↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

女スパイの私、お嬢様学校に潜入したらターゲットの公爵令嬢に溺愛されて「お姉様」と呼ぶことになりました

掲載日:2026/09/23

「明日から学院に潜入してもらう」


 昨日まで潜入していた仕事が終わり、上司から次の任務が告げられた。


「学院……ですか?」

「そうだ」

「なぜ私なのでしょうか?」

「十代の女性は貴様しかいないからだ」


 なるほど、合理的な理由だ。


「承知しました」

「では任務の詳細を告げる。場所はエトワール女学院。ターゲットは『クラリッサ・フォン・ヴァレスティア』が持つある物だ」

「はあ!?」


 耳を疑うような言葉が告げられた。


 エトワール女学院と言えば、この国の貴族の子女が通う女学院。

 しかもヴァレスティアと言えば、王子を祖とする、この国でも有数の公爵家の名前だった。

 さらに言えば、初代当主を除けば、代々女主人が当主を務めていることで有名な家系だ。


 しかし上司は、女の戸惑いなど関係ないとばかりに話を続ける。


「クラリッサ・フォン・ヴァレスティアは代々伝わると言われている『ある物』を持っている。しかしそれがなんなのかわかっていない。どんな形状なのか、どんな用途のものなのかもな」

「……なぜそんな物を?」

「ある情報筋から、それは国を傾けかねない情報の鍵と言われている。そのため奪い、情報を得た上で破棄する」


 女は得た情報と必要なプロセスを頭の中で組み立てる。


 エトワール女学院に通う。

 クラリッサ嬢と仲を深める。

 代々伝わる物がなにか情報を得る。

 奪う。


「いやいや、待ってください。私にお嬢様学校に通うなんて無理です。貴族の礼儀作法に自信はありません」


 以前の任務で最低限のマナーは身につけた。だがそれは付け焼き刃。そんなもので生粋のお嬢様方に混ざってやるなんて無理だ。


「問題ない。貴様はとある侯爵家の庶子だったということにする。それなら礼儀作法も勉強中ということで話を通しておく。最近認知されたため、エトワール女学院に通うことが許された、という設定だ」

