第四・五話 幼児退行
俺は林の中を走っていた。
なぜ、林の中を走っているのかはよく思い出せない。
何か嫌なことがあった。
やりたいことあったのにそれを否定された。
それが俺には許せなった。
だから、自分の力でやってのけて自慢しよう思ったのだが・・・
なぜだろう。今ではその理由も思い出せない。
先程からなぜか大事なことを忘れて行っている気がする。
俺は棍棒を手に持ち林の中を駆け回る。まるで子供が枝を手に持ち駆け回るように楽しげに・・・
僕はふと足を止めあたりを見渡す。
あたりは霧と木に覆われて視界が悪く遠くまで見通すことができない。
先程まで楽しく駆け回っていたのに俺の胸にはなぜか突然、恐怖が湧き上がる。
自分以外誰もいない世界。視界は悪く先程まで見ていた世界だというのになぜか見覚えがない。
俺はなぜか母と父、家族のことを思い出す。
それから友達のことを思い出す。高校に入って知り合った人たち、中学時代の友達に小学校での友達や初恋の先生のことを思い出しては霞のように消えていく感覚が僕を襲う。
俺はその感覚を振り払うようにあたりを見渡して必死に記憶を辿る。
しかし、その人たちはどこを探しても見つからず、なぜかもう会えない気がした。
心の中で不安が生まれた。
僕は来た道を帰ろうと足を踏み出すが視界に広がるのは乱立した木々と立ち込める霧に方向が分からなくなる。
俺はどこから来てどこに向かおうとしていたのか。
心の中の恐怖と不安が大きくなる。
ガサリと背後で音がして振り返ると近くに生い茂る草木が揺れている。
草木の揺れている場所がだんだんと近づいてくる。
僕の中の不安と恐怖がより大きくなり僕は一歩二歩と後ろに下がる。
草か何かに足を取られて転びそうになるが棍棒で体を支えて何とか留まる。
その間にどんどんと草木の揺れが近づき揺れも大きくなっていく。
そして、ついにその揺れの正体がその姿を現す。
僕はビクッと体を震わせて驚くが棍棒と両足で体を支えて倒れないようにして身構える。
草木の間から出てきたのは丸く真っ白なウサギだった。
ウサギは出てくるなり僕のいる方向に駈け出してきて近づいてくる。
それは思っていた以上に早く力強かった。
動物が駆け寄ってくるなどという経験は人生で初だった。
おまけに相手は可愛いウサギだ。
僕は棍棒から片手を離してウサギに手を伸ばしながら中腰になるように腰を下ろしていく。
駆け寄ってくるウサギとそれを抱き留めるように動く僕。
僕の中にあった不安と恐怖はいつの間にか消えていた。
そんな動物と心を通わすかのような夢のような一時は本当に一瞬で幕を閉じた。
次の瞬間、先程ウサギが出てきた草木の間から黒く大きなものが飛び出してきた。
それは一足飛びでウサギに追いつきその背中に齧り付く。
ウサギは小さな呻き声を上げて抵抗するように手足をバタつかせている。
黒く大きなものの正体はオオカミだった。眼にするのは初めてだったが図鑑などで見るオオカミにそっくりで黒だと思っていた毛の色は良く見ると焦げ茶色だった。
オオカミの牙はウサギの体にシッカリと刺さっているのか噛まれた部位から赤い血が出ていた。
真っ白なウサギの体毛がじんわりと赤く染まっていく。
ウサギはぼくに助けを求めるかのようにこちらに赤く光る目を向けるがそれは一瞬のことだった。
次の瞬間にはオオカミはウサギを口から放り捨てて木にぶつける。
ウサギが木にぶつかり地面に滑り落ちると同時にオオカミは再びウサギに襲い掛かり今度はウサギの腹に牙を突き立て食い千切る。
ウサギはそこでようやく絶命したのか動きを止める。
後はオオカミがその腹を満たすためにただただウサギの体を食い荒らすだけの行為だ。
ぼくはそれをただ見つめることしかできなかった。
逃げ出すことも戦う勇気もオオカミの出現とその眼にも止まらぬ速さと獰猛さ荒々しさに恐怖や不安を通り越して絶望が心を支配していた。
ぼくはオオカミがウサギを食い終わるのをただじっと見つめて待っている。
オオカミがウサギを食い終わりまだ満たされぬ腹を満たすために次に僕を襲うのをただ待っていた。
数分後、オオカミはウサギを粗方食い終わり、こちらを見つめながら口から大量の唾液と血が混ざったものを垂らしていた。
ぼくは相変わらず動けずただ立ち尽くすことしかできない。
「グルル・・・・」
オオカミは低く唸り声を上げて威嚇しながら近づいてくる。
ぼくには戦う勇気も逃げ出す気力もなく、絶望に身を委ねて身動き一つできない。
僕はもうじき死ぬ。
それが決定事項であるようにその運命を受け入れているのか。僕は動けない。
最後に何か思うことがあるとすれば、こんな時に叫ぶ誰かの名前が欲しかったなとそう思った。
オオカミは高く跳躍して僕に襲い掛かる。
おそらく、肉の一番おいしいであろう腹部に齧り付く為だろう。
ぼくはその光景をただただ見つめていることしかできなかったが、オオカミが最高点まで飛び上がったところでオオカミの顔面に何かが当たった。
その何かはオオカミの左眼を貫く。
左眼を貫かれたオオカミは死んだのかまだ生きているのかわからないが空中で向きを変えて木にぶつかって地面へと落ちた。
僕は何が起きたのかただ立ち尽くしていると「大丈夫か!」と誰かがぼくに声をかけたので振り向くとそこには一人の少女がいた。
少女はぼくに駆け寄ってくる。
ぼくはなぜか両目から涙をこぼして「リリス!」と叫んでその小さな少女に抱きつき歓喜の涙を流した。
ぼくは生きていることに感動しリリスが来てくれたことに感謝して泣いた。
リリスはぼくをやさしく抱き留めて頭を撫でてくれた。




