ナマケモノのつぶやき
「努力は嘘をつかない」なんて言葉が嫌いだ。
しかし、その言葉が嘘だとは思わない。
目標に届かなくても、努力したことが遠回りに何かの役に立ってんだと思う。
努力が嘘をつかないからタチが悪いのだ。
努力が嘘をついてくれれば、皆努力なんて面倒で疲れるだけなことなんて、しないだろうから。
「石崎の今のままの成績だと、K大以外の選択も見始めるといいかもな……」
塾の進路相談室で、チューターにそんなことを言われた。
「諦めるわけではない」「弱気になる必要はない」「これからの夏休みで、可能性は十分にある」なんて言葉もかけられたが、単純だ。
志望校を下げろと言われている。
別に構わない。
4月の時点で俺の偏差値にちょうど良さそうで、名前を知っていたのがそこだったから、なんとなく模試のたびに名前を書いていただけだ。
K大に行きたい理由なんて、一つもない。
「ありがとうございました」と告げて進路相談室を出る。
と、同時に塾の営業時間終了のアナウンスが鳴った。
思ったより進路相談に時間をとられだようだ。
ちょうどいい。
早く帰りすぎても、親からの目が面倒なだけだ。
歩きながらスマホの画面に目を移したとき、すぐ左の自習室の扉がガラと音を立てた。
でっかいバッグ。
小柄な女子が、その背中がすっぽり埋まってしまいそうなくらいに大きくて重そうなリュックサックを背負って出てきた。
あんなに教材詰め込んで、本当にできるのかね。
疲れているわけでもないのにこみ上げてくるあくびを消化しながら駐輪場に向かった。
親父に怒られた。
俺のツメが甘くて、模試の結果を見られてしまった。
あの日の進路相談のきっかけになった、褒められたもんじゃない成績だ。
「なんのために塾に通わせているんだ」と言われたが、俺は塾に行きたいなどとは一言も発していない。
そんなに金の浪費が気になるなら辞めさせてくれればいい。
「勉強できる環境を用意しているだろう、朝から自習室にいけ」なんて言葉もバカ丸出しだ。
普段は成績なんて気にしないくせに、少し出てきては偉そうに全く分かっていないことを言う。
今でも腹が立ってくる。
とはいえ、怒られた次の日くらいは大人しく従わないともっと面倒なことになる。
家にいても居心地が悪いので早々に家を出て、9:30には俺は塾の駐輪場に到着した。
駐輪場には自転車が俺のほかにもう一台停めてあった。
塾は9:00に開いて授業は10:00からだから、塾が開くと同時に入り、自習室で勉強しているのだろうか。
ご苦労なことだ。
自習室の扉の小さな窓越しに、背中を丸めて机に向かう女子の後ろ姿が見えた。
見覚えがある。
昨日のでかいバックの女子だ。
2日連続で塾にこもりきりか?こいつ。
大人たちの受験生のイメージの具現化みたいだな。
彼女は俺がドアを開けても振り返るどころかピクリとも反応を見せない。
自習室に居慣れているんだろうな。
近くに座るのも気まずいので、なるべく遠くの端の席に腰を下ろした。
外は暑いし、適当にここで時間をつぶすか。
見る気もない参考書を開いて、筆箱を出して、結局スマホをいじっている。
無駄だな……。
受験生だからって、漠然とした勤勉をあらゆる大人から押し付けられるってのは。
高3になれば勝手に勉強しようとするわけじゃないのに。
俺がこの席に座ってから1時間程度経つが、それから入ってくる生徒はいなかった。
そんなに大きな塾でもないしな。
ただ、やることもなく座っていると、やはりこの部屋のもう一人の存在が気になるものだ。
スマホを見る傍ら彼女をチラ、と眺めていると気づいたことがある。
椅子からは立たないが、彼女は別に黙々と勉強しているわけではない。
こまめにシャーペンを置き、顔をしかめる。
頭を抱えることもある。
ただ、椅子からは立たない。
スマホを取り出す様子もない。
乱暴に頭をかいて、その手でまたシャーペンを握って顔をしかめる。
俺はトイレに行こうと席を立った。
自習室を出るには、彼女の席の近くを通る必要がある。
その時に、彼女の机上の赤本が見えてしまった。
正確には「見えてしまった」かは分からない。
