01
『美人が好き』
『好きなタイプは何ですか?』と、私のその在り来りな問いに、その人は戸惑いも躊躇いもなく、そう答えた。人は誰だって体裁というものを気にするもので、だから〝優しい人〟だとか、〝顔は普通でいいかな〟とか、無難な答えを出すのだ。だから、そういう答えは思っていても口に出さないのが普通というものではないのだろうか。
私がそう言うとその人は、きょとんと首を傾げて、口を開いた。
『だってどっちかって言われたらそりゃあ、顔がいいほうがいいでしょ』
私の言葉を受けて、そう言ったその人の言葉に、私は少し考え込む。そりゃあ私だってどちらかといえばイケメンが良いし、まあ、確かに肯定できなくもない。
しかしそうですねと肯定しようとしたとき、さらにその人は続けていった。
『性格が悪くても、美人が良いかな』
これには肯定できずに、顔を顰めた。絶対それは嫌だ。イケメンでも、性格が悪いのは私は絶対嫌だ。
そう全力で否定すると、えー、なんで。と、その人はカラカラ笑った。くしゃっと顔を緩ませて、いつもつまらなさそうなその顔に、満面の笑みを乗せて、笑っていた。
ヴー、ヴー、と、無機質なその振動と不快な音で、目を覚ました。パチパチと何度か目を瞬かせて、あー、と濁音付きで声を上げた。体を起こして近くにあった眼鏡を探して掛け、唸る携帯を確認すると、友達から着信が来ていて、慌てて出る。すると丁度切れてしまい、仕方がないので掛け直すことにした。
プルル、プルル、呼び出し音を聞きながら、自身の状況を確認しようと頭を巡らせた。
机に伏せって寝ていたようで、枕にしていた腕が痺れて痛かった。暫く突いたり手を広げたりして痺れを納め、寝ぼけ眼で時計を見る。夕方の、六時ちょっと過ぎ。六時は夕方と言ってしまっていいのだろうか。冬至寸前の今は、随分と日が短く外はきっともう真っ暗だけれど。段々と頭が覚醒してきて、思い出す。そういえば、仕事の合間に仮眠を取ろうと、その体勢のまま寝たんだった。確かそれが一時過ぎくらいだったから、丁度五時間くらい寝ていたのか。最近仕事詰めで碌に睡眠も取れていなかったので、これは良い休息になったのではないだろうか。
三コールほどで、友達が電話に出た。
『あ、コウ?』
「私以外に誰が出るの」
『ハイハイスミマセンね。でさあコウ。今から暇?』
今から遊ばない? と、唐突なその誘いに、私は再度時計に目をやった。先程から数分針が進んで、六時二十分くらい。今から遊ぶ、ということは、ご飯でも食べに行くのだろうか。正直言うと仕事中なのだが、まあまだ余裕のあるものであるし、このまま机に向かっていても進むとは思えないので、その誘いに乗ることにした。
了承の返事を返すと、友達の元気な明るい声が返ってくる。
『そーこなくっちゃ! じゃあ、七時半に駅前のカラオケね! オシャレして来てよ!』
「…? あーうん。カラオケね。分かった」
態々〝オシャレして来てよ〟と言った友達の意図が分からず首を傾げるが、余り気にしないことにした。久しぶりに友達と会うのだから、今の寝惚けた顔のまま行くつもりはない。どうせなら眼鏡を外してコンタクトをして行こう。ゴロゴロするから余り好きではないのだけど、久しぶりなのだから少しくらい我慢しよう。
因みに〝仕事〟と言うのは、私の幼い頃からの特技を活かした〝イラストレーター〟という仕事である。ずっと小説の挿絵だけを描けばいいと思っていた頃の私は本当に馬鹿だった。勿論そんな仕事ばかりが来るわけはなく、今もほそぼそと依頼をこなしている日々を過ごし、どうにか食い繋いでいる。こういった業界は歩合制であることは充分理解して入り込んだのでそれに対し特に不満はない。自由な絵が描けるわけではないけれど、好きなことをして食べていけるのだから、これに不満などあるはずもない。
