絶息酒場
徐々に視界が開けてきた。そしてその広さに圧倒された。まだ胸がドキドキしている。どういうわけか動き易くなったようだけれど、そのかわり異臭が鼻についてしかたない。
ずいぶん長く眠っていたような気がする。何度か途中で目が覚めたようだが、不覚にもきれいさっぱり忘れてしまった。ただ、俺が眠ったのはこんな場所ではなかったような気がする。なんというか、もっと狭いところだったような気がする。
それにしても、ここはどこなのだろう。どうしてこんなに身軽に動けるのだろう。そして、俺は誰なのだろう。わからないことばかりだ。
「あら、いらっしゃい。お客さん初めてね、旅のお人?」
声の大きな女だ。しかも早口で、ひどく訛っている。誰のことかと辺りを見回してみたが、俺の他には誰もいない。元の造作がわからぬほどに化粧を塗りこめた女は、あろうことか、いかにも馴れ馴れしげに袖を引いた。
お世辞にもきれいとはいえない小屋があり、長く張り出した庇の下に女は立っている。小屋の中には頼りなげな明かりが点々と見え、戸口に『絶息酒場』と書かれた札が下がっていた。
どうやら客引きのようだ。が、生憎なことに、そんなものに対する興味はまったく湧かなかった。だから、相手の素性がわからない俺は、ちょっと会釈だけして早く離れようと思った。
「ねぇえ、いいじゃないか、遊んでおいきなさいよ」
なんとかその場を離れようと思うのだが、一筋の道すらなく、どっちへ行けば良いのかわからない。それに、眼の届くかぎりどこも同じように見えたのだ。
「ちょいとお客さん、そんな邪険にしなくたっていいじゃないか。どうせ行く当てなんかないんだろう? おや、図星のようだね。そうさね、行く当てなんかあるはずないさ」
頭ごなしにそんなことを言われて面白いわけがない。が、何もわからない俺は、迷惑そうにするくらいが関の山で、言い返すことも足を踏み出すこともできなかった。
ふぅんと小さく漏らしながら、女は俺の周りを一巡りした。腕を前で組んで、上から下までジロジロと値踏みをしているようだった。
「やっぱりね、遠くから来なすったんだね。ねぇお客さん、どっから来なすったんだぃ?」
旅人? どこから来た? どこから……
いくら思い出そうとしてもだめだ、何も思い出せない。これは困った、どうすれば良いのだろう。
いくら見回したところで、盛んに噴気を噴き上げる盛り上がったところが一つあるだけで、ほかには何もない。見渡すかぎり荒れた砂原だ。
どこへ行けばいいのだ、どこへ行こうとしていたのだ。そして、どこから来たのだ。
「カウョシッデレダハシタワ? カウョシッデコドハココ?」
俺が旅人であると女は言った。なら、俺が何者なのか、どこから来たのかを知っているのではないだろうか、心当たりがないだろうかという思いで、つい口走ってしまったようだ。
「ちょっとちょっと、お客さんって、異人さんかぃ? そうは見えないんだけどねぇ……。 まいったねぇ、ちょぃとぉ。異人さんだったとはねぇ」
女は鼻白んでかるく睨んだようだが、ふっと力を抜いて襟足を掻きながら続けた。
「異国の言葉を習っとくんだったよ。いまさら嘆いてみたってしようがないし、あーぁ、学がないってのは辛いもんだねぇ」
この女は、俺の話した言葉を理解できないようだ。とすると、俺は女が言うように、どこか遠いところからやってきたのかもしれない。それにしても、意志が通じないではなんの解決にもならない。
「まったくだよぅ、わけのわからない言葉喋られたって……。あれ? お客さん、困ったって言ったかぃ?」
俺はふるふると首を振った。
「そうだろぅ? なんにも聞こえなかったんだからさぁ。……あれっ、ちょいと待っとくれ。お客さんはアタイの言ってることがわかんのかぃ? わかるんなら、喋ることだってできんだろう? 意地悪しないでおくれよ、罪な人だよぅ」
女は独りで喋り、キョトンとし、そしてほっとしたような表情になった。最後は手首だけでぶつ真似さえした。騒々しい女ではあるが、根は悪人ではなさそうだ。
「ちょっとちょっと、どうしてアタイが悪人なのさ。いい加減に……い、今さぁ、アタイのことを悪人とか、騒々しいって言っただろう?」
