針は落ちた、時計は止まった
導入部、大詰めです。
七瀬は蜘蛛足の化け物を見上げた。
「しくじった。あんな有様になる前にどうにかできたかもしれないのに」
もっとも、この場合の「どうにか」とは樋口を殺すこと以外になかったのだが。
「フェレス、このままだと樋口はどうなる?」
彼は使い魔に尋ねた。
『夜の妖精に取り込まれた状態ですわね。一両日と保たず自我は消え、ナイトコバルの一部となるでしょう』
憐憫の情など漂わせることなく述べる。
ここまで状況がこじれれば、七瀬も樋口に同情はできない。問題は、彼の自我が消える一両日未満で、どれほどの犠牲者が出るか、ということだ。
「ギシャアア!」
外見同様怪物のような奇声を上げて、暴風のように襲い掛かる。
蜘蛛足の鞭を不恰好に後転しながらでも、七瀬がかわせたのは奇跡に近い。尻もちをつく七瀬を尻目に、怪物は見境なく壁や調度を破壊する。
「自制できてないのか。凶暴性が倍増してるな、こりゃあ」
崩れた壁から外が見渡せる。柱を失った屋根は大きく傾いた。
体を覆っていた黒い霧が噴出する。噴出する範囲が、樋口が合言葉と共に使用していた時の比ではない。 壁や天井の穴から霧が外に逃げ出した。
すぐに周囲の家から悲鳴が聞こえてきた。
『あれに触れても、視覚と聴覚は失いますわよ。近隣に被害が出ているようですわね』
騒ぎを住民が聞きつけたとしても、応援を期待するのは難しいようだった。
「それ、もうテロじゃないか。ナハトコボルドと一体化寸前ってわけかな」
怪物の顔が、ピタリとある一点で止まる。
「オ前――フェレス……」
白尽くめの使い魔を認識した。妖精の方の知識だろうか。
『あら、下妖に担がれただけの“素養無し”が、取り込まれたことで、わたくしが視えるようになりましたの?』
樋口だったころの行動からは、フェレスに注意を払う素振りは見えなかった。どうやら樋口の目には使い魔が見えていなかったようだ。
七瀬はそこまで考えていたわけではないが、フェレスは元より“守る対象”のカテゴリーに入れなくて良かったということになる。今までは。
「それって、かなりマズいんじゃ」
見えるということは、標的になり得る、ということだった。
『小妖精風情に呼び捨てにされる謂れはありませんわ』
不機嫌に言い放つと、怪物から憎しみの感情が空気を伝わってきた。黒い霧が倍増する。
「オ前サエ、オ前ト七割サエ邪魔シナケレバ!」
わずかに感情がこもる。夜の妖精と樋口の意識が混濁しているようだった。
『邪魔と誘惑は悪魔の十八番ですわよ、失敬な』
フェレスが自分を悪魔と言ったことに、七瀬は気づく余裕がなかった。
「舌戦もいいけど、もうちょっと離れておこうよ」
使い魔を抱きかかえ、霧に触れない距離まで後退する。撤退しようかと思案していると、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「七瀬、無事なら早く逃げなさい、七瀬!」
異変を察したのだろう、隠れた場所から廊下に転がり出た優雅が叫んでいる。大きな怪我がないことは幸運と呼ぶより他にない。
目も見えず耳も聞こえない状態で、まず七瀬のことを心配しているのが彼女らしかった。
のっぺらぼうの怪物が優雅に顔を向ける。
「これで逃げ切るってセンも怪しくなってきた」
優雅をかばいながら逃げ切ることは不可能に等しい。無防備な優雅が一撃食らえば、何が起こったか分からないままに天に召されることだろう。
廃屋に入る前とは異なり、フェレスを守ることも考慮に入れなければならない。
樋口は人間を辞めた。
幾重にも不利な条件が重なっていた。
新たな標的を殺そうと歩み寄る怪物を止めるため、七瀬は瓦を拾い上げた。
「んんんっ……!」
瓦で脳天を殴りつける。凶器はあっけなく砕けたが、化け物はなんのリアクションも示さなかった。
わずらわしそうに脚を一閃すると、腹を蹴りつけられた。興味が優雅に移っているせいか、追撃は無かった。
怪物にしてみれば軽く押した程度の認識かもしれないが、七瀬の腹は痺れて感覚を失った。どこかの筋肉が断裂していてもおかしくない。
「……フェレス、頼みがある」
七瀬は、独力での解決をあきらめざるを得なかった。
『はい、御用命は?』
にっこり微笑む。恐らく、七瀬が言い出すのを待ちかねていたのだろう。
「僕のした契約は、まだ1回目なんだよな? このままじゃ優雅を助け……あいつを倒すことができない」
樋口であったモノを見た。
『人外に対抗するには、人の身では埒外というものですわ』
フェレスは何かを待っている。この決断を促すために、彼女の全てはあった。
「それは実感したよ。だから、君に助けて欲しい。君は“下等な妖精”じゃないから、代償は軽めに頼むよ……2度目の契約を!」
白尽くめの使い魔は嬉しさの余り、少年に抱きついた。
『無論です! わたくしのナナセは、あのような下衆如きに劣りはしませんわ!』
抑揚をつけて使い魔が踊る。廃屋の床の上で、白い靴がカンカンとリズムをつけて小気味の良い音を立てた。
悪魔は高らかに宣言する。
『 “Es ist vollracht!(針は落ちた、時計は止まった)”』
次話は15日投稿します。




