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夢に向かって

作者: 鳩麦トーヴ




 原川は眼前の男の正体を知り愕然としていた。全身の筋肉が、絶壁を前にしている時のように硬直し、ただ木屑の臭いだけが気道を通り抜けていく。その傍ら、校舎からは、一日を終えた児童たちの声が響いてきていた。


 教師という仕事をしていると、思いがけぬ場面で教え子と出会うことがある。原川は何度もその経験をしてきた。


 だが、今回ばかりは動揺を隠せない。病気休暇明けから二週間。ある男との再会によって、退屈な入院生活に慣れた原川の体は、瞬く間に目覚めていった。


 病で倒れたのは二月ほど前、梅の香りが心地よい浅春の日のことだった。


 授業を終え、ねずみ色の廊下を歩き、階段の踊り場に足を着けた時、原川は不意に「先生」と呼びかけられた。


「ノート……遅れてすいませんでした」


 下から駆け上がってきたのは、吉田という六年生の女子児童だ。抑揚のない口調でそう言うと、まだ形の決まりきっていない幼い目で、原川のネクタイの結び目辺りを見ている。


 吉田は内気だが、いたって真面目な子だ。「はい、ありがとう」とだけ言って返すと、友達を待たせていたのか、桃色のランドセルを響かせながら、長い廊下を早歩きして行った。


 吉田の向かって行ったのは西校舎の方だ。西側は改装されたばかりで、外から眺めると壁の色が違うから、幾分か不自然に見える。


 原川はふと窓越しに目をやった。西校舎と北校舎の境目は昇降口になっていて、その脇に壁画が飾られている。学校便りの表紙や卒業アルバムにも写真が使われているから、この学び舎のシンボルの一つだ。


 「夢に向かって」という題目の壁画は、至って小学校らしい。教会のような尖った形の建物がそびえ、そこから右奥に向かって線路が延びている。線路上には案の定列車が走っていて、男か女か分からないような人たちが手を振っている。額縁の大きさは四畳ほどだ。


 これは陶壁画という、粘土を焼いて作る手法のもので、原川にとってはひと際思い出深い作品だった。以前にこの小学校へ勤めていた時、卒業制作で六年生たちが手がけたものだからだ。かれこれ二十年ほど前になる。近所の陶芸家から窯を貸してもらい、百枚近い粘土のプレートを焼きに行ったから、当時はかなり疲弊した。




 原川はよく、野々口という生徒のことを思い返すことがある。壁画を作った年の六年生だ。見た目の雰囲気だけでも色濃く印象に残っている。


 今の六年生にも、襟足を首の遥か下まで伸ばしている問題児童がいるが、野々口の髪も同じくらいの長さだった。前髪で目元が全部隠れていたろうか。


 野々口は問題児というより変わり者だった。休み時間に音楽室へ行って、洋楽のロックを流し、先生を困らせたこともあったという。


 でも授業は真面目に聞くし、図工の時間には他の児童にデッサンのコツを教えたりしていたから、「ませた子供」とか「早すぎた芸術家」というのが当時の教員たちの認識だったように思う。原川は野々口の担任だった都合、教室の隅っこで、友人と或いは一人でギターに触れる姿をいつも目にしていた。


 あまり喋らない子供だったから、授業以外で話をした記憶があまりない。


「もう少しバランスよく書こうな、興味の興の字」


「この漢字、難しいし」


 というように、教師と生徒のオートマチックなやり取りが殆どだった。それでも友達は仲の良いのが数人いたから、彼なりに良好な学校生活をしていたのだと思う。



 だが原川が決定的にまずいことをしたと思ったのは、秋口のことだ。


 開校三十周年ということで、五月には卒業制作の主旨が決まっていた。それが、壁画を作ることだ。児童から原画を募集し、粘土の上に描きやすいかなどを勘案した上で、教員がどの絵を採用するか決める。その手順が定まったのも、同じ頃合いだ。


 原画は期限までに十ほどの提出があった。そして、その中には野々口の作品が入っていた。担当の先生によると、野々口は「七日かけた」と言っていたらしい。それだけ丹精を込めたと伝えたかったのだろう。