地を這うように勉強する彼女がどんな内容に取り組んでいるのか、興味があったのかもしれない。
大学別の過去問集の目印の真っ赤な表紙がチラ、と見えたから目を凝らしてしまったのかもしれない。
ともかく、俺は驚いた。
O大。
俺がK大から志望校を下げる、その候補としてチューターが提示した中でも一番偏差値の低い大学。
こいつ、俺より偏差値低かったのか。
俺は自習室に行く機会を減らした。
家にもいづらいので、適当に公園とか、ゲーセンとかで時間をつぶして。
自習室にはあまり行かないようにした。
行ったら100%彼女はいるし。
彼女と同じ部屋にいるなら、スマホはいじらないようにしたかった。
夏休みは終わった。
正直、俺の模試の点数が少し上がったのには驚いた。
自習室にいる時間は減ったはずなのだが。
ただ、偏差値はあまり変わらず、ギリギリK大に届かないところで止まっている。
彼女はと言えば、夏休みが終わっても変わらず自習室のあの席に大きなバッグを床に置いて座っている。
ある日、俺が自習室に入ると彼女の背中がいつもと違った。
夏休みの間、何度も見たのだから――いや、もし彼女を見るのが初めてでもさすがに気づく。
泣いている。
どこから湧くか分からない気力を夏の間絶えず出し続けていたその小さな体を震わせて、顔を机に伏せて、泣いている。
机上にはあの日と同じO大の赤本が置いてあった。
なんでやれるんだよ、そんなに。
周りにも俺みたいにだらだらしていて、お前より頭いいやついるだろ。
滅入らないのか。
お前くらいまじめだったら、成績良くて指定校とか狙えるんじゃないのか。
O大じゃなくたって、似た大学の指定校の枠なんてたくさんあるだろ。
もったいねえだろ、時間も、気力も。
俺の気配に気づいたか、彼女は顔を上げていつものようにシャーペンを持った。
気にするなよ、俺のことなんて。
今までずっと勉強して、今日涙が出たんだろ?
限界じゃないのかよ。
俺と同じ人間だろ?
俺だったら、とっくに限界来てるよ。
俺みたいな根性ないやつ気にしないで、いないやつだと思って、今日はもう……。
そう思っているはずだった。
その思いと真逆の行動をしてしまった。
俺はもしかして。
彼女に声をかけられるように、この部屋の中だったら彼女と対等に話せるように、せめて自習室でだけは机に向かっていたのかもしれない。
「それ……。英語の過去問?」
俺の言葉に彼女は驚いたように振り返った。
初めて目が合った。
問題に悩むとやや乱暴に右手で頭をかくのは彼女の癖で、今日もたくさん描いたのだと思う。
顔だけじゃなくて、髪もぐちゃぐちゃだった。
「俺、英語……。まじでできなくて、よかったら、ちょっとだけ、一緒にやってくれない?」
「9月さ、やっぱ旅行でも行かない? 人少ない時期に行けるのとか、大学生の特権じゃん」
俺の提案に里香は目をまっすぐに見て明るく返してきた。
「いいよー! 私前半は教育キャンプ行ってくるから、それ以降ならいける」
「あれ、それ先週行ってなかった?」
「それ国内留学」
俺は息を小さく吐きながら背もたれに深くもたれかかった。
「いろいろ行くなぁ、里香は……」
「明人くんだって、就活やってんじゃん。2年生でそんなにやってる人、周りで見ないよ」
「就活は、みんな絶対にやるだろ。早くやっといた方が楽だからやるんだよ」
「またかっこつけて」
里香は最後に残していただろうケーキの大きい切れ端をおいしそうに頬張る。
ずっと行きたいと言っていたが、予約の空きと二人の日程が上手く合わずにずいぶんお預けになっていたカフェのケーキだ。
今日はますます、上機嫌が分かりやすい。
「早く内定決めて、なんの縛りもなくだらだらするために就活やってんだ。『周りが頑張ってるんだからお前も……』みたいな目で見られるのはごめんだからな」
向かわなくても生きていける課題に自分から突っ込んでいくのはやはり俺に合わない。
努力も、苦手なままだ。
周りが努力をしなければ、努力が嘘をついてくれたら、なんていまだに思うが。
この人を見ていると、努力よ報われてくれ、と思ってしまうのだ。
完