またしても女は理解できないことを言った。初対面の相手に、悪人の、騒々しいのと言うわけがないではないか。すると女は首を捻りながら、納得しかねている。
「そうだよねぇ、初対面の相手にそんなこと言うわけ……ねぇ、正直に教えとくれよ。悪人の、騒々しいのって言っただろう? 怒らないからさぁ、後生だから正直に言っとくれ。そうなんだろう?」
生憎だが、俺はただの一度もそんなことを言っていない。ただ首を横にするしかない。
「じゃ、じゃあさ、どうして話が通じんのさ。おかしいだろ? そっちは言わない、こっちは聞いた。どう考えたって合点がいかないじゃないか、気味が悪いねぇ……。じゃあ、あれだよ、何でもいいから考えてごらんよ。そうすりゃ、何かわかるかもしれないからさぁ」
なるほど、女の言うことはもっともだ。そうすれば解決の糸口でもみつかるかもしれない。
「いいかい? じゃあ、何か考えとくれ」
そう言って女は目と耳をしっかり塞いでしまった。それにしても、いったい何を考えれば良いのだろう。俺のことを知らないようだから、そんなことを訊ねようとしても意味がないし、そうだ、とりあえず女の名前を聞いてみよう。それから、ここはどこなのか、あの盛り上がりは何なのか、知りたいことだらけだった。
「ちょっちょっちょ、そんなにいっぺんに言わないでおくれよ。生憎、おつむりは良くないんだからさぁ。まず、何だったっけ? そうそう、アタイの名前だね。アタイの名はおミヨ。代々続く由緒のある名前なんだよ……って、どうしてこんなこと喋ってるんだろう。耳塞いでいたんだから聞こえやしなかったはずなのに。ねぇ、これで合ってる?」
俺は、頷くかわりに、名前の由来は何だろうと考えてみた。すると……
「なんだかね、この世に初めて生まれた命が、アタイのご先祖様なのさ。後々になって、神様の中の神様って崇められたそうでね、それにあやかって御世って名前にしたそうな……。あっ、そういうことか。あんた、自分の考えを相手に伝えることができるみたいだね。へーぇ、昔の昔のまた昔、アタイのご先祖様もそういう力があったそうだけどね、ほら、言葉って便利なものができて力を使わなくなっちまってね、忘れたっていうのか、使えなくなっちまったらしいのさ。ふぅーん、あんたがご先祖様の力をねぇ」
ミヨは、こんどはしげしげと俺の観察を始めた。神様? 神様とは何だろう、またしても疑問が湧いた。
「神様ったってあんた、正体を知ってしまったらがっかりしてしまいますから、順番にお話ししますよ。そういうことなら長くなるから、こっちへお掛けなさいな」
女は庇の下に出してある縁台に俺を誘うと、いそいそと店の中に姿を消した。やがて湯気をたたせた大ぶりの湯呑みを盆に載せて現れ、俺に勧めた。自分は小さな湯呑みを縁台の端に置き、浅く腰を下ろした。
「なんでもね、この世の初めは大きな石がゴロゴロしていたそうですよ。ドロドロに熔けた石がようやく固まってきたところですから、熱くてたまったものじゃないはずです。石から湯気やら煙やらがシューッとね、そいつが天に昇って冷めていった。そうしたらね、ザザーっと降り出したそうなんですよ。それが真っ赤な石にかかる、ジュワッ、モヤモヤー、ザザーーッ。ねっ、その繰り返しのうちに真っ赤だった石が冷めてきて、大きな海ができたんですとさ」
ミヨは、盛んに身振り手振りを交えて話をする。どうやら話し相手がほしかっただけで、悪意などはこもっていないようだ。といって、肝心な神様とやらのことには触れないでいる。まだ先が続くのか、それとも本当は知らないのか見当がつかないままだ。もう一つ疑問が増えたのだが、この世ができたときのことなど、どうして知っているのだろう。誰か見た者でもいるのだろうか。
「お客さん、せっかちなんだからぁ。順番に話しますからさぁ、我慢して聞いてくださいな。それとねぇ、余計なことを考えないでくれませんかねぇ、こんがらがってしまいますから」
ちょっと咽を湿らせたミヨは、またしても睨んでみせた。
「最初はね、海も煮えたぎってたそうなんですが、だんだんに冷めてきましてね、そうしてようやく最初の命が生まれたそうですよ。それが、遠い遠いご先祖様ってわけですよ。」
