何故サガットだったのか?いやサガットじゃないと駄目だったのだ
「STREET FIGHTER III RYU FINAL
-闘いの先に-(著:中平正彦)」
という作品に対して、積年抱いていた疑問が
解けた気がしたんで、エッセイ(?)的に書いてみますた。
うむ、漫画
「STREET FIGHTER III RYU FINAL
-闘いの先に-(著:中平正彦)」
という作品がある。
漫画であるが私の大のお気に入りであり
私はこれは一種の哲学書だと思っている。
ストーリー構成の絶妙さがたまらず、
物書きスキル的に、その「絶妙さ」には
未だに感嘆の声しか出せない。
もう何気ない1シーンである、
ラストの隆と豪鬼の僅かな語らい、
隆
「あの時
師匠はあくまで格闘家で在り続けようとする
貴方を「甘い」と笑った、
鬼になりきれないあなたを」
「でも俺はそうは思わない」
「今こうして再び俺の前に現れた男は
昔と変わらず格闘家だった!
真の格闘家、豪鬼。
あなたはどうしようもないガンコ者だ」
豪鬼
「フフフ…」
隆
「ハハハハ」
「貴方に言いたかった事
それだけだ…」
このシーンには、未だに鳥肌が立つ。
これが漫画として絵で描かれるのにも鳥肌が立つ。
普通に台詞として並べるだけで鳥肌が立つのに
漫画として台詞と絵に
その心情が全て叩き込まれている。
積年、豪鬼という矛盾を追いかけてきた隆が
それを考え続けて言葉で言いたかった事。
拳で語る事でしか、
真の思想を混じり合わせれない
格闘家という不器用な者が
それでも言葉で語り合った事。
隆が、言葉で言いたかった事。
「あの時はおかしいと思ったが
こうやって自分も真の格闘家を目指して
十数年も彷徨えば
今はあの時の
『何故だ?自ら過ちと知っていながら
何故その道を選ぶんだ?答えろォ-!』
と叫んだ自分は、やはり若くて未熟で浅薄で
自分と同じく、
貴方も真の格闘家を目指しているからこそ
間違っていると分かっていても、
あえてその探求に踏み込むのだ。
そう、それこそが真の格闘家であった。
そうだ、私も貴方もどうしようもない
ガンコ者だ。
それがようやく自分も分かった」
と、自分自身も歩いて、道を追いかけて
それに気付いたからこそ
「豪鬼、貴方は真の格闘家だった
(鬼になれば楽なのに、それでも抵抗する)
どうしようもないガンコ者だ」
「貴方に言いたかった事は、それだけだ」
という短い台詞に集約されるのだ。
この鳥肌感。
真の格闘家とは何かを追い求め、
極限まで走った二人だからこそ、
ただその台詞に
豪鬼も流石に一本取られて「おっと?w」
みたいな顔をして、フフフと笑って
互いに格闘家という馬鹿さ加減を笑ったのだ。
この鳥肌感。
やはり凄いと思う。
さて、いっきに書いてしまうと
隆の究極の拳として見いだした拳『風の拳』
一撃必殺の拳と書くべきではない、思想の拳
最終奥義『風の拳』
それは描写の中では、
相手の一撃必殺を常に越えていく
必殺技破りのカウンター。
常時、必殺技を見切って破り、
カウンターを生み出す
変幻自在の『風の拳』
という風に見える。
作中でも、拳の性質としてはそう解釈されている。
しかし、それは表層の表れであって
その本質はそこではないと思う。
表層はそうだ。
だが、その下に流れている思想の方が
『風の拳』なのだ。
『風の拳』は、
『殺意の波動究極講義:瞬獄殺』を越える為の
唯一の拳である。
が、思想として見るとき
そもそも瞬獄殺とは何か?が問題だ。
一撃必殺を突きつめた拳、それが『瞬獄殺』
つまり『一撃必殺』という思想そのものだ。
格闘家の目指す究極の拳『一撃必殺』
それは正に、一撃で相手を必ず殺す抹殺の拳。
「殺意の波動」とか、
もうとにかく「滅殺」「殺す」なのである。
殺す事こそ格闘家の真髄
真の格闘家なのだという思想の極。
純血の滅亡なのである。
全ての者を殺し、自分さえも殺す。
だからこそ、『一撃必殺』たりえるのだ。
その極の考え方を越える拳とは?