中々治らない跳ねた髪をアイロンで挟みながら、私はぼんやり先程の夢を思い出す。余り夢の内容を覚えていることは少ないのだが、今日は何故だか鮮明に覚えている。昔の、高校時代の夢だった。楽しかったと言えば楽しかったような、思い出したくないと言えば思い出したくないような、そんな頃の思い出。〝あの人〟との思い出は、私の中で〝楽しかったもの〟〝思い出したくないもの〟どちらに該当するのだろう。というか。
「……何で急に出て来たんだろう」
とっくの昔に、忘れたはずだったのに。
〝あの人〟は、高校の、一つ上の学年に所属する先輩だった。高校二年生の四月に知り合い、一年後、三月の卒業式で別れた。それ以来会っていないし、卒業してしばらく経ってからは、思い出すこともなかった。もう会うこともないのに、その人のことを覚えているのが馬鹿馬鹿しくなったのかもしれない。今の今まですっぽりと抜けていた。
〝あの人〟は変な人だった。和風な、整った顔立ちをしているのに言動が一々おかしくて、その時の私はその人を〝残念なイケメン〟だと称していた。ただし、その人をイケメンだと捉えるかは人それぞれで、私はその人の顔立ちがドストライクでよく友達に「目の保養だよね」と語っていた気がする。友達もその人の顔は好きなものだったらしく、積極的に付き合ってくれていたけど。
〝あの人〟とよく話をした。話をするたび、その人から変な意見がどんどん出てきて、ずっと話していると楽しかった。気付けば外が暗くなっていた――なんてこともよくあった。その人が話をするたび笑ってくれるのが嬉しかった。何となくつまらなそうな顔を良くしているから、余計にその人の笑顔が嬉しかった。
〝あの人〟は、私が所属していた文芸部の先輩の友達だった。絵を描いたり小説を書いたり、思い思いにそれぞれ自由に過ごしていたその空間に突然入り込んできたその人に、知らない人が余り得意ではない私は最初、その人が怖くて最初は少し避けていた。だが顔がタイプだったのと先輩の友達なら大丈夫か、と少し安心したのとで、暫くすると私にしては比較的積極的にその人に話し掛けた。その人は案外普通に色々と答えてくれて、好きな歌手が同じことも知って、そして段々とその人の〝変〟な部分も見えてきて、段々と私はその人とよく話すようになっていた。今思っても、少なくとも嫌われては居なかった、と思う。多分。はっきり言えなかっただけでもしかしたら私の事が嫌いだったのかもしれないが。まあそれはそれで、別に構わない。もう会うこともないし。
ああ、でも。
ふと、〝あの人〟の言葉を思い出す。
『美人が好き』
良くも悪くも、はっきりした人だった。嫌なものは嫌だと言ったし、好きなものは好きだと言った。そんな人が私に〝嫌い〟と言えないなんて、そんな事あるわけないか。
そこまで考えたところで、ようやく髪がいうことを聞いてくれた。真っ直ぐになった髪を櫛でといて、鏡の前で笑顔を作る。
高校時代といえば、あの頃に比べれば私はだいぶ痩せて可愛くなったと思う。高校時代の私は太っていたとは言わないまでも少しぽっちゃりしていて、それがコンプレックスだった。しかし高校を卒業してすっかり痩せた私は高校時代に比べれば可愛くなった。自慢とか自意識過剰とかそういうのではなく、単純に、〝高校時代と比べれば〟の話だ。一般的に可愛いかと言われれば普通だと思う。
―――あの人のタイプではないな。
ふとそう思い、笑みを零す。それは自虐的でもあり、ただ事実を客観的に見つめただけでもあり、自分自身、その中の本位は分からなかった。
あの人のタイプではない―――しかし、今あの人と再会出来たとして、あの人は、私の事を今度こそ、見てくれるだろうか。私の事を、好きになってくれるだろうか。
「―――はは、」
今度ははっきりと、自嘲めいた笑い声が漏れた。
私は昔、あの人のことが好きだった。
高校二年生の時、私には彼氏がいた。