やっぱり、それまでは命が生まれていなかったということのようだ。すると、これまでの話は想像でしかないということになる。要は、でまかせに付き合わされたということだ。
「あぁ、また考えた。ダメだって言いましたよね、お客さん。まだ続くんですからね。……ほらぁ、どこまで言ったか忘れたじゃないか、やめておくれよ」
ミヨは俺のほうに少し向き直ると、わずかに膝を浮かせてトンと地面を蹴ってみせた。
「代替わりするたびに命の数が増えていきまして、けっこう賑やかになったそうなんですよ。ただね、数が増えれば気の合う者同士が仲良くなる。それは別に悪くはありませんよ。だけど、諍いをおこす者も現れるってもんですよ。それで、徐々に離れて暮らすようになった。それはそれで構いませんやね。そういうのとは別に、理屈ばかりこねる者がいたそうで、今思えばそん時に殺すかなにかしとくべきだったのですよ。というのもね、大きな声では言えないんですが」
誰も聞き耳を立てている者などいないというのに、ミヨは辺りに視線をはしらせて心持身体をすりよせてきた。口に手を当てて小声で囁いた。
「命のありよう……、体の仕組みを変えようという恐ろしいことをやりだす者がいたそうなんです。おとなしい者が狙われましてね、毒を吐き出す身体に作り変えられてしまったのですよ」
おミヨは、さも恐ろしげに体をブルッと震わせた。
「まずいことに、作り替えられたときに、すごい勢いで子を残す体質になってしまって、あっという間に増えてしまった。それが一斉に毒を吐くもんですから、ご先祖様はそいつらのいないところへ逃げるしか手がなかったそうでね。そういう悪事を働いた奴は、こんどはまた別の体を作ったそうです。それから何十代か代替わりするうちに、いつのまにか神様って名乗るようになったそうです。でもね、本家筋は、このアタイですからね」
なんとも荒唐無稽な話に付き合わされたものだ。ぺらぺらとよく喋る女が本家筋なのかどうかも、どうでもいいことだ。それにしても、ここにはミヨのほかに誰もいないのだろうか。見渡すかぎり荒地なのだから、ミヨは何を食べているのだろう。わからないことだらけだ。
「ほかの者ですか? えぇ、いますともさ。こんな土地ですからねぇ、することがなくて、ずっと温泉に浸かっていますのさ。それでね、飽きてくると店へきて、普段口にできないものを恐々飲んで、酔っ払ってやがる。もちろんお足はいただきますよ。い……いお……イオなんとかって黄色い石なんですがね、これが美味しい石でしてねぇ。こうしてお会いしたのもなにかの縁ですよ、なんならお背中をお流ししますよ。そっから先は……、言わせないでくださいましな」
それがどういうことを示すのか知らないが、ミヨは目蓋をほんのり染めてしなをつくった。まあ、それは後で訊ねるとして、温泉とはどういうものだろう。ミヨの口からは次々に不思議がとび出してくる。
「いやだ、温泉を知らないのかぃ? あの山の中ほどに湯が沸いていましてね、大きな池がこさえてあるんですよ。そこに湯を引き込んであるから、着物を脱いでゆっくり浸かればいいんですよ。もっとも、アタイは本家筋ですから、特別に小さな小屋を。だからぁ、二人っきりでゆっくりお背中を流して……。ところで、そのお茶、いかがです?」
着ているものを脱いで湯に浸かるだけなら、そんなに赤い顔をしなくてもいいだろうに、やっぱり不思議な女だ。それと、お茶? あぁ、この飲み物のことか。少し酸っぱいような気がするが、ピリピリと舌先を刺激するのが爽やかだ。
「おや、そうですか。なら、アタイの飲みさしで堪忍だけど、ちょっと味見をしていただけませんか?」
ミヨが差し出した湯呑みを受け取り、一口飲んでみた。トロッした感じがして様々な味が混ざっているように思える。が、飲んだあとでふわっとコクが広がった。これはこれで味わい深いように思えた。
「あらぁーーーー、お客さん、珍しいお人だよぅ。こっちとこっちを飲み較べてもらうとね、必ずどっちかは飲めない人ばっかりなんですよ。代が下るほどそうなるみたいでねぇ。両方飲める人ってのは、珍しいよ」
ミヨは何を言いたいのだろう。あっちは、あっち。こっちは、こっち。両方とも別の味わいがあるではないか。それとも、両方飲む、いや、飲めること自体が特殊なことだとでもいいたいのだろうか。