 夏休みの前には取り決めが始まった。


 結果から言うと、野々口の絵は最初に候補から外された。彼の絵は特異すぎたのだ。教壇から見渡すような角度で教室が描かれていたと思うが、部屋の大半はひび割れていて、床の抜けた隙間からは、蜜柑の汁のような物体が溢れだしていた。一方、その奇怪な状況に臆することなく、人間たちが笑っている。先生たちは口々に「小学生らしくない」と断じたのだった。


 学年集会で垣間見た野々口は、今でも記憶に新しい。


「皆さん、応募ありがとうございました。今本さんの絵を壁画にします」


 体育座りの児童たちを前に、とある先生が発表したと思う。原川はその時集会室の前方にいたから、野々口に視線を向けていた。どういう反応をするのか、些か興味があったのだ。


 だが原川の関心はすぐに別の感情へと移り変わる。


 野々口はしゃんとした姿勢で、口角をわずかに上げ、時おり手の甲の皮をつまんだりしていたのだ。


 その挙動にやはり子供らしさはなかった。普通の児童なら、露骨に顔をしかめたり、そうでなければ少し不満げに俯いたり、何らかの形で無念を表すだろう。しかし野々口の態度には、悔しさなど微塵も表れていない。


 鮮明に記憶が残っているのは、稀有なものへの関心とは違う、疎ましいという感情が、原川の中に流れてしまったからだった。



 壁画の制作が始まったのはそれから一週間後のことだ。原画を大判紙に写し、それを学年の人数分に切り分けたら、各々が粘土板に模様を刻んでいく。


 児童たちは「ここ、つなげて」と示し合せながら作業に励んでいた。制作は順調に進んで行く。「隣同士で線がずれないように」としつこく釘を刺したのも、取り越し苦労のように思えた。


 だが順風満帆も長くは続かない。模様を描き終えたら、素焼きした粘土板へ釉薬を塗る作業に移る。この工程で原川はいつになく気が立っていたのだ。


 素焼きの段階で、窯元との調整が長引いたこともある。連日の疲れに加え、釉の配色を間違える児童が大勢いたから、原川の忍耐は日に日に擦り切れていた。


 そして折悪く、前髪を何度も掻き上げながら釉を塗る野々口が目についたのだった。


「まだ切らないか」


 疎ましさのせいかもしれない。原川は斜め後ろからその前髪を引っ張った。すると野々口の顔が、雑草を根っこから引き抜いた時のように、吊りあがった。「いいえ」という返事が力なかったのを覚えている。


 原川はあまり癇癪持ちの方ではない。だから、当時は「やりすぎたか」と自省もしたのだが、野々口の方が存外早く指導を受け入れた。


 翌日のことだ。原川は教室のドアの前で「先生切ったよ」と声をかけられた。最初は知らない生徒が、他の先生に話しかけているのだと錯覚したものだ。それが野々口だと認識できるや否や、原川は目を丸くした。


 野々口は眉毛や耳が全部見えるまで、ばっさりと髪を切ってきたのだ。真っ黒い瞳は泰然自若として鋭く、特有の目元は一度見たら容易に忘れられない。


 前髪の方はそれで良かった。だが野々口が後ろを振り返った途端、原川はひどく後悔することになる。


 襟足が隠していた彼の首後ろに、巨大な赤い腫れがあったのだ。


 火傷の跡か帯状疱疹の類か、定かではない。ただその形を凝視すると、まるで山椒魚が巣食っているかのように見えて、胸が締め付けられる。


 これ見よがしに「理由があったんだ」と責められることはなかったが、原川は教師として疾しさに苛まれた。同時に芸術を嗜む野々口への感情は、疎ましさからいじらしさへと、一挙に変わっていったのだった。



 あの出来事から随分経つ。


 原川が腹部に激痛を覚え倒れ込んだのは、あの壁画の飾られた、昇降口の近くだった。放課後だったから、吉田たちが通りかからなければ危険だったかもしれない。腸閉塞という病気で、大掛かりな手術もした。


