

 まあ、最近は庚申の日に限らず、しょっちゅう夜通し飲んでいる方々がいらっしゃいますが、信心深いんですね。 (違うかもしれない)

 戦国時代でも織田信長が柴田勝家ら重臣と庚申の酒席を開き、中座した明智光秀を信長が鎗を持って追いかけた…なんて逸話も残って居たりしているんです。

 呑み過ぎは危ないと言う査証(エビデンス)ですね。 (違うかもしれない)

 おっと、重要な事をお伝えするのを忘れる所でした。

 帰省組が熱心に庚申待ちを行う理由です。

 彼等伊賀者は生きる為とは言いながら、ヘビーでダーティーな人生を過ごしているのです。

 帝釈天へチクられては、寿命がいくら有っても直ぐに足りなくなる事請け合いの生き様です。

 そこで、2カ月に一回の庚申待ちは、何が有っても実施せねばならない儀式なのです。

 先日も元服前の御曹司を、良く判らない理由で、良く判らない新兵器を使って殺してしまったのです。

 チクられたら即死級の所業でしょう。

 今回は何が何でも一睡も出来ない(カンテツ)のです!

 以上 桑名宿の現状でした。 スタジオにお返ししまーす。


―――――――――

 夜半の宿である。

 源三郎が掴んだ通り、帰省組は宴会に突入していた。

 神平は調子よく宴会の席に潜り込む事も考えたが、手下の中にはどこかで顔を見ている者が居るかもしれない。

 それこそ身バレが危ぶまれるので、藤林と差し飲みをする機会を伺っていたのだが、案外早く 機会は訪れた。

 小部屋へ移り、一人呑みを始めたと 源三郎が報告に来たのだ。


 早速 “さりげないお近づき作戦” を開始する、神平と源三郎である。

 まず、間違えて料理の数を多く注文した…のシチュエーションで、藤林の部屋の前で神平と源三郎が小芝居を打つ。

 そして藤林の部屋に申し訳なさそうに、料理と酒は要らないか 声を掛けるのであった。

 引き戸がスッと開き、赤ら顔の藤林が顔を出す。

 すかさず神平が


「いきなりで御無礼いたすが、酒は要らぬか?

庚申待ちで酒を一合頼んだが、手違いで一升持って来よった。

返すと言ったが、取り寄せの酒に由って、戻せぬと言いよる。

庚申待ちの夜に揉め事を起こすも(げん)が悪い…

不躾ではあるが御貴殿(ごきでん)も長夜を過ごされて居るようであったし、一献いかがであるかな?」


 神平の示す一升徳利をチラと見、改めて神平の顔に眼を戻した藤林は、目を細め


「タダか?」


 頷く神平は素早く招き入れられ、部屋に吸い込まれる様に消えた。

 一応、神平は伊那平の小笠原軍で働いていたが、松尾城で虎の旗印に攻められ、命辛々(からがら)逃げ出し、諸国放浪中の『坂井政直』なる下級武士と言う、アンダーカバー(裏設定)を用意し、差し飲みが開始された。

 ここからの二人のやり取りは、(うだつ)が上がらない浪人と 今一つ人望の無い中級武士の酔っ払いの愚痴にしか聞こえない物であったが、聴く者が聴けば 神平の誘いを躱す藤林!

 筋を変えた神平の打ち込みにカウンターで応える藤林!! …と言う、手に汗握るものであった。


 両者 体力、気力の限界に近い明け方である。

 朦朧としながら神平が口にした愚痴 “伊那松尾(いなまつお)城で雷の如き異な物を浴びたのが、怪事(ケチ)の付き始め” が思わぬ方向に発展し、藤林から輸入鉄砲の新情報が手に入ったのである。

 伊那松尾城は雪斎党の別動隊、藤堂三虎(とうどうみとら)が暴走して鉄砲の試し撃ちをやりまくったと、藤林は聞いて居た。 (※2)

