episode1「学年一のビッチを助けてしまった件」
まさか自分が「痴漢」なんてものを目撃してしまう日が来るなんて思わなかった。
それも目の前で。
俺、岩川竜司は都内の学校に通うごく普通の高校生2二年生。
今日も平和にすし詰めの満員電車に押し込められて、いつも通り学校の最寄り駅でそこから解放され、何事もなく自分が通う都立桐嶋高校へ向かう予定だった。
しかし。
今まさに俺の目の前では「痴漢」が繰り広げられている。
推定40~50歳くらいのサラリーマン風のおっさんが、ガッツリ女子高生の尻を撫でまわしている。
立派な犯罪行為だ。
そして制服から見るに痴漢を受けている女子高生は俺と同じ高校の生徒だ。
俺と同じ高校のその女子生徒は、うつむいたまま微動だにしない。
おそらく怖くて声も上げられないのだろう。
女子生徒は少し茶色がかった長い髪で、スカートの丈はこれでもかってくらい短い。
いわゆる「ギャル」ってやつだろうか。
正直今にもパンツが見えてしまうんじゃないかと心配したくなるほどのスカートの丈の短さに、そんな格好をする方もどうかとは思ったが、状況は状況だ。
あいにく自分以外は誰もこの事に気付いていないらしい。
普段はクラスの端っこで目立たないコミュ障な俺でも、この時ばかりは意を決心した。
「す、すいません!」
すかさず歩み寄り、女子生徒とおっさんの間に体を入れに行った。
体を入れに行ったはいいが、この人痴漢です!とおっさんを検挙するまでの勇気は出なかった。
やはり勇気を振り絞っても所詮自分にはこの程度しかできないのだ。正直情けなくなる。
おっさんはすかさず分が悪いような表情をしながら、俺に背を向けてさっきまで女子生徒の尻を撫でまわしていた手でつり革をつかんだ。
残念だったな、おっさん。
と、その時。
「あ、ありがとうございます...」
後ろから今しがた助けた女子生徒の声。
「い、いえいえ...」
こんな時、いさましく胸を張って返事をしたいものだが、いかんせんそれが出来ないのがコミュ障。
どんなに頭の中でシミュレーションをしても、口から発した言葉は9割超えでたどたどしくなってしまう。
そう言いながら振り返った瞬間、俺は言葉を失った。
俺はこの女子生徒を知っている。
そう、今まさに俺が痴漢の魔の手から助け出したこの女子高生は、俺と同じクラスで学年一のビッチと噂されている「高槻穂乃果」だ。
いつも教室では足を組んでスマホをいじっているのが基本スタイル。
モデルみたいにスタイルが良く、整った顔立ちにロングの茶髪。典型的な「ギャル」ではあるが、一匹狼タイプといった感じで他の女子生徒とも群れることはなく、いつも一人でいる印象だ。
その分、いつのまにか彼女には学年一の「ビッチ」という称号が密かに与えられ、昨日はあの先輩と、一昨日は大学生の彼氏と、なんて噂が後をたたない。
そんな孤高のビッチという印象しかない高槻穂乃果がたった今、か細い声で俺にお礼を言った?
何かの間違いじゃないよな?
一瞬しか顔は見えなかったが、目元なんて恐怖に耐えすぎたせいで涙であふれているように見えた。
正直ただの一方的なイメージでしかないが、高槻穂乃果のことなら痴漢にあったら一瞬で声をあげて当人の腕をへし折ってそのまま警察まで連行していきそうだ。
そうこうしてる間に、最寄り駅に着いた。
雪崩のように人が乗り降りする中、当然高槻穂乃果もここで降りる。
すると律義にも彼女はもう一度お礼をしようと、ホームに降りてすぐ俺の方を振り返ってきた。
「あ、あの...さっきは本当にありがとうございました...」
彼女はクールで孤高なギャルの見た目に反して、うつむき加減で低姿勢で俺に言ってくる。
いつもクラスで見ている彼女のイメージとは全くもって異なる。
「いやいや、当たり前の事したまでだし...」
何かっこつけているんだ俺よ。
「いえ、そんな...。何かお...」
その時、顔をあげた彼女が初めて俺の顔を見た。
「え」
「え?」
彼女の表情が変わった。
「その制服...」
「あ、あぁこれ?そ、そうだよ...。君と同じ桐嶋高校...。ていうか同じクラスなんだけど覚えてない...?」
「...誰?」
4月に2年生になり、同じクラスになってから約2か月。
席もさほど遠くない。俺が一番後ろの窓際で、彼女はその二つ前。
それなのに彼女は俺の顔も名前も覚えていない。
少しくらいは知ってくれていると思っていたので正直ショックだ。