 入院中は学校のことより、娘の受験のことや、家の雨漏りのことを考えていた。指導教諭という階級になった都合、理科の授業は受け持っているが、クラス担任はしていない。そのため、訪ねてくる生徒がいなかった経緯もある。大半はテレビを見て過ごした。


 仕事のことはあまり頭になかったと思う。見舞いに訪れた教頭から、代役の荒巻という臨時の先生が、酔狂で受けの悪いことを聞かされたから、少し憂慮を抱えたくらいだ。


 そして倒れた場所が場所なだけに、野々口のことは何度か頭をかすめていた。彼は一体どんな大人になっているのだろうか、と。





 原川が病気休暇から明けた日には、美しい緑の季節がやって来ていた。


 校門の脇にただ一本だけ、不恰好にのびたケヤキの木がある。その葉たちのつくる、日光をやさしく混じらせた木の陰が、とても心地よく感じられた。


 年度の変わる頃合いは職務が多い。その間休んでいたことに気負いはしたが、数日もすれば肩身の狭さが解けた。代役の荒巻の評判が箆棒に悪く、自ずと歓迎されたからだ。


「ちょっとですね、五年生の授業で、立場を分かっているのかとか、もっと子供に尽くせとか苦情があったんで、気を付けて下さい」


 引き継ぎの時、荒巻がそういう説明をした。長い教員人生を歩んでいる原川でさえ、そんな苦情を耳にしたことは殆どない。


 先生の立場というのが、ここ数年で変わっているという事実は、確かにある。「体罰とは何事だ」「贔屓じゃないか」などと言われるうちに、この仕事が客商売のように感じられる時もあった。


 とは言え、荒巻の不躾さは肯定できるものではない。まだ若かったが、髪の毛はボサボサで、空気を操るのが下手なのか滑舌が悪い。授業参観の日にクレームがあったというのも、一向に不思議ではなかった。



 引き継ぎから二週間ほど経った日のことだ。


 午後、地元の老人会と五年生の児童が昔の遊びを通して交流を図る会が催された。小学校の恒例行事になっている。


 この日は、原川にとって容易に忘却のできない一日となった。


「原川先生、あれ」


 眼鏡にジャージ姿の上野という先生に促され、原川は体育館の後方へ目を遣る。上野の言いたいことはすぐに理解できた。あの荒巻が、交流会の様子を見に来ていたのだ。


「意外とマメなんですね」


「職員室の机は汚かったんですけどね」


 上野も新人教員だが、壁にすがって腕を組む荒巻へ、繰り返し皮肉を言った。


 体育館では独楽回しや紙飛行機といったコーナーが設けられ、児童たちの甲高い声が建物の四隅まで響き渡っていた。最初は面倒くさそうな顔の子もいたが、実際に手を付けてみれば早い。老人会の人たちも、その無邪気さに押されながら、竹とんぼをびゅんと高く飛ばしたりしていた。


 その様子を見て歩いている時、原川は眼前の光景に目を疑う。


 荒巻が、複数の児童に囲まれ、紙飛行機を折って飛ばしていたのだ。それも活発な男子だけではない。ちょっと生意気な女子児童ですら、荒巻に拍手を浴びせたりしていたのだ。


 原川は上野に訊いた。


「子供の受けはいいんですね」


「ええ。保護者や職員の間では、だらしないって専らだったんですが……どうもあれは不思議です」


 上野は首を傾げた。


 合点がいかない。あの雑木林のような髪の男が、子供に囲まれて笑っているのはどうも不釣り合いだ。狐につままれた胸中とはこのことだろう。


「荒巻先生」


 ひと区切りついた所で帰ろうとする荒巻を、原川は引きとめた。


「今日はお休みですか」


「臨時なんで、毎週火曜日は休みです」


 荒巻は口走った。建物から出ると体育館特有のにおいがなく、代わりに荒巻から煙草の香気が漂ってくる。


「先生は、どんな授業をされていたんですか? 子供たちから随分好かれてますよね」


 荒巻は、今さら何を訊きたいんだ、というように腕を組んだ。


「雲をつくる実験をさせました」


「他には?」


「子供たちの持っている雲の写真を、見せ合いました。一人三枚ずつ持ち寄らせて」


 なるほど指導要領にないことばかり教えていたらしい。雲をつくる実験とは、ペットボトルに水とマッチの煙を入れ、気圧を下げると、中が白くなるというあれだろう。実験の方はともかくとして、写真の見せ合いはまずそうだ。荒巻によると、家族写真がしこたま出回っていたというから、授業参観の日ならクレームもあるだろう。


