第49話・北伊那平定
間一髪、高遠城を救った武田オヤジ―ズであったが、簡単には引かない将監である。
意地と威信のぶつかり合い。
第二ラウンドはどんな結末を迎えるのか?
戦国奇聞! 第49話・北伊那平定
【小笠原サイド:高遠攻略軍】
夜である。
神田将監は逃げ惑う兵に巻き込まれ、三峰川を本陣から一里半(6㎞)程の下った 宮花八幡神社 鎮守の森で息を潜めていた。
高遠攻略軍は敵の急襲を受け、瓦解したのだ。
一般的に言われる “総崩れ” と言うヤツである。
攻略軍大将・神田将監は未だに何が起きたのか、理解しきれていなかった。
西日を受け 橙に染まっていた高遠城を眺め、降伏勧告の文言を考えていたのが、一瞬で暗転したのである。
物見(偵察)を怠っていた訳では無い…一体全体、どこから湧いて出たのだ…
しかしいつまでも呆然としている場合ではない。
軍を立て直さねばならない。
落ちるにしても軍勢としてまとまらねば、狩られるだけである。
散り散りになった兵が集まるとすれば…伊那福与城が順当。
あそこの城主は長時様の義弟である。
とすれば、我も三峰川を渡り、福与城へ行かねばならぬ。
たとえ…たとえ虎胤に行く先を読まれて居ろうとも、大将の儂が行かねば形が付かぬ。
悲壮感出しまくりで空の月に誓う将監であった。
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【武田サイド:高遠城救援軍】
横田衆は高遠城救援の任を全うし、歓待を受けていた。
横田衆の頭目、横田高松は武田の猛将である。
彼は原虎胤と同様に晴信の父、武田信虎がリクルートした外様で、元は近江(滋賀県辺り)の人である。
転職早々、数々の戦功を上げたが、白眉の働きは今川との戦いであった。
1521年 駿河 今川氏親の将、福島正成が15,000の兵で甲斐に侵攻して来たのだが、大暴れの敵を僅か三千足らずの騎馬軍団で先陣を切り、決死隊で撃退する大活躍を見せた。
その功として信虎から感状と新領地を貰ったのが、この横田高松であった。 (※1)
鬼美濃こと、原虎胤が直観の猛将であるのに対し、横田備中守高松は 敵、味方の状況、戦場の状態を調べ、計算に裏打ちされた作戦を取る智将であった。
今回のアルプス越えにしても、山道に精通し、天候を読むのに長けた修験者をガイドに雇い、体調万全な者を選び、成功の確率を高める算段をした上での実施である。
また、自軍の将兵には作戦意図、達成目標を理解させ、自ら考えて行動する力量をつけさせており、最近流行のMissionCommandを既に実践している、驚くべき武将なのである。 (※2)
※1:騎馬隊の単科運用が新機軸! とか 春日君がはしゃいていたが、20年以上前に実践されていたのであった。ハズイ!
※2:世の中は繰り返しである。 今の最先端と思われているモノも調べてみると、昔々のロストテクノロジーだったりするのである。
さて、そんな横田衆であるが、高遠城救出戦では門の解放担当であった。
大手門を取り囲んでいた矢島、花岡等の諏訪西方衆を一蹴し、そのまま搦手門へ回り、水の手を守る小笠原信定の部隊に襲い掛かった。
“襲い掛かる” と言っても高松隊のそれは 静かに忍び寄り、包囲されたと相手が気付いた時は 既に手遅れ…と言う、群狼の様な戦いを得意とする部隊である。
板垣隊が多大な犠牲を出しながら取り返せなかった水場を、半刻もせず奪取したのだ。
その後水汲みまでして、籠城兵に水を配った高松隊は歓喜を以って、高遠城に迎えられた。
城代・板垣信方が涙ながらに高松の手を取り、礼を述べる。
「た…高松殿…お助けいただき、忝き限り…
ここ高遠城は喰い物には事欠かぬゆえ、今宵は御緩りと…」
「なぁに、お気に召さるな。ここ暫くは体が鈍って居った程に、丁度よい相手であった」
「それにしても、あの山を超えて来るとは…驚き入るばかり」
「なぁに、それは鬼美濃殿がやると申すで、付き合ったまでの事。
ふふふ、虎胤殿は 信方殿へ恩が売れると嬉しそうで御座ったぞ」
“虎胤が…恩が売れて嬉しそう” と聞き、信方は明白に顔を顰めた。
端から見ると似たような性格に見えるのだが、虎胤と信方は反りが合わないのだ。
自己嫌悪的な反発なのかもしれないが、いい大人が厄介な事である。
「さ…左様で…その虎胤殿は何処じゃ?」
「さぁ…儂が見た時は川向うの敵陣を打ち払って居ったが…その後、姿を見ぬの。どこ迄敵を追っていかれたやら」
「…昔より何を考えて居るか判らぬ御仁じゃが、今回もまた…面倒を起こさねば良いが…」
