恋とよべなくても愛を知らなくても
活気のある通りだった、昔からあるパン屋はいつも小麦粉の焼けるよい匂いがして、ところせましと色とりどりの野菜や果物を並べる屋台があり、近くの漁港から荷揚げされた魚介類は時おり豪快に跳ねた。不思議な話を語って聞かせるアンティーク屋もあり、彼女ーー10歳くらいの長い金髪の髪をリボンで束ねた愛らしい少女は楽しそうに歩いていた。かといって、なにも冷やかしばかりというわけではない。買い物の手伝いでやってきたので、腕に下げたかごに頼まれた品を入れていく。一杯になった頃、パンは焼きたてがいい、ということで、通りすぎたパン屋に再び戻り、食事用のブレッドを購入する。彼女の要望を知っているので、パン屋の店主も熱々を用意していた、彼女は大抵同じ時間にやってくる。彼女は賢い小動物の眼差しで、にこりと嬉しそうに微笑む。それは見ている人をも微笑ませる力があったので、店主も例に漏れず笑い、
「嬢ちゃんはいつも偉いな」
と大柄な手で彼女の頭を撫でた、加減がなく彼女の髪は大いに乱れた。
「いつも美味しいパンをありがとうございます」
「また来なよ」
「はい、またかならず来ますね」
まだ幼く思える彼女ははっきりと話す。躾というより生い立ちだの所以だが、そうすると、彼女の立ち振舞いは大人びている、小さい子供が一生懸命大人の真似をして、礼儀よく振る舞おうとしているようだ。それがまた可笑しいやら愛嬌があるやらで、荷物を抱えて歩く彼女に声をかける者も多い。その度に彼女は折り目正しく、挨拶を返していく。
ーーと、彼女は思いがけない人物を見つけた。
「マルコール様!」
「ーー……」
どこか神経質そうにその人物は振り返った。眼鏡をかけた冷たい印象の顔立ちの男で上げた前髪は乱れなく、きっちりとしている。折り目の正しさは服装に現れている。規定通りの軍服。靴に無論汚れなどにない。少女は慌てて乱れた自分の髪を撫でつけながら、
「あ、すみません、お仕事中に」
「いえ、とんでもないです」
少女の知人にしては随分年上の三十過ぎの軍人は地面に膝をついた。目線の高さを合わせて微笑む、と幾分冷たさは和らぐ。
「エリザベート様もお仕事中でしたか」
「い、いえ、わたしなど子どものお手伝いで」
実際その通りだが、それを子供が言うと可笑しみがある。
「ご立派ですよ」
「有難うございます……」
顔を赤くして少女は俯く。
「お手伝いします、お荷物を」
軍人は掌を向ける。
「そんな、これはわたしの役目で」
「エリザべート様を支えるのも私の役目ですから」
男に引く様子はない。
気遣いに長けた少女は戸惑いがちに折れた。
「お願いします」
「はい」
お任せくださいと、少女の腕から買い出しの食材を受けとり、男は立ち上がる。
「………マルコール様は」
「はい」
「わたしをなでたりはされないのですね」
「はい?」
少女は思ったままを口にしたままで。
男は不意を突かれて戸惑った。
「……私は、ご婦人の髪を迂闊に触れたりはしません、」
が、と言って男は口を閉ざした。
「ごふじん」
少女は瞬く。
それこそ迂闊な発言だったと男は気取れぬように呻いた。
「忘れてください。屋敷へ帰りましょう、ご心配されてるかと」
「ーーはい」
少女は微笑む。
男は目線を合わせなかった。
年端も行かぬ少女と軍人の組み合わせは知らない人がみると親族だろうと思われる。しかし、その実、二人は婚約者同士だった。男がなにも少女趣味の変態ということはなく、これは子細があるのだが、それはまたの機会にして、二人はぽつぼ会話しながら屋敷までの道のりを行く。年齢、外見、足音だって丸きり違う二人の、お話はこれにてはじまりはじまり。