それを探す事が隆のテーマであり
殺す以上の一撃必殺という
謎の拳の探索こそが隆であった。
そして彼は『風の拳』を会得する。
その思想の正体は、豪鬼との一期一会のラスト
隆の泣き叫びに凝縮される。
「俺達の戦いは一期一会
生死を別つ事以外に、
勝敗を決する事はない
それは別っていた。
でも!
でも止めが刺せない!
『あなたとまた戦いたい!!』
そう思う!」
『風の拳』の思想とは
『貴方とまた戦いたい』
なのである。
全てを殺しうる『一撃必殺』を越えるモノ
それは
『貴方とまた戦いたい』
そう、貴方と戦えるのが楽しい、嬉しい。
互いに修行をし技を磨き力を高めた。
それを全力でぶつけられる相手という貴方。
しかし、その貴方の命を奪うという
決着しかないのなら、なんという事だろう?
もう一度、貴方と拳を交えたいと思う時に
一期一会では、もう二度と貴方に会うことはない。
一撃必殺という一期一会しかもたらさない事に対して
それでも『貴方とまた戦いたい』そう思う事。
ならば、そう思わせる拳。
そう思わせる決着。
それが、真の格闘家の拳なのだ。
その境地とそれを実現させる拳
一撃必殺とは、つまるところ、永遠の孤独である。
相対する者全てを、一撃必殺するのだから
二度と同じ相手と戦う事はない。
つまり、全ての人を失い、
自身の格闘家という存在も最終的に失う
消失の拳なのである。
真の格闘家は、相対する者が常に存在しない限り
格闘家という存在で居られない。
結果として殺すと言う事は、
格闘の中で1つの結果として起こることであっても
それを常に目指す一撃必殺は、
格闘家そのものを失う事であり
格闘家の存在否定でしかない。
つまり勝ち負けを越えた境地。
「勝っても負けても、それはどうでもいい。
それはその時の互いの修行の結果。
しかし、だからこそ、次には
『貴方とまた戦いたい』そう思える戦い。
それが出来る者こそが、真の格闘家」
その思想が『風の拳』であり
その表層表現が、相手が一撃必殺と信じる拳を
その瞬間に越えて、一期一会を超越する事なのだ。
『貴方とまた戦いたい』
という気持ちを作る、という拳なのだ。
『活人拳』と簡単に切り捨ててもいいが
例えば『修羅の門』という作品で
陸奥圓明流は所詮、殺人拳、
活人拳などではありはしない。
と、陸奥九十九は公言してはばからないのに
彼が使っているのは『風の拳』である。
戦いの中で死力と死力を賭けて
結果、互いが死ぬという事が起きたとしても
それはその時の魂の在り方で、本質ではない。
陸奥九十九と戦った者のほとんどは
『また陸奥九十九と戦いたい』
と、修羅化した者が全員思い、再び修行をする。
本人は自身の考えで否定していても
結果として、
殺人拳である園明流を使いながら
殺す事以上の結果
『また戦いたい』
と敗者に思わせ立ち上がらせる。
陸奥九十九も、無意識的に
「殺し尽くす事は、格闘家の死そのものだ。
それ以上の何か。永遠の高め合い」
それを拳に纏っている。
結局、隆の『風の拳』を彼も使っているのだ。
『風の拳』とは結局、滅ぼすという事への
否定の思想なのだ。
さて、それはいい。
それはいいのだ。
『風の拳』の性質に関しては。
それでいい。
積年、物語の展開で、豪鬼との決戦の前に
『風の拳』を会得した隆が、何故サガットと戦ったのか?