「そんな無茶な……」

「無茶でもやれ」


 上司は一切の迷いなく言い切った。


「命令だ」


「……了解しました」


 こうして私は、人生で初めて――


 お嬢様学校に通うことになった。


 ==========


 学院の制服に身を包んだ女『リゼット・クロフォード』が初めての登校日を迎えていた。

 エトワール女学院は全寮制であり、与えられた寮の一室を出て学院へと向かう。

 街路樹の並ぶ道を歩いていく。


「ご機嫌よう」

「ご機嫌よう」


 周りの女学生たちは顔見知りと挨拶を交わしていく中、今日までに集めたクラリッサの情報を頭の中で整理していく。

 ヴァレスティア公爵家の一人娘。成績優秀で人当たりもよく、取り巻きも多い。

 しかしその反面、地位を目当てに近づく者が多いため、一定以上他人に信頼を寄せることがない。


 情報を得るにはその一定のラインを越える信頼を彼女から勝ち取らなければならない。

 しかしまずはどうやってお近づきになるか……それが問題だった。

 クラスどころか学年も違う。そのような環境でどうやってターゲットに近づけというのだ。


「ミィー、ミィー」

「うん?」


 思考を巡らせていると、校門を潜ったあたりで、離れた場所からなにかの鳴き声が聞こえてきた。

 周りの女学生にはなにも聞こえていないようだったが、鍛えられた彼女の聴力がその声を捉えていた。


「ミィー」


 声が気になり、鳴き声の方に向かうと一匹の子猫が木の上にいた。

 どうやら木に登ったのはいいものの、降りられなくなってしまったようだ。


「はあ……」


 ため息を吐き、仕方ないと思い辺りを見渡す。

 見える範囲に人影はない。


「ふっ!」


 一足で木の幹に飛びかかり、足をかける。

 三角飛びの要領で飛び上がると、子猫がいた場所に両手を突っ込み、一息で捕まえる。

 着地をしたあと、立ち上がり、両手で捕まえた子猫を確認する。


「ミィー、ミィー」

「二度と木の上に登るんじゃないぞ」

「ミィー」


 わかったのかわかってないのか、返事をしたので子猫を地面に降ろし、解放してやる。

 すぐに何処かに走っていってしまった。


「さて……」


 立ち上がったリゼットが制服についた埃を払う。


「どうやって近づくか……」

「――まあ」


 その声に、リゼットは振り返った。


 振り返った先には、金髪を後頭部でまとめ、背中へと垂らした髪を幾重もの縦ロールに整えた少女が立っていた。

 キリッとした勝ち気そうな眉に、意思の強さを感じさせる瞳。真っ直ぐ通った鼻筋に、小ぶりな唇。

 百人の男性が見れば、百人が美しいと言うだろう。

 そして何より目を引くのは、陽の光を受けて輝く金の髪。この国では、王家の血を引く者にしか現れない色だ。


 それはリゼットがこの任務に当たる際、何度も何度も確認し、記憶した少女、クラリッサ・フォン・ヴァレスティアその人であった。


 どうしてここに!?先程確認したときには、誰もいなかったはずだ。


「あなた凄いわね!」


 しかも見られていた!?


「でもあなた、見ない顔ね」


 これは使える!


「はい、今日編入してきたばかりの、リゼット・クロフォードと申します」

「あら、編入生でしたのね」

「はい、私は庶子だったため、貴族の礼儀作法に疎く、お嬢様に見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」