「面倒と言えば、上諏訪、甲府では気を揉んで居ろう程に、早急に使いを出さねばの。
その上で追い打ちをどう掛けるか軍議じゃ」
「お、おう。そうであった。 使いの事はすっかり忘れてたおった…」
常識人の横田高松はちゃんと結果連絡を考えていた様だが、板垣信方はスコッと忘れていたのである。
そして原虎胤はここでも行方不明の様である。
武田のオジサン方は割と癖が強いのだ。
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【小笠原サイド:高遠攻略軍】
月明りを頼りに逃避行を続け、明け方に福与城へ着いた神田将監であったが、城主・藤沢頼親は明らかに迷惑顔であった。
藤沢頼親の正室は小笠原長時様の妹君であるので、長時様の義弟、つまり親戚の戦の筈が、負け濃厚と感じると手のひらは綺麗にひっくり返るのだ。
そんな顔をされても、簡単に撤退する訳にもいかない。
散り散りになった小笠原軍の半分も人が集まって居らぬし、長時様の弟 小笠原信定殿の行方も判らない。
今後の事を考えても、諏訪西方衆にも舐められぬ様、ただ逃げ帰る訳には行かない。
ここは態勢を立て直し、武田の鬼美濃を追い返す位の気概を示せねばならぬのだ。
将監は背筋を伸ばし、城主・藤沢頼親に向かい、毅然とした声で指示をした。
「城で狼煙を上げていただく。 さすれば、彷徨っておる小笠原の兵が集まりましょうぞ。
昨日は虚を突かれましたが、今日は集まった兵を以って武田を追い返すまで。
小笠原一門である頼親様の合力あれば、容易い事と存ずる。武田と諏訪衆に一門の力、見せつけましょうぞ!」
「お…おぉ…(乗り気では無い)」
将監の読み通り、城の狼煙に導かれ 小笠原の敗残兵が三々五々集まり、数えて見れば1,600になった。
西方衆は略略欠員なく1,500程。(戦わず 即逃げた事が明白…)
それに乗り気ではないとは言え、福与城の藤沢方が350。
合わされば3,450。 高遠城を奪うのは無理にしても、一合戦は十分に出来る数である。
高遠城を解放した武田軍は、将監たちが福与城に入った事は掴んでいる筈であり、追い打ちを掛けるのは絶対であろう。
しかし兵たちの証言からは、敵勢は思ったほど多くは無さそうであると知れた。
今度はこちらが籠城戦である。これだけの兵が居ればそうそう簡単には落ちはしない。
とは言え、援軍が望めない籠城は必敗の策。ただ城に籠っていてはダメだ。
ここは武田を追い払い、後顧の憂いを絶ち、整然と引き上げれば小笠原の面目は立つ。
ゆえに将監は、武田迎撃作戦を決行する。
天竜川の東岸の河岸段丘に築かれた福与城は、目の前の天竜川を挟み 半里ほど先の丘に箕輪城という支城を設けていた。
将監は小笠原軍を半分に分け、800の兵を率い箕輪城に入った。
この軍を遊軍とし、福与城を囲むであろう武田の背後を突く。
陣形が乱れた所を福与城の兵が呼応し、打って出れば良い戦が出来る筈である。
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【武田サイド:高遠軍】
夜明けを迎えた高遠城である。
朝日と共に小笠原勢の追撃を開始する武田軍であるが、福与城に敗残兵が終結している事は横田衆の探索で既に掴んでいた。
数は定かではないが、高遠城を囲んでいた軍勢が丸々逃げ込んだとすると、3,000を超すやもしれない。
対する武田方は横田衆が1,200、板垣衆で動けるのが400、飛丸が15機である。
虎胤隊が600程いる筈だが、一昼夜たっても高遠城に入らず、どこで何をしているか不明であった。
(まったく、何を狙っているのやら…フリーダムな虎胤である)
等々ざっと見積もって 小笠原 3,000 vs 武田 1,600+飛丸15 で、絶対有利とは言い難い戦力差であったが、高松はこのまま見逃すつもりは無かった。
狙いは諏訪西方衆である。 今後の支配を確実にする為には、彼らに武田の強さを見せつける必要があるのだ。
高遠城から三里(12㎞)を二刻(4時間)で踏破し、昼前には福与城前に陣を敷く横田衆であった。
もっとも大半が三州街道の進軍路は、アルプス越えする彼等にとっては散歩道である。
なお “城攻めには飛丸隊の出番!” と勢い込んで先陣を望んだ信方であったが、通常の荷車での移送は時速1㎞程度であり、現着想定が夜となる為、先陣は却下された模様である。
山上の城から見れば、横田衆が大した数では無いのは見て取れる筈なのだが “釘貫紋” の旗印に恐れをなしてか、小笠原勢は城から打って出ようとしない。