だが仕方ない。俺は万年空気みたいな存在。
俺のことを認識している奴の方がむしろ少ないだろう。
「岩川竜司...。いちおー、同じ2年D組...」
「ふーん...」
そう言い放って彼女はさっきまでと打って変わって、いつもクラスで見ているようなクールな顔つきになった。
というより、すかさずクールな顔に切り替えた、というべきか。
いずれにせよ、彼女はそのまま俺へと一歩ずつ歩み寄ってきた。
やばい。近い。
彼女の顔はもう目の前だ。
近すぎる。
おまけに三つ目のあたりまでボタンをはだけさせたシャツからはわずかに胸の膨らみがうかがえる。
俺はなるべく視線をそちらに向けないように努力をすることにした。
額を冷や汗が伝う。
息がかかりそうなほどの距離。心臓の鼓動が早くなる。
「な、なに...。高槻さん...」
「あのさぁ」
「う、うん...」
女子とこんなに近くで会話をしたことがない。
ましてや今目の前にいるのはあの高槻穂乃果。
モデル顔負けの綺麗に整った顔が俺の視界を覆う。
「絶対言わないでよね」
「え?」
「だから...、さっきの事。絶対言わないでよね」
驚いた。
クールを装った彼女の顔は恥じらいを隠してか、少し赤くなっているようにも見える。
「い、言わないよ...絶対に...」
「ほんと?絶対だからね」
「う、うん」
「あと絶対学校じゃ話しかけんな。私とあんたは何も無かった。いい?」
「う、うん。分かってるよ...」
そう言うと彼女は短すぎるスカートをひるがえして去っていった。
正直言うと彼女の顔が近すぎて俺はずっと心臓が破裂しそうだった。
やっとの思いで解放されて今、俺は大きな脱力感に襲われている。
すると、
「よぉー、竜司おはよー」
急に後ろから声をかけられて「ビクッ」としてしまった。
「お、おはよぉー、康介...」
今まさしく後ろから俺に声をかけてきたのは山形康介。
隣のクラスの同級生だ。正直幼稚園からの腐れ縁で、友達というわけでもない。
「どうした竜司?そんなビクついて。なんかあったか?」
「い、いや...。なんでもないよ...」
「ほんとかー?誰の事見てたんだ?」
康介が先程までの俺の視線の先を追おうとする。
「い、いや!なんでもないって!」
「ん?あれは...、高槻穂乃果?」
しまった。
「お前、あの<ビッチ>のこと好きなのか?」
「いや、違うよ!全然!」
「あいつはやめとけー、なんせ学年、いや、学校一のビッチとの呼び声高いからな。なんとその数3桁越え!あー、恐ろしい恐ろしい」
「だから違うって...」
「でもそういやお前童貞だったよな。ダメ元でお願いしてみれば?うまいこといくかもよ?」
「違うって言ってるじゃん...」
康介には彼女がいる。いわゆるリア充だ。
「そういえば康介、なんでこの電車乗ってるの?いつもは違う電車で通ってなかったっけ?」
「あぁ、昨日隣町の女子高のやつらとカラオケオールしてきたからな。朝帰りってやつ?」
なんと。彼女がいながら他の女の子とも遊び惚けてるのか。
元々チャラいやつだとは思っていたがここまでとは。
やはり住む世界が違うよ康介は。
「康介はさ...、高槻さんと何かあったりするの...?」
思わず気になったことをそのまま口にしてしまった。
「あ?どうした急に?」
「い、いや。別に、ちょっと気になって...」
「お前やっぱりあいつ狙ってんのか...?」
「い、いやそういうわけじゃ」
「ねぇーよ、何も」
「え?」
「一回連絡先聞いたんだけどさ、ガン無視してくんの。あいつ。ムカついてそれ以来一切関わらないようにしようと思ったね」
「そ、そうなんだ...何か意外」
意外だった。
噂といえど学年一のビッチと言われる高槻穂乃果とチャラ男の康介なら、何かしらの関係があってもおかしくはないと思っていた。
「てかあいつ、ビッチのくせに基本誰とも話さないだろ?イケメンの大学生と遊び惚けてるとか会社の重役とエンコーしてるとかいろんな噂あるし、俺らなんか眼中にないんじゃね?」
「そう...かなぁ...」
高槻穂乃果。ほんとうにいろんな噂が飛び交っているんだな。
康介たちはこう言っているけど、実際のところどうなのだろう。
さっきの痴漢に襲われているときの彼女の怯えたような表情、俺にお礼をしようとした彼女の態度、ほんとうに彼女は「ビッチ」と呼ばれるような人間なのだろうか。
俺の頭を疑問がよぎる。
学年一のビッチはほんとに「ビッチ」なのだろうか?