「あら、そうなの?でも素晴らしい動きでしたわ」


 お嬢様らしからぬ動きをしたことも、庶子だったからという言い訳に使える。さらに今後礼儀作法の未熟さもフォローできる。


「私の自己紹介がまだでしたわ。私の名はクラリッサ・フォン・ヴァレスティアよ。あなたは……リボンの色を見ると二年生かしら。私は三年生ですわ」


 知っている。名前も、学年も、家柄も。

 だが、ここで知っている素振りを見せるわけにはいかない。

 それよりも、気になることがあった。


「はい、ところで……そのクラリッサ様はどうしてここに?」

「ええ、あちらで少し、お茶を」


 あちら、と指し示した方向にはティーテーブルと椅子が置かれていた。

 それはちょうど、リゼットが周囲を確認したときには、死角になっている場所だった。


 クラリッサはそう言って、右手で髪をかき上げた。

 その指に、小さな指輪が光った。


「私、こう見えても人望がありますの」


 こう見えてもというより、見たまんま人望や取り巻きが多そうだ。


「私の取り巻きになりたがる方も多くいらっしゃいまして……それはそれで嬉しいのですが、常に誰かが傍にいるというのは気疲れするものですわ」

「たしかに……そうかもしれません」

「それで、一人になれる時間と場所が、今とここなのですわ」


 このお嬢様にとって、唯一、人目を気にせず、ゆっくり過ごせる時間ということなのだろう。


「それが突然、人の気配がしたものですから、見てみると、というわけですわ」

「お一人の時間をお邪魔してしまい、申し訳ございません」

「いいのよ。素晴らしいものを見られましたし」


 クラリッサが、誰もが見惚れてしまうような満面の笑みを浮かべた。


「それと、そんなに畏まらなくてよくてよ。同じこの学院の学生なのですから」

「では……クラリッサ先輩、とお呼びしても?」

「まだ口調は固いけど……まあ及第点かしらね」


 それが女スパイ、リゼットと公爵令嬢クラリッサの初めての出会いだった。


 ==========


 それから数日が経った。


「つ、疲れた……」


 リゼットは机に突っ伏している。

 学院の授業で苦労をしているせいだ。


 一般教養や魔術関係の科目は問題ない。

 だが、貴族子女向けの授業で苦労していた。


 テーブルマナー、ダンスレッスン、刺繍……これらがリゼットを苦しめた。

 テーブルマナーはナイフやフォークの扱いこそ慣れているが、食器を置く位置や、カトラリーを使う順番、食事中のコミュニケーションがまったくできていなかった。

 ダンスレッスンに関して、動きはすぐに覚えられるのだが、ステップの刻み方、パートナーとの距離感、優雅な姿勢などが鬼門となっていた。

 そして、刺繍。

 縫い物自体は得意だが――。


「なぜ布に花を描く必要があるんだ……」


 芸術面がまったく理解できていなかった。


「リゼットさん。大丈夫ですか?机で寝ていると怒られてしまいますわよ」


 隣の席の女学生が、心配してくれている。

 貴族の子女であっても、周りを気遣えるのは当然の技術なのだろう。


「ありがとうございます。ただ授業についていくのがやっとでして……」

「まあ、それなら姉妹を作られてはいかがですか?」

「姉妹……ですか?」

「ええ。この学院には『姉妹の契』というものがありますの」


 初めて聞く言葉だった。


「上級生と下級生が姉妹となり、お互いに助け合うのですわ。勉強を教えていただいたり、学院での生活について相談したり……」


「なるほど……」


 事前の情報ではまったく知らされていなかった制度だ。


「そのような説明、学院から聞かされていませんが……」

「ええ、生徒たちが自ら始めた制度ですわ。学校側も黙認していますのよ」


 正式な学院の制度ではなく、生徒たちの間だけで受け継がれている習慣なら、外部からの調査で把握できなかったのも無理はない。

 だがそれを利用すれば確かに授業についていく助けにはなりそうだ。


「姉妹はどうやって決めるのですか?」

「決まりはありませんわ。上級生が下級生に声をかけることもありますし、下級生からお願いすることもありますの」

「では、誰でも姉妹になれるのですか?」

「そういうわけではありませんわ。姉妹になるということは、それだけ深い信頼関係を結ぶということですもの」

「信頼……」


 その言葉に、リゼットは少し考え込んだ。


「ですから、誰とでもというわけにはいきませんわね。卒業まで姉妹として付き合う方も多いですから」


 なるほど。

 単なる勉強を教えてもらう制度ではないらしい。

 むしろ――誰かと特別な関係を築くための制度なのだろう。


「でもほとんどの人はすでに『姉妹の契』を結ばれてますから、空いている方がいらっしゃるかどうか……」

「ありがとうございます。でも、探してみます」

「それでしたら……」


 女学生は少し考えた後、口を開いた。


「放課後になったら、旧校舎の談話室へ行ってみるといいですわ。あそこなら、まだ『姉妹の契』を結んでいない方がいらっしゃるかもしれませんもの」


「ありがとうございます。行ってみます」


 ----------


 放課後の談話室に向かう途中、前から大勢の一団が、こちらに向かってきていた。

 進路上にいた女学生たちはすぐに両脇へと移動し、道を譲り、頭を下げる。


「ご機嫌よう」

「ご機嫌よう」


 不思議な光景に固まっていると、その一団は目の前にまでやってきた。


「あなた、上級生の方々がお通りになるのよ。失礼でしょ」

「す、すみません」


 すぐに道を譲り、頭を下げる。だが、遅かったようだ。


「あなた、二年生ね……名前は?」


 目をつけられてしまったようだ。


「あら?あなたは……リゼットさんですわね」


 集団の中心からリゼットの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 人が割れ、その中から出てきたのは、金髪縦ロールの少女――クラリッサだった。