特別格好いいと言うわけでもなく、ただ〝お人好し〟という言葉が似合うほど優しい、平凡な先輩だった。先程も言った、あの人の友達で、同じ部活の先輩。ひょんな事で先輩を好きになった私は、気付いて一ヶ月も経たないうちに先輩に好きだと告げた。友達には行動が早すぎると呆れられたが、もう先輩の事ばかり考えて何も手につかないのが嫌だった。悩むくらいなら先輩の気持ちを聞いてしまいたいと、そう思った。
『あの、先輩』
『…ん?』
『あの、えっと…………ですね、』
こんな調子で暫く言い淀んだ後、私は先輩に思いを告げた。ドキドキして、頭が真っ白になった。少女漫画を見ていて、中々告白しない主人公によく『早く言えよ!』と焦れていたものだが、舐めていた。これは、物凄い勇気のいることだ。
結果だけ言うと、先輩の返事はイエスだった。先輩曰く、好きになったのは向こうが先だったらしいが、告白する気もなかったと、先輩は言った。叶うとも思っていなかったから、と。
私達は至極簡単に、恋人という関係になった。
先輩はとても優しくて、連絡も良くしてくれたし出来るだけ私との時間を作ろうとしてくれた。ガラにもない、恥ずかしい事を散々言ったし、今思い出しても吐きそうになるような態度をとっていた。それでも付き合ってから最初のうちは楽しくて、ただひとつだけ、先輩が周りに付き合っていることを隠そうとしたこと以外は、不満などなかった。
〝恋は麻薬〟だとはよく言ったものだと、その頃の私はどこか冷たく脳内で考えた。あれだけ脳を痺れさせた麻薬は、時間と共に効力を失い、数ヶ月後には私の中からすっかりと消えてしまっていた。
高二から始めた私のバイトが忙しくなって時間がとれなくなっていったことも、気持ちが離れた一つの原因だと思う。一度連絡を断ってしまうとそれ以降も億劫になり、電話の回数や会う回数と比例して、どんどん気持ちは離れていった。
『あのさ、今から話せる? 話があるんだけど』
そんなメールがよく来ていた。私は気付かなかったと、不自然でない言い訳も一緒に考えてそれを無視していた。振られるのが怖かった訳じゃない。別れ話をする事で、先輩を傷つけてしまうことが怖かった。告白をするのも相当な勇気を要したけれど、別れを告げることはそれ以上に勇気のいることだった。
先輩も気付いていたのだと思う。本当に良い人で、私は先輩を傷付けてしまうのが怖くて、だけど気持ちが離れてしまった今会うことも嫌で、先輩から逃げていた。
最低だった。
酷い自己嫌悪に襲われた。あんなに良い人を傷付けて、自分勝手に振り回している自分に嫌気が差していた。
結局、私は先輩に別れを告げることなく、卒業して県外の大学に進学した先輩と連絡を絶った。
それだけでも最低なのだが。
もっと最低なのは、私がその頃、先輩の友達の〝あの人〟に、恋をしていたということだ。
きっと全部、気付いていた。先輩は全部気づいていた上で、私との自然消滅を受け入れた。その真意は分からないが、あの時の私は本当に最低以外の何者でもなかった。
高校時代の、若かった頃の過ちだよ、と友達は軽く言うが、私はそんなふうに軽く考えられなかった。
あの人は人一倍、優しかったから。だから私は、あの人を傷付けてしまったことを後悔していた。ただ、気持ちが戻っているかと言われればそんなことはないのだけど。
〝良い人だけど、そういう対象には見れない〟
そんな言葉をよく耳にした。もしかしたら私も勘違いしていただけで、そうだったのかもしれない。優しくされて、嬉しかったのを恋だと勘違いしたのかもしれない。そうだとしたら、私は。
〝若い頃の過ち〟だと、簡単に割り切れればよかった。もしかしたら、あの先輩でなければさっさと割り切れたのかもしれない。あんなに〝良い人〟じゃなかったら、きっとすぐに切り捨てられた。別れを告げられた。
都合の良い責任転嫁に、思わず自嘲の笑みを溢した。
別れを告げられなかったのは、自分自身の弱さだ。先輩のせいじゃない。
過ぎたことだ。過ぎたことだが、私の中の、重たい罪だった。
「あ、コウー!」