籠城の準備も出来ていない福与城であろうから、城下を囲み長期戦で落としても良いのだが、高松隊も長期戦の準備はしていない。
一計を講じた高松は馬回りを呼び集め、いくつかの指示を出した。
「近所の小屋を訪ね 藁束か蓑笠を買って参れ。 盗るではないぞ、銭を払って買うのじゃぞ。
それと薪を一抱え づづ、拾って参れ」
「なにを為さりますか?」
「なぁに、あの真面目な将監が考えそうな事の裏を掻くのじゃ。…刻が無いでな、急げよ」
日が暮れかかる頃、板垣衆の飛丸隊、15機が到着した。
上諏訪の砦攻撃では大いに威力を発揮した飛丸であったが、高遠の飛丸隊にはまだ新型弾は届いていなかった。
その為、雷玉は疎か 赤玉や青玉も無く、使えるのは現地で材料を調達できる竜弾のみという状況であり、敵城門を破るには非力と言うしかない。
つまり、武田方も城攻めの決定打が無いまま、夜を迎えるのであった。
現場の状況を図にすると以下である。 (図:1)
図1:初期陣構え
高松は福与城を見渡せる草地の一角に幕を張り、本陣(作戦指令所)とし、城の大手門に射程が届く地に飛丸隊を置いた。
このまま互いに睨み合いで緊張の夜を迎える事になるのだが、高松は本陣の周りに篝火を焚き 暗がりを少なくする手立を講じた。
本陣内にも火を焚き、本陣の人影が幕に揺らめき、緊迫を伝えている。
夜も更け 城方も武田方も眠りに着こうかという時でも、高松本陣は火を落とさなかった。
幕内では軍議が続いているのか、人影の揺らめきも変わらなかった。
そんな中、高松本陣の背後、天竜川の河原から一団の影がジリジリと近づいた。
篝火に照らされた兜の前建ての煌めきに見張りの兵が気付き、誰何の声を掛けると同時に、多くの雄叫びと共に影が本陣に突入した。
時を同じくして福与城からも飛丸隊の陣幕に夜襲の兵が殺到した。
高松隊の見張り兵は傍に繋いでおいた馬に跨ると、呼子笛を吹きならし、脱兎のごとくその地を離れて行く。(図:2)
図2:将監夜襲
本陣に斬り込んだ夜襲部隊は、目にした物に動きが止まった。
斬りつけた先は案山子であった。
呆然とする間もなく、上空からの唸りを聞いた。
音の方向を仰ぎ見た時は既に無数の石礫に包まれていた。
本陣の外でも同じような光景が起きていた。
夜襲に備え、幕内に引き上げていた飛丸隊陣地でも、福与城からの夜襲部隊から悲鳴が上がっていた。
先陣を切り突入した神田将監は状況を悟り、叫んだ。
「仕舞った!罠じゃ!」
その時、非常にも竜弾の石塊が将監を直撃した。
避ける場所の無い陣幕の中で、砲撃を辛くも逃れた者が声高く叫んだ。
「引けぇぇ!!」
読者の皆さまもお気づきの様に、弓矢巧者(戦上手)の横田高松は、夜襲を読んでいたのだ。
読んでいて、ただ迎い討つのではなく、誘い込み反撃する策を用いた。
近所で調達した薪で盛大に火を焚き敵の目を本陣付近に集め、これまた近所から買い求めた藁束、蓑笠で案山子を作り、陣地の囮兵としたのだ。
本陣と飛丸隊は夜陰に紛れ河原に移動し、夜襲を掛けた小笠原勢に竜弾を浴びせたのである。
仕上げは箕輪城に逃げ戻る小笠原勢を横手から襲撃し、さらなる追い打ちを咥えたのであった。 (図:3)
図3:夜襲撃退
斯くして、神田将監の策は潰えた。
夜明け前には箕輪城の中まで高松隊の侵入を許した将監の遊軍は、降伏した。
続いて正午までには福与城が開城した。
福与城主・藤沢頼親は自力で戦う気など毛頭なかったのである。
大将・将監の討ち死が、小笠原軍にとって致命傷であった。
死者に鞭打つ様で気が引けるが、将監の戦術は教科書通り、優等生過ぎなのであった。
出る杭を打ちまくる名門 小笠原家の中では優秀な戦術家で通ったようだが、直感のままに動く虎胤や、調査結果に一ひねり加える高松には通じなかったのだ。
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時間的には少々前のめりとなるが、この後の戦後処理について 報告をしておこう。
武装解除された小笠原、諏訪西方衆などの敗残兵は、近隣の法界寺と養泰寺に捕虜とし、10日ほど拘束された。
知らせを受けた甲府では駒井政武を奉行として、福与城に派遣した。
諏訪大社の宝鈴を携え到着した駒井は、恭しく宝鈴を鳴らし、西方衆、伊那衆に武田への帰属を誓約させたのであった。
と、すっかり終わった気になっていたが、まだ残っていた…
皆さんもお忘れになっていたと思うが、原虎胤と小笠原信定の2グループが行方不明であった。
次回は彼等の行方を追わねば、伊那平から出れないのである。
お付き合いいただく、お覚悟召されよ。
第49話・北伊那平定 完