「クラリッサ様。お知り合いですか?」

「ええ」

「クラリッサ……先輩?」

「あなた!失礼よ!」

「いいのよ。私がそう呼んでいいと許したのよ」

「ですが」

「私が、許したのよ」


 底冷えする声で、取り巻きの女学生を威圧する。


「はい……」

「それで、リゼットさんはどうしてこちらに?」

「あ、はい。礼儀作法やテーブルマナーの授業についていくのが大変で……それで隣の席の方から『姉妹の契』というのを結べば、色々と力になってくれると……」


 相手は調査対象だ。あまり弱みを見せるのはよくないが、見せることで相手が侮り、隙を見せてくれるかもしれない。


「あら、そうなのね。でも教えてもらうだけじゃ駄目なのよ。妹は姉の身の回りの世話もしないといけないのよ」

「そこは大丈夫です。慣れていますから」


 給仕や侍女として潜入することも多かった。接待の技術は問題なく身についている。


「そう……大変だったのね」


 庶子と聞いていたクラリッサは、きっとリゼットが貴族令嬢ではありえない境遇で今日まで過ごしてきたと思い込んでしまった。


「なら、私としましょう!」

「なにを……ですか?」


 クラリッサが髪を耳にかけると、小さなイヤリングが揺れた。


「『姉妹の契』ですわ」


 名案だと言わんばかりに、クラリッサがリゼットの両手を包み込む。


「ええ!!!!!!」


 これにはリゼットだけではなく、クラリッサの取り巻きの女学生たちも驚いた。


「え?でもクラリッサ先輩は『姉妹の契』を結んでいるんじゃ……」

「お姉様がいましたわ。でも去年卒業して、いまはいませんわ」

「新しくは……」

「誰とも結ぶ気がありませんでしたわ」


 ――これは、好都合だ。


「でも……私なんかでいいんですか?」


 後ろの取り巻きたちが、すごい顔でこちらを見ている。


「ええ、それに、あなたとなら楽しそうですもの」


 どうやらクラリッサの中ではすでに決定事項のようだ。


「いけません!そのような娘と契るなど!」


 取り巻きの一人が声を荒げ、止めようとする。


「あら、何故かしら?」

「クラリッサ様ほどのお方がそのような、野良猫のような娘と契るなど、許されるはずがありません」

「そう……ではあなた達にお聞きします」

「……なんでしょうか?」


 取り巻きたちの間に、緊張が走った。


「もし、子猫が木に登って、降りられなくなっているのを見つけたらどうしますか?」

「え?」


 女学生たちはクラリッサの質問の意図が理解できなかった。

 それはそうだ。『姉妹の契』の話をしていたのに、なぜか木に登った子猫の話を出されたのだから。


「教師を呼んできます……」

「私もです」

「私も……」

「私は使用人を……」


 それは人によって違うが、『誰か助けを呼ぶ』というのは共通していた。


「そう。つまらないのね。自分たちで助けるという考えはないのかしら?」


 貴族の令嬢が人を使わず、自ら動く。


「それは……貴族の令嬢としてあるまじき行為ではないでしょうか」


 それを聞いた令嬢たちは、スカートで木によじ登り、子猫を捕まえている姿を想像した。

 まさかクラリッサが見たような、三角飛びから華麗に捕まえたなど想像もできるはずもない。


「だから、つまらないわ。私の妹になるなら、自分で考え、自分で動ける方が好ましいわ。そうでしょう、リゼットさん?」


 ……この人、私を試している?