私を呼び出した友達が、小さい体を懸命に広げ、ピョンピョンと飛び跳ねて私の名前を呼んでいた。白いモコモコした服を着ていて、可愛いなあと思わず頬を緩ませる。私にはああいうのが似合わないので、少し羨ましく思う。
私を呼び出した友達の名前は通称をノンと言い、本名を皆方希と言う。中学の頃からの友達で、途中で引っ越してしまったのだがそれからも交流は続けていた。ノンは所謂いじられキャラというやつで一々反応が可愛いのでついつい構ってしまう。小さくて少し幼くて、可愛い。まあ本人には、調子に乗るので絶対言ってやらないが。
「ごめん、待たせた?」
「んや? ヘーキ! ノンも今来たとこ!」
ノンは持ち前の明るさを全面に出したような笑顔でそう言って、私の格好をじぃ、と凝視した。今までそういうことをするような子じゃなかったので少し戸惑う。何だ何だ。
「あはっ、うんカワイイカッコしてきたね! これなら大丈夫か!」
「? は? 何が?」
「あれ? 言わなかったっけ?」
ノンは悪戯っぽく、ニヤリと笑った。
「今日はね、これから合コンに行くんだよ」
私は、イケメンは好きだが男の人と接するのはあまり得意でない。話しかけられると吃ってしまうし、上手く話せない。中学の頃から自分の容姿にコンプレックスを抱くようになってから、私はずっと男の人と話せずにいた。
不思議と、高校のときに出会った文芸部の人は平気だった。普通に話せたし、冗談も言い合えて、素の状態でいられた。同じ部活ないという空間で、同じ趣味を共有できたからかもしれない。ただ、それ以外で私は男の人と接することが苦手だった。
中学校の途中、高校三年間とあまり会っていなかったノンであるが、それはノンも知っているはずだった。
というのに。
「皆方希でーすっ! ノンって呼んでねー!」
どうしてこんなところに誘ったのだろうか。
合同コンパ、所謂合コンと呼ばれるその集まりは、男女が複数人集まり、出会いを求めて飲み食いをすることが主とされる。
あの後、固まった私をノンが引っ張って訪れた場所は、電話で行っていたとおりカラオケボックスの中だった。しかしそこには知らない男の人が四人、こちらもまた見覚えのない女の子が二人。人見知りの気がある私は当然固まった。
ノンにどういう事だと文句を言うが、てへ、と舌を出して「人が足りなくてっ」も語尾にハートがつきそうな語調でそう言った。畜生可愛いな。
何だかんだノンに甘い私は、ノンに言われるまま、椅子に座った。そこから始まる自己紹介タイム。ノンの順番を終え、私は部屋に漂うお酒の匂いに酔いながら、口を開く。
「えっと……杉平昊です。ノンや他の子からはコウって呼ばれてます」
どこから堅苦しい、覚束ないその挨拶を終えて、私は小さくため息を吐き出した。男の子側が拍手をして盛り上げてくれるが、それもどこかぎこちない。こういう場面で、気の利いたことが言えない自分が嫌になる。
拍手も鳴り止んで、必然的に男の子たちの自己紹介が始まる。どうやらその辺の運送業者の社員を集めてきたらしい。ちょうど三人目が終わった時、自己紹介が一瞬途切れた。不思議に思い、顔を上げ、四人目の顔を見て―――、私は目を見開いた。
「………永倉啓汰です」
静かに、どこか遠慮がちに、しかし興味はなさげに、その人はそう名乗った。端正な顔立ちをしていた。恐らく、ここにいる男の子の中で一番。ノンの隣にいる名前も知らない女の子たちがヒソヒソと話をしている。かっこいい人だね、とか、そんな感じの言葉が耳に届いた。
私は目の前に座るその人を凝視していた。私はその端正な顔立ちを、無気力そうなその瞳を知っていた。
「―――…永、倉、先輩……?」
「………え?」
その人は、ジュースを飲もうとする体勢のまま、固まって私を見た。私が誰だか分かっている様子はない。無理もない、私は〝あの頃〟から、随分と変わってしまったから。
永倉啓汰。
今日、夢に出てきた〝あの人〟が、私の目の前に座っていた。