「だからぁ、ちゃんと説明したはずですよ。どっちが好きだってので住む場所が変わってしまったって。両方いけることが珍しい、いえ、おかしいんですよ」
ミヨは、じれったそうに俺の肩口をパチンと音をたてて叩いた。
「ですからね、両党つかいなのはアタイくらいなもんなのですよ、じれったいねぇ。いいですか、両党つかいってのはねぇ、どうやら本家筋に限ったことらしいんですよぅ。となるとですよ、ひょっとしたら遠い親戚かもしれないじゃないですか、うぅん、きっと親戚だよぅ」
この女はなにを血迷っているのだ。俺は、自分が何者なのかすらわからないのだぞ。どこから来たのかもわからない。そんな俺を、何が飲めるかくらいで親戚だと、どうやったら考えられるのだ。
「お言葉返してすみませんが、これも言ったはずですがねぇ。ご先祖様はお客さんみたいな力をもっていたって。だってそうじゃありませんか、言葉なんて便利な道具が考えられるより昔なんですから、気持ちを使えるにはそれしかないじゃありませんか」
とても説得力のある言葉だ。たしかに意思伝達の方法として、それしかなかったかもしれない。
「こうなったらねぇ、是が非でも一緒に湯に浸かっていただきますよ、いいだろう、お客さん。ところで、どこを旅したのか知らないけど、いやに埃まみれですよ。ちょいと失礼しますよ」
ミヨは、無遠慮に俺の着ているものを指でなぞり、頭の生え際を掻き分けたりしていた。その指をしげしげ眺めてぽつりと呟いた。
「お客さん、やけに粉っぽいと思ったら、これ、石の粉じゃありませんか。どうしてそんなもの……。待っておくんなさいよ、そういえば、遙か昔に分家した人が、やけに石が好きだったという言い伝えがありますよ。ってことは……、お客さん、石の中に住みついたっていう人の子孫? いやだ、本当に親戚じゃないか」
石の中に住みついた一族だって? そんなことができるのだろうか。いや待て。なら、どうしてこんなところで話しているんだ? ますますわからなくなってきた。
「ねぇ、お客さん、これから石さんって呼ばせてもらいますよ。だからさぁ、石さん、湯に浸かって身体をほぐしたらいいんですよぅ。アタイがゆっくり思い出させてあげるからさぁ。思い出したら石さん、しっぽりと……」
オーストラリアからの鉱石運搬船が沈没したのは、確か四年前のことだった。建造費を安くあげることで急成長した造船会社の船だったのだが、低品質鋼板を使用したことで応力に問題が多いと指摘されていた。ところが、自国の名声のみを重視する国民性もあって、造船会社と同じ国の船会社が率先導入し、運用していた。
ところが、外見は立派であっても、すぐに欠陥が露呈してしまった。
船会社の国は比較的穏やかな海であるので表面化しにくかったのだが、太平洋のような波の荒い海では耐えられなかったのだ。波の高さとウネリの長さが桁違いだったので、たえず船体が折り曲げられていた。ましてや台風が頻繁に発生しており、繰り返し加重に耐えられなくなって、船体がポッキリ折れてしまったのだ。それが一隻や二隻ではなかったので国際問題化した。沈没した鉱石運搬船も、その一隻だった。
小笠原近海、深さ六千メートルの海に沈んでしまったのだ。
積荷のほとんどは石灰石だったが、商品サンプル用に自然風化した花崗岩がいくらか含まれていた。
荷崩れを起こした岩石同士がぶつかり、砕けて海底に散らばったのだ。
一方で、岩石が散らばった辺りは、熱水鉱床の密集地でもあった。
六百気圧という高圧、二百度を超える熱水の噴出。極限まで強い酸性、アルカリ性の海水。そこは酸素のない世界でもある。とても生命が存在できる環境ではない。が、そんな特殊な環境でしか生きられない微生物がいる。
散らばった花崗岩の中で生きていた微生物が、たまたま原始生命体ともいえる微生物と出会ってしまった。
極限環境下で生きる嫌気性微生物と、石に封じ込められた微生物。いうなれば、神よりも歴史の古い生命体同士が出会ったことにより、新種の微生物が誕生するのであろうか。それが地球の新たな歴史を築くのであろうか。
神にすら、窺い知ることはできない。
おわり