「……はい。私は、自分で考えて、自分で動く方が性に合っています」


 そして、クラリッサが望んでいるであろう言葉を続ける。


「だから、あの時はそうしました」


 その答えにクラリッサは満足そうにゆっくりと頷いた。


「ではリゼットさん、行きましょう。あなた達は来なくていいわ」

「ちょ、あの!」


 突然クラリッサに腕を掴まれ、引っ張られるようにして移動することになった。


「あの……どちらに……」

「礼拝堂よ」


 そういえば敬虔な信徒のために、学院内にも礼拝堂が設置されていた。


「そこで『姉妹の契』を結ぶのが習わしなの」

「はあ……」


 談話室へ向かうはずだった足は、そのまま礼拝堂へと引きずられていった。

 中に入るが、誰もいない。


「では始めましょう」

「あの……どうやって」

「神様の像の前に立って、私の言葉に続けて。ただし最初だけは自分の名前を名乗って、『姉と認めます』と言うのよ」


 言われるまま、移動し、像の前に立ち、二人は向かい合う。


「私、クラリッサ・フォン・ヴァレスティアは、あなたを妹と認めます」

「私、リゼット・クロフォードは、あなたを姉と認めます」


「互いを欺かず」

「互いを欺かず」


「困った時には手を差し伸べ」

「困った時には手を差し伸べ」


「嬉しい時には共に喜び」

「嬉しい時には共に喜び」


「この学院で過ごす日々を、姉妹として共に歩むことを誓います」

「この学院で過ごす日々を、姉妹として共に歩むことを誓います」


「神様の御前で、私たちは姉妹の契を結びます」

「神様の御前で、私たちは姉妹の契を結びます」


 何も起こらない。


「これで私たちは姉妹よ」

「はい、クラリッサ先輩」

「違うわ。お姉様よ」

「お、お姉様……」

「ふふっ……これからよろしくね。リゼット」


 こうして、二人の契は成った。


 ==========


 あれから二ヶ月、クラリッサの妹としての日々を送っている。


 毎朝クラリッサの部屋に赴いては、起こし、髪を梳く。

 髪を結い直すときには、クラリッサの髪飾りを外して、別のものをつけることもあった。


「お姉様、今日はこちらを使ってみてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんですわ」


 用意された朝食を二人分運び、共に食す。

 登校時間になれば、共に寮を出て、姉の教室まで付き添う。


 昼になれば、昼食を用意し、姉の席まで運び、こちらも共に食事をする。


 授業が終われば、姉の教室まで迎えに行き、姉から妹への指導の時間になる。

 指導で一番時間を割いたのは、刺繍だった。


「リゼット、これは何かしら?」

「薔薇です」

「……棘の生えた芋に見えるわ」

「縫い目は正確です」

「正確すぎるのよ。花はね、同じ形が二つとないから美しいの」


 意味がわからなかった。

 同じ形を正確に再現できるほうが、よほど価値があるはずだ。


「ほら、ここで一針だけ、わざと外してごらんなさい」


 言われるままに針を刺すと、図案通りだった花びらが、わずかに歪む。

 不思議と、その歪んだ花のほうが生きて見えた。


「ね?」


 得意げに笑うクラリッサの顔から、なぜか目が離せなかった。


 そんな日々を重ねるうちに、二人が並んで歩く姿は学院の日常になっていった。

 クラリッサの隣を歩くリゼットには、いつも羨望と嫉妬の眼差しが向けられている。


 潜入調査ということを考えれば、注目されるのは好ましくはない。

 しかし、目的達成を第一に考えれば、この立場は最も効率がよく、可能性が高い。


 クラリッサの部屋への出入りを許され、私物に触れる機会も多いのだから。


 その日も授業が終わると、リゼットはクラリッサの教室へ迎えに向かった。

 しかし、いつもなら教室の前で待っている取り巻きたちの姿がない。


「あれ……?」

「今日は私たち二人だけよ」

「皆さんは?」

「帰ってもらいましたわ」

「何かあったのですか?」

「別に。ただ……今日は少し、行きたい場所があるの」


 クラリッサが静かに席を立ち、リゼットの隣に並ぶ。


「最初に会った場所、覚えている?」

「……あの庭ですか?」

「ええ。あそこへ行きましょう」


 クラリッサに連れられ、二人は人目を避けるように庭へ向かった。

 そこは、初めて出会ったあの場所だった。

 あの日と同じように、静かな庭には二人以外の姿はない。


 クラリッサは用意されていた椅子に腰を下ろすと、隣の椅子を指差した。