これがずっと謎だった。
これが問題だった。
いや、不思議なまで、
サガットと隆は互いに戦わねばならない
絶対にプロット進行として『風の拳』の会得と
サガットとの対決は、必要不可欠であると思わされた。
何故か必然としか思えないシーン。
豪鬼との決戦前の、
もうこれは戦いと言うよりも、儀式の様なモノで
絶対に隆はサガットと「風の拳」で戦わなければならない
と思わされるのである。
そんな物語として、絶対にここはサガットでなければ
ならないと思えるのに、しかし…
『何故サガットなのか?』
これが疑問であった。
いや、サガットであるのは、
作中表現を見れば納得である。
サガットでなければ、この味は出せない。
しかし、やはり疑問である。
『何故サガットなのか?』
『何故ケンではないのか?』
このシリーズにおいて、
隆と同様に実は豪鬼を追いかけていた格闘家はケンである。
隆が答えを出せないのなら、
ケンが豪鬼と戦わなければならない順番問題があった。
何故ならケンもまた豪鬼という矛盾を見た者だからである。
そしてケンも真の格闘家について
アプローチは違えども、
隆と同じ様に探していた。
なれば『風の拳』のその問答相手は
むしろケンの方が正しく
『家族を守る生存の拳』を会得したケン
と
『風の拳』を会得した隆
この2つのどちらの拳が豪鬼と対峙するべきなのか
それを試すという、親友であり常時ライバルであった
その二人の雌雄を決するシーンが必要だったハズだ。
だが、その部分を持って行ったのは
むしろサガットだった。
そんな2つの拳の、豪鬼への挑戦権をかけた雌雄よりも、
ケンという究極のライバルよりも
隆が選んだ『風の拳』の報告相手はサガットだった。
ケンとは違う立ち位置での永遠のライバルのサガット。
『サガット』
これこそが、最も正しいと無意識には思えながら
何故そうなのか分からなかった最大の謎だった。
これをずっと考えていた。
ストーリプロットを自分が同じ様に錬るとしたら
自分も同じ様に、「ケン」ではなく「サガット」を
豪鬼より前に戦うというプロット指定を出しただろう。
そう思う。
しかし、当たり前の指定だと思えるのに
なのに自分で理由が分からない。
何故サガットを無意識に、本能的に指定してしまうのか?
これをずっと考えていた。
そんな疑問を感じていた中で、
あるとき、こんな疑問が沸いた。
「何故、サガットは、
自ら豪鬼に対決しに行かなかったのか?」
まぁスト1のラスボスである。
そしてシリーズが進む毎に、ケンとは別の隆のライバル
という異色のキャラとして変わっていった者である。
元々のラスボスとしてのチート性能を持つのだから
豪鬼とサガットというラスボス同士の対決は
回避されるべき、という考え方もできる。
しかし、サガットもまた孤高の
格闘を考え続ける純血の格闘家。
ならば、真の格闘家と豪語してはばからない豪鬼とは
雌雄を決しなければならない相手だったハズだ。
それは格闘家の本能の様なものであろう。
にも関わらず、サガットのした事は
隆との修行であった。
作中から見れる表現においては
サガットは、ほとんど隆が訪問対決をした時には
最初の初戦対決以外では、
勝ち越し続けていたと読める。
だが、二人においては
勝敗はかなりどうでもいい戦いを
続けていたとも読める。
作中では、サガットはその隆との戦いを経て
豪鬼とサガットが戦うという
ラスボスの意地を駆けた因縁の対決を、
全て隆に託して、隆を送ったように見える。
何故、隆に託すのか?
何故、自身は1度も挑戦しないのか?
格闘家の本能がそれを許すモノなのか?