「何故そんな授業を?」


 単純な疑問が、荒巻を糾弾する気を追い越して先に口からこぼれ出た。すると荒巻は、相変わらずの舌足らずでこう言った。


「今、豊かじゃないですか」


 彼は続ける。


「豊かでも、ちゃんと深く考えるべきだと」


 原川は、この男が一体何をしたいのか、全て把握できたわけではない。だが至極真っ当なことを述べている気はした。


 なぜなら入院中、似たような考えに至ったことがあるからだ。


 病院ではぼんやりテレビを眺めているうちに、食事が運ばれてくる。また病院食は健康に配慮されているから、栄養のことを気に留める必要などない。テレビの向こうで中年の女性が、「ビタミンは」と喚起している一方で、だ。


 手すりにつかまって歩くことが増えた。そうすれば目を瞑っていても、落とし穴に嵌ることはない。ベッドの上で原川が気付いたのは、手軽い方向へ進んでいくだけの、自分の浅はかさだった。



 独楽回しの土台用にベニヤ板が持ち込まれていたため、交流会が終わると、原川は板に手をかけた。


 上野には「病み上がりですから」と気を遣われたが、「予後はいいんだ」と言って聞かなかった。クラス担任の先生は帰りの会に出るから、手が空くのは原川と上野しかいない。


 倉庫が建っているのはグラウンドの脇だ。


「面白い先生でしたよ、彼は」


「荒巻先生ですか」


 上野は少々不満げに、ベニヤ板をどすんと立てかけた。


「締りはない人だけど、必要悪のような」


 続けざまに原川も板を立てる。荒巻の思想を知らぬ上野は当然、「はあ……」と困惑した。


 曇りガラスから、やんわり日が差している。倉庫の中には大量の木屑の粉が舞っていた。それが汗ばんだ顔面の周りを嫌らしく飛び回っているのに気付くと、全身が痒くなり始めた。


 倉庫から出て鍵を閉め、「散々だね」と上野へ告げた時、原川は卒倒したのだった。


 眼鏡をとり、上野が目を擦っている。その顔に見覚えがあった。そして、何百ページに及ぶ人名図鑑のとあるページが、海馬の中ですぐに捲られた。


「上野先生」


「はい」


「いや……野々口君か」


 体格も顔の輪郭も甚だ逞しくなっていたし、何より苗字が違うから、気付かなかった。しかし、前髪が切り落とされた日に初めて目撃した彼の眼が、確かにそこにあったのだ。


「どうしてこの学校に」


 上野が話し出す前に、原川の口から言葉が漏れた。


「母校にポストが空いてたので、たまたま入れてもらえたようです」


 表情を変えずに上野は「黙っていてすみません」と加えた。五月の程よい気温が、咄嗟に寒々しくなる。原川は、野々口のことを頻繁に想起していた事実もあって、無意識に倉庫の鍵をきつく握りしめていた。


「私が教師になるとは、思われなかったでしょう」


 原川の様子を察したのか、上野は淡々とした口ぶりで言った。壁画のこと、赤い腫れのこと、そして眼前の男が落ち着いた所作でいることを整理すると、原川は漸く正気に返った。


 苗字が変わったのは、大学時代に結婚を済ませたからだという。両親の離婚とか、そういう理由だと思っていたから、原川から問い質すことはしなかったのだが、野々口いや上野からそう伝えられた。


