γ-II : Directions
自分が先輩を怖いと思うなんて、初めてのことじゃないか、と彼は考えている。彼の前の彼女はだいたい、子供っぽい彼よりずっと大人びていたか、あるいは彼よりずっと感情を爆発させるか(ただし楽器に対して)、のどっちかだった。
彼女は、演技とまで言わないにしても、見せたいものだけを効果的に見せていたのだろう。彼の考えは、おおよそ正しい。
一方で彼は、随分前からどこか気味が悪いと感じていた。不快じゃないことが不快だった。
つまり、彼女は彼が不快に思わないギリギリの距離――それはだいたい人間の健全なコミュニケーションが可能な限界の距離――にいつも居て、彼のパーソナルスペースを侵さないよう立ち回っていた。
まず、そういう人間類型の実在からして彼にとって驚異だった。しかしいつのまにか、週に三、四回はこの場所で会うようになっていたし、距離自体はじめと比べて少しずつ縮まっている。それでいて「無理」の感情が湧かない。ということに彼が気づいたとき、吐き気すら催した。
何よりも、そのぐらい取り込まれてもなお、彼は彼女のことが何一つ分かった気になれなかった。彼女はエゴを出さなすぎる。彼がエゴを出しすぎることを加味しても。
自分は先輩の本質的な部分を何一つ知らないのに、先輩は恐らく自分の本質的な部分をとうの昔に見抜いているだろうこと。情報の非対称性。
でも、元を正せば、ここまでの行き違いは自分が原因だ、と彼は思う。
多分、底が見えないのが気持ち悪いだけで、先輩の本質を覗けますとなったら、別に覗かない気がする。
彼はただ、ピアノを聞いていた。彼女の細い腕と大きい手から生まれる、いままでこの世界に無かったはずの、和音の展開。飛行。その芽生え。
協和音と不協和音の行く末を、ただ見つめていたかった。