これは疑問であった。
そして、ついに思いついた。
サガットこそ、
豪鬼と戦ってきた真の格闘家だったのだと。
サガットが敗戦したのは、
隆が駆けだしの、まだ全然修行もなってない頃。
無謀にも隆がムエタイの帝王サガットに挑戦し
逆に凹られて、生死の境に隆が居た時に
隆が「殺意の波動」に目覚めて、
一時、プチ豪鬼化して、豪殺昇竜拳繰り出し
それをサガットが胸に食らって
大傷を残した時である。
これを見落としていた。
サガットは「殺意の波動」に一度負けているのである。
そうサガットは、豪鬼の様な完全な殺意の波動を
纏った究極体でなく、瞬間的に
豪鬼と同等の力になった殺意の波動の隆に
一撃必殺されかけたのだ。
しかし、不完全故に、
なんとか一命をとりとめた。
この段階で、
サガットは豪鬼にも負けたという事だ。
これを考える事ができなかったのが
完全な見落としだった。
ヒューゴーにサガットの胸の傷は隆に負けた印と
罵られたとき、サガットは叫ぶ
「見下げ果てたわ!
お前の目には、この傷が
ただの敗北の印としか写らぬか!
貴様が隆との戦いで得たモノとは
その程度なのか!
貴様は、目障りだ!」
と、あっさり凹る。
サガットの胸の傷とは何なのだろう?
敗北の印にしか見えない奴は
目障りだというそれは。
これはサガットと隆のバトルで
サガットが言う言葉に絡んでいる。
サガットの胸の傷は、豪鬼から付けられた傷なのだ。
例えそれをしたのが隆であっても同じ事。
全てを殺す殺意の波動の「豪殺」を食らって
その傷の証を残されたという事だ。
と同時に、そこでサガットの胸に証拠として
殺し尽くす拳という矛盾がサガットに刻まれた。
隆が言う。
「サガットよ、お前は立ち上がった。
『殺意の波動』に屈すること無く
立ち上がった偉大な男。
今もなお、その「強さ」に微塵の陰りもない!」
「『殺意の波動』は
サガットの闘志を奪えなかった
「殺意の波動」とは「倒す」事は出来ても
「勝つ」事はできない力。
サガットはその身を以て俺に教えてくれた!
サガット、お前の心の力
すなわち「闘志」が俺に勇気を与えてくれた!
会う度に俺は学んだ!
闘う度に俺に道を示してくれた!」
この台詞に全てがあった。
サガットは隆を媒介に豪鬼という「ただ殺す」という
拳の片鱗を受けて敗戦した。
しかし、その拳の存在に納得できず
立ち上がり、豪鬼を越える拳を
彼も探したという事だ。
そして隆自身も、自己矛盾から
殺意の波動を捨てる。
サガットが最初に隆に問う。
「何故お前は「殺意の波動」を捨てたのだ?」
と。
しかし、この問答は実は儀式であり
何度も何度も闘っていた時に
ずっと拳で同じ事を語り合ってきたのだろう。
ずっと互いに修行を積み
隆が再挑戦をしてくる毎に凹っては
殺意の波動を捨ててさえ、
それを越えるとは何か?を二人で考え続けて来た。
何故ケンでは駄目だったのか?
それはサガットが殺意の波動を食らい
それを考え続け、それを与えた隆と
「この全てを殺すという拳は何なのか?
自分の胸のこの傷の意味は何なのか?
これが格闘家の最後の答えなのか?」
を一緒に問答した相手であり
闘う度に互いが成長して
「殺意の波動」を越えるとは何なのか?
それを考え続けた関係。
ある一種、隆はサガットに弟子入りした様なモノで
変則的な師弟関係で、一緒に
「全てを殺す拳とは何か?」
「全てを殺す拳を越えるとは何か?」
を問答してきたのだといえる。
それが隆の台詞の
「会う度に俺は学んだ!