「あなたと姉妹になって、どれくらいかしら」

「二ヶ月と十七日です」

「まあ……随分と正確ですのね」

「忘れる理由もありませんから」


 出会ってからなら二ヶ月と二十八日。

 任務において、経過日数の把握は基本だからだ。


 クラリッサは少しだけ目を細めた。


「ふふっ、不思議だわ。あなたといると、妙に気を遣わなくて済むの」

「私に……ですか?」

「ええ」

「ですが、ご友人が多いのでは」


 迎えに行くと、いつも多くの取り巻きに囲まれている。

 そして声をかけようとすると、いつも睨まれてしまう。


「あの人たちは友人ではないわ」

「そうなのですか?」

「ええ、悪い人たちではないのですが……」


 クラリッサは目を伏せ、やや声が沈んでしまう。


「他の人たちは、私に何かを求めて近づいてくるもの」

「……」

「私が公爵家の娘だから。ヴァレスティア家の娘だから。将来のことを考えている人もいるでしょうね」

「……お姉様は、それがお嫌なのですか?」

「嫌というわけではないわ。私だって、自分がどういう立場なのかは分かっていますもの」


 クラリッサは視線を庭へ向けた。

 いつもなら周囲にいる取り巻きの姿もなく、聞こえてくるのは風に揺れる木々の音だけだった。

 普段、多くの人に囲まれている彼女が、今はひどく小さく見えた。


「でも、たまに疲れるの」

「……」

「誰かと話していても、その人が見ているのは『クラリッサ』なのか、それとも『フォン・ヴァレスティア』なのか分からなくなることがありますの」


 クラリッサは、まっすぐリゼットを見つめていた。

 いつものような自信に満ちた表情ではない。答えを急かすこともなく、ただ静かに返事を待っている。


「リゼット。あなたは私を羨ましいと思う?」

「……はい?」

「皆に囲まれて、何でも持っていて、何も不自由していない。そう見えるでしょう?」


 この場合、なんと答えるのが正解なのだろうか。

 違う、正解はきっと『リゼット』のありのままの思いだ。


「さっきの話を聞いていなければ、そう思っていたかもしれません」

「ふふっ、正直ね」

「お姉様は、どうなりたいのですか?」

「わからないわ。でもね、私は一人になりたいと思うことがありましたの。だから、お姉様が卒業してからは、誰とも『姉妹の契』を結びませんでしたわ」


 クラリッサは少し考えるように空を見上げ、それから小さく笑った。


「でも、不思議と今は一人になりたいとは思わないの。だからきっと一人になりたいのではなく、あなたと一緒に居たいと思うの。不思議でしょ?」


「……不思議ですね」


 夏の風が、二人の間を吹き抜ける。


「さて、行きましょうか。長く外にいると、日に焼けてしまいますわ」

「……はい」


 今日、自分がクラリッサの信頼を得ていることを確信した。

 任務は順調だ。

 ――順調な、はずだ。


 ==========


 庭で話をしてから、数日が経った夜のこと。


「今夜は私の部屋に泊まりなさい」

「はい?」


 クラリッサがリゼットに命じた。

 指導の時ならともかく、それ以外でクラリッサがリゼットになにかを命令するということはほとんどない。

 それはリゼットが先回りして動くからでもあるが、クラリッサはあまりリゼットを顎で使わない。

 むしろ自分が世話をしようとすることもある。


「なにか、あったのですか?」

「今は夏ですわよね?」

「はい」

「暑気払いのために、さきほど寮内の催しで、怪談話がありましたよね?」

「はい」

「あなたが怖いのではないかと思いまして、姉として一緒に寝てあげようと思いましたの」

「いえ、別に怖くは……」

「怖いのよね!」

「……はい」

「そうでしょう?では、決まりですわ」


 早く行きましょうと言わんばかりに、リゼットの手を掴むと、自らの部屋へと連れて行った。


「ささ、座って」


 席を勧められ、座るとクラリッサがお茶を淹れ始めた。


「お姉様、私がやります」

「いいえ、今日は私があなたを呼んだのよ。だから特別に今日は私がお茶を淹れてあげるわ」

「ですが……」

「これでも私、前のお姉様にお茶を褒められたのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。


 褒められたという言葉に嘘偽りはなく、慣れた手つきでお茶の用意をする。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 目の前にお茶の入ったティーカップが差し出された。


