γ-I : Toward the end of quasi-story
彼と彼女はいつもの場所に戻ってくる
「とりあえず、先輩、麻薬だけはやめましょうよ」
彼女は右手に持っていた、小さなナイフを落とす。店主がレコードの音響のためこだわったとかいう、分厚い板張りの床を転がる音がやけに響いた。夜のとばり。
「大麻とか覚醒剤とか、軽そうな奴なのか。それとも、コカインとか、ヘロインとか、絶対ヤバい奴なのか……いや、60年前ならともかく、今時ヘロインは無いっすね。学生が買い続けられる代物じゃあないし、売人も売らないでしょ」
部屋全体が薄暗かったから、彼には彼女の表情が見えない。青ざめているのかもしれないし、唇をかみ締めているのかもしれない。
しばらくの間、呼吸だけで会話する。暖炉をつけていないから、とても空気が冷たかった。
彼女の反応が無い。
もしかすると今も軽くキメているのかもしれないな、と彼は思う。半分ぐらい本気で。
「いや、別に主導権を握りたいとか、そういう考えがあったわけじゃないっすよ。俺がそういう、取引みたいなこと全般が嫌いなのは、何となく分かりますよね? 正直言って、ヤクの件はどうでもいいと思っているから、最初に片付けたいんです」
やや早口になりながら、彼は言う。近くの椅子を右手で探り、握り締める。
もうちょっと動揺を期待していた。相手が何を考えているのか分からない。こうなった経緯もよく分からないし、これからどうなっていくのかも分からない。ただ、絶対に有効だと思ってた切り札がスカだったのは事実だ。
逆に、掴まされた捨て札を大事な場面で使わず済んだともいえる。
ともかく後は、即興でやっていくしかない。それは結局、いつもやっていることだ。
彼は大きく息を吸う。呼吸が荒いのは、今や彼女より彼の方だった。
「まあ先輩がクリフォード・ブラウンみたいな聖人タイプじゃないのが残念……残念でもないな、ああそうだったんっすね、という感じで。ただ、本当にヤクだけはやめた方がいいっすよ。バード、あの麻薬中毒のクソ野郎が言ってるんだから、これは本当です」
ここが今日来て良かったポイントですね、と続ける声はしぼんだ。
彼の目が慣れてきた。そして見た。
彼女はただ彼を見つめている。その黒い瞳で。