 直接では無いが、関係者が迷惑を掛けた後ろめたさが、口を軽くしたのかもしれない。

 完全に酔眼となっている藤林が呂律の回らぬ口で語り出した。


「実はの…その轟音を出す物は、儂も知って居る。 知って居るも何も、それが悩みの種なのじゃ…」

「…悩みとな。 貴殿(きでん)の様なお立場でも、悩みが御座るとは驚きで御座る」

「…何の何の、人は生きて居れば悩みは尽きぬ物よ。 儂なんぞは下から疎まれ、上から無茶を押し付けられ…」

「成程のう…悩みは尽きぬで、御座るか…」

「そうで御座るぞ…はて、何の話しをしようとしていたか…」


 このままカンテツ間際の酔っ払いの会話を追っていては紙面が足りなくなるので、要点をお話する。

 藤林が語るには “轟音を発するモノ“ は薩摩の先、大隅国(おおすみのくに)に在る島に流れ着いたのだそうだ。

 いち早く藤林の雇い主が手に入れ、他には漏れぬ様 藤林は厳命を受けているのだが、それが悩みの種だとか。

 最初は “轟音を発するモノ“ を高値で買い取ったので、翌年以降 販売目的で異国船がやって来るのだが、付属品(弾丸と火薬と思われる)は買うが、本体は買わなかった。

 それで異国人は博多津や堺津に回り、売りに出ている様なのだが、それが藤井の落ち度と言われているそうなのだ。

 鉄砲本体は津渡野(つどの)でコピー生産を始めた為、ケチって買わなくなったのであろうが、言値で買い占めねば、独占など出来る筈は無い。

 それで責められるのは難癖としか言えず、中間管理職の悲哀がヒシヒシと感じられる話しであろう。

 肩を叩き、同情の言葉を掛ける神平は、心の中でガッツポーズを取るのであった。

 堺津に行けば “鉄砲” が手に入るのだ。

 これを持てば雪斎党を根絶やしに出来るのだ。

 内心の興奮が漏れぬ様、心を落ち着けながら、部屋の窓を見ると薄っすらと明るくなって来たようだ。

 藤林の顔を窺うと、彼も酔いの限界である様だ。

 これでフィニッシュだ! と神平は部屋の戸を開けながら、声を掛けた。


「ご覧あれ、夜が明けますぞ。 庚申が明けますぞ。 さぁ最後に一献」


 と、手早く懐から取り出した小さな丸薬を徳利に放り込み、藤林の盃に酒を注ぐ。

 丸薬は弱い眠り薬であるが、そんなモノの助けが無くても、最後の一押しであったのだろう。

 注がれた盃を飲み干すと、ニヤリと笑った後、そのまま倒れ込み 爆睡に入る藤林であった。

 神平はそそくさと身支度をすると部屋を出た。


―――――――――

 神平たちの部屋では源三郎と縫殿右衛門尉が鼾をかいて熟睡していた。

 きっと帝釈天へチクられても問題の無い、正直な生き方をしているのであろう。

 抑えていた興奮が溢れるのをそのままに振り起し、ぼぉと寝ぼけ眼を返す二人に宣言する。


「行くべき道が決まったぞ! 直ぐに発つゆえ、支度いたせ!」

「へぇ、東海道でがすか? 中山道でがすか?」

「奈良路じゃ! 堺津で忍芽様の仇をこの手に入れるのじゃ」


 日本史の授業では “1544年:種子島に鉄砲伝来” としか習わないが、世界史観点で見れば15世紀中頃から17世紀中頃は 『大航海時代』 と呼ばれる時期である。

 早い者勝ちの機運に乗って、ポルトガル・スペイン両国を中心に、ヨーロッパの船がイスラム世界を越え、アジアに殺到してくる時期なのである。

 種子島は偶々(たまたま)難破船が漂着した島であり、そこだけ押さえていても物資の流入は止められないのである。

 極東の黄金の国ジパングを目指して欲に駆られたポルトガル人が、目端の利く明国人が、博多に堺にやって来る。

 当然、売り物の中には鉄砲もあるのだが、当時の日本人が鉄砲の真価に気付かず、買手が現れなかっただけなのだ。

 鉄砲の威力を目の当たりにした神平は、躊躇なく買い占める意欲で、堺を目指すのであった。


 と、言ったことろで 一応 美濃組、伊勢組ともに危機を脱した模様である。

 彼等の旅は まだ続くのであるが、八幡部隊の無事を祈りつつ 本国 甲斐に目を戻す事とする。

 次回をお楽しみに。


 ※2:小笠原長時の高遠攻めのドサクサに乗り、今川製鉄砲の試射を行った事案。 詳細は第50話参照。

 因みに三虎の旗印(下記参照)は羊羹で有名な和菓子の老舗、株式会社虎屋さんの商標パクリである事は、まだ誰も気付いていない。

 挿絵(By みてみん)


 第69話・庚申待ちと鷹使い  完

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