 教師の仕事をしていると、思わぬ形で教え子と出くわすことが多い。けれど、こんな遭遇の仕方は初めてだ。二人は教頭に断りを入れ、ぶらぶらと与太話をすることにした。


 原川の知る野々口と今の上野とでは、芋虫が蝶になったように、異なるように感じられる。


「君はデザイナーか、音楽家にでもなると思ってた」


「自分も、そう思ってました」


 上野は、原川が今まで見たことのないような表情を浮かべた。


「でも高校の時に好きな音楽グループが解散して、熱が冷めました。何と言うか、世の中が遠浅の海のように思えて」


 遠浅の海。絞り出すような声は地面に反射して原川の耳へ届く。まるで言葉の交差点で行き詰まり、喉元が渋滞しているかのような口調だった。


 子供が悩んでいる時、先生が相談に乗るということはよくある。この仕事のやりがいの一つだ。


「ひとつ訊きたいことがある」


 子供を諭す時と同じく、そっと微笑みを見せながら、原川は言った。


 帰りの会を終えた校舎はやけに静かだ。昇降口からざっと見渡すと、ズックは数えるほどしかない。原川は上野を連れ、物寂しい下駄箱の間を通った。


「私はここで倒れた」


 入ってすぐの所の廊下を指差すと、上野はきょとんとした表情で身を屈めた。「はい……」と困ったように相槌を打っている。


「一時は君の呪いかと思ったんだ」


 上野は少し間を置いて再び「はい」と言った。ただ先ほどの返事とは違って、何かを感じ取ったような、芯のある声だ。


 二人はまた外へ出た。昇降口を出てすぐ脇には、あの壁画がある。


「当時、私たち教員は君の絵を選ばなかった。その上私は君に暴力を振るってしまった。あの時どう思っていたか、って」


 少し色の褪せた壁画を前に、原川は切り出した。すると上野が「これですね」とジャージの襟を深折りする。あの頃よりは目立たなくなっているが、くっきりと腫れの跡が残っていた。


「先生が気にされていたのは、暴力よりこの跡だったでしょう」


 上野によると、かつて父親の職場の工場で熱鉄を浴びてしまったらしい。当初はコンプレックスだったものの、長い髪にしたいがために、丁度いい口実にしていたのだという。それを聞くと、原川は少し安堵した。


「恨み節を言うとすればこっちの方です」


 ゆっくりと上野が壁画に目をやった。少し黄色みを帯びた太陽に照らされ、列車に乗った絵の中の人たちが、どこか物悲しく見える。


「この絵、当時は平凡だなと思ってました。絵だけじゃない、夏休みの読書感想文なんかも同じです」


 選ばれたものは皆幼稚だったと言いたいのだろう。その行間を察した時、原川は漸く気付かされた。咄嗟に小学生の頃の上野が脳裏に映る。


 この絵が選出されたと分かった時、彼は悠然とした面持ちを崩さなかった。そこには悔しさを通り越した、軽蔑があったのだ。


 原川の口から「申し訳ないことをした」という謝意がこぼれた。


「……小学校の教師になった根本の理由はそれです。一面的な解釈のために、捻じ曲がる子供がいる。自分がそうだったからこそ、彼ら一人一人に道を作ってあげたいなって」


 上野は心なしか綻び、「これもいい思い出」とばかりに壁画を見つめた。


 遺恨がある。そして遺恨を曝け出した方が互いに後腐れはない。一計を案じる彼の胸中は、手に取るように分かった。


 一方、原川は上野の表情に若さを感じていた。加えて今の自分とは違う場所に立っていることを、はっきり理解した。


 上野は「丹念に教育されていたら救われた」と思っているかもしれない。しかしその先にあるのは、本当に彼にとっての理想だったろうか。何だか釈然としない。


 才能を見出してやれなかったことは、面目ないと思っている。彼の口にした、一人一人に、という指針も立派なものだ。だがその教育への意志こそ、彼の嫌いな遠浅の海の上に浮かんでいるのではないだろうか。


 揚げ足を取るような、穿った見方であることは、十分承知している。ひょっとすると自分も、時代の変遷に振り回されているのかもしれない。今さら上野を責める資格も気概も、原川にはなかった。


 線路が延びている。夢へと向かう、壁画の中の人たちの笑顔を見ると、原川は間もなく途方に暮れた。





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