闘う度に俺に道を示してくれた!」
であり、一緒に同じ場所で格闘訓練をするのではなく
互いが互いに別別の場所で、拳に問いかけ
「全てを殺すを越える何か?」
を探し続けては拳で語り合って
それを探求していたのである。
最早、それ自身が『風の拳』の状態で
隆とサガット、その二人が
「殺意の波動」で互いに傷を受け合ったからこそ
その二人は『風の拳』を会得しなければ
ならなかったという事だ。
サガットこそ隆と一緒に
豪鬼と戦い続けてきた真の格闘家だったのだ。
そして、互いがずっと
拳の問答を続け、
「貴方とまた闘いたい」
という事が何であるかを、
問い続け、形態化の方法を考えていた時
隆が旅の先のダッドリーとの戦いの中で
不意に見つけた、拳の形。
「拳とは風の様なモノだ」
とサガットと作り続けた拳の具象化に成功する。
「また貴方と闘いたい」の思いを形にする方法。
相手の「一撃必殺という攻撃」を破り
必ず殺すを越える
「技を破る」
という具象化。
相手の戦意そのものを折り、
しかし、また尚
「また今度はそれ以上の技を用意して闘いたい」
と相手に思わせる。
隆とサガットの長年の問答の状態であった
「貴方とまた闘いたい」
を拳の形で顕現させたからこそ
豪鬼と風の拳で雌雄を決する時だとオロに言われた時
「会いたい男が居るんだ、その前にね」
と隆が言って、サガットにそれを報告するのである。
そう隆とサガット、そして実はケンもだが
その三人がずっと、
「全てを殺す拳」
という矛盾に対峙し、考え続け
特に、それで死にかけたサガットこそ
それを越え、豪鬼を越えなければならない男であったから
「その形」を隆はサガットに報告しなければならなかった。
だからこそ、豪鬼と闘う前に
サガットとの対決は必要だった。
この決着が、引き分けであったのも当然で
隆が拳の形を悟ったのと同時に、
サガットもその拳に『風の拳』が生まれていたのだ。
隆がサガットに放った『風の拳』
これにカウンター返して相打ちで出された
サガットの一撃必殺とは何だったのだろう?
それは昔から疑問だった。
だが、今ならわかる。
サガットが繰り出したのも『風の拳』だった。
サガットが胸に隆の『風の拳』を食らって呟く。
「生まれたばかりの未熟な拳だ。
だがこの拳は、同時に新たな何かを生み出してくれる。
憎しみや死ではない、新たな何かを生み出してくれる。
約束、見事に果たしてくれた!
傷(殺意の波動で全てを殺す刻印)は
新たな力で塗り変えられたのだ!」
そう、このサガット戦においては
風の拳の表層的な、拳形態である
「相手の一撃必殺を破り、相手の戦意を失わせる」
という形態は発動していない。
ただ儀式だけが行われただけであり
「殺意の波動という全てを殺す思想は
俺達、馬鹿な格闘探求者によって
傷の塗り変えで…
新しい何か
死でない何か
貴方とまた闘いたいという気持ちで
塗り変わった
ならば、越えてこい
俺達が作った拳で」
という意味で
「行け、隆」
とサガットが言うのだ。
そう、隆はサガットの豪鬼のリベンジマッチの代行者だった。
互いに作り上げた拳ならば、誰がやっても同じ。
風の拳を体得した者はみんな
「貴方とまた闘いたい」
になるのだから、誰であっても同じ事。
そして隆は因縁と「殺意の波動を自ら捨てた者」
という代表者の資格がある。
だから、サガットは豪鬼に直接自分が対峙しなかった。
隆の豪鬼への対決は、同時にサガットの豪鬼への対決と
同じ事だったわけだ。
そうなると、より今なら分かる
サガットが隆を見送る言葉。
「待つのは少し飽きていた。
今度は私からお前に会いに行く」
「わかった、待っている」
「約束だぞ、隆」
「死ぬなよ、隆」
これは『風の拳』で、全てを殺す思想を越えたなら、
『貴方とまた闘いたい』
だから、今度は私から会いに行く。
という隆がサガットと同じ高みに至った
互いにラスボスとしての豪鬼と同じ者に
到達した確認であったのだと、今は思う。
だからこそ、サガットでないと駄目だったのだ。
俺も『風の拳』を体得してぇ