「いただきます」


 ゆっくりと手にとり、口をつける。


「……美味しいです」

「でしょう?」


 クラリッサは嬉しそうに微笑んだ。


「それ、安眠に良いお茶なのよ。今日はよく眠れると思いますわ」

「安眠……ですか?」

「ええ。怪談話なんて聞いた後ですもの。怖くて眠れないでしょう?」

「いえ、ですから私は別に……」

「遠慮しなくていいのよ。お姉様に任せなさい」


 そう言って、クラリッサは満足そうに頷いた。

 どうやら今夜は、本当に私を眠らせるつもりらしい。


「そろそろ、お風呂の準備ができるころですわ。入ってらっしゃい」

「お風呂ですか?」

「ええ、体の芯まで温まったほうが、よく眠れますわ」


 普段はシャワーで済ませている。

 湯船に浸かるなんてしたことがない。


「お姉様のお風呂……ですよね?恐れ多いです……」

「気にしなくてもいいのよ」

「部屋に戻ってシャワーを……」

「今夜はここに泊まるのでしょう?」


 当然のことのように言われ、リゼットは言葉に詰まった。


「着替えは私のものを貸してあげるわ。ほら、早く行ってらっしゃい」

「……はい」


 なんだか今日はやけに押しが強い気がした。


「……これで一人で待つ時間も短くなるわね」


 クラリッサは小さく呟いたが、リゼットは聞こえないふりをした。


 ----------


 風呂から上がり、用意された寝間着に着替えてクラリッサのところへと戻る。


「お姉様……少し大きいみたいです」


 袖も裾も余っていて、どうにも落ち着かない。


「そう?でも、妹に私の寝間着を着てもらうのも悪くないわね」

「……そういうものですか?」

「ええ。とても可愛いわよ」

「では私も入ってくるわね」

「はい」


 そう言って、クラリッサは浴室へと入っていった。


 チャンスだ。

 クラリッサの部屋で一人っきりになれる機会が訪れるとは思わなかった。

 彼女は比較的長風呂なのも以前の会話で調査済みだ。


 すぐさま行動に移す。

 人が物を隠す場所など大抵決まっている。


 机の引き出しの奥、書類や手紙を入れる鍵付きの箱、机の隠し引き出し、日記などをしまう場所、ベッド脇の小物入れなどを中心に見て回る。


 しかしそれらしい物は見つからない。

 そもそも、どんな形状をしているものかもわからない。


 今更だが、これは思った以上に難しい任務なのでは……。


 すると浴室から、湯船から上がる音が聞こえてきた。


 まずい、想定以上に早く風呂から上がってきた。

 急ぎ、物色していた場所を片付け、開けた鍵も閉める。

 着替え終わって出てくる前に、椅子に座って、お茶を飲むふりをしていた。


「思ったより早く出てこられましたね」

「え?ええ」

「もしかして私に気を遣われましたか?」

「え?ええ、そうね。妹を一人で待たせるのも可哀想だと思いまして。それよりそのお茶気に入ったのかしら?」


 偽装で用意していた先ほどのお茶が、リゼットの目の前にあったため、クラリッサがそちらに話題を逸らした。


「はい、よく眠れるとのことでしたので」

「そう。気に入ったのなら茶葉を分けてあげるわ」

「ありがとうございます」

「ではこちらにいらっしゃい。髪を乾かしてあげるわ」


 化粧台の前に呼ばれ、椅子に座ると、クラリッサが後ろから髪を乾かしてくれる。

 いつもリゼットがクラリッサの髪を梳いている化粧台だった。


「お姉様が私の世話をしてくれるのが、なんだか不思議です」

「ふふっ、今日だけ特別よ」


 魔術具から吹き出す温かな風が、髪を揺らす。

 任務のために近づいた相手に、こうして世話を焼かれる。

 なんとも奇妙な気分だった。


「リゼット」

「はい?」

「あなたの髪、綺麗ね」

「そうですか?」

「ええ。もっと大切にしてあげたほうがいいわ」


「……考えておきます」


 任務のため、ある程度身だしなみには気をつけてきてはいるが、必要以上の手入れはしていない。

 だけど、クラリッサにそう言われて、少し気にかけてみようという気持ちになった。


「終わったわ」

「ありがとうございます。次は私が」

「じゃあお願いするわね」


 リゼットはクラリッサと場所を代わり、丁寧に髪を乾かしていく。

 お湯で湿って真っ直ぐになっていた髪が、乾いていくうちに少しずつ変化していく。

 そしていつも見慣れた縦ロールが目の前に出来上がった。


「嘘……」

「どうしたの?」

「いえ、お姉様の髪型が……」

「これ?不思議でしょ?自然とこの形になってしまうの。おかげで他の髪型に変えられないから困ってしまうわ。色も形も、どこにいても一目でヴァレスティアの娘だと分かってしまうもの」


 毎朝、寝起きから綺麗に巻かれているのを見て、てっきり寝る前に自分で巻いているのだと思っていた。

 どうやら拘りではなく、くせ毛の結果らしい。

 その声色には諦観のようなものが感じられた。


「なら、少し髪型を変えてみませんか?」

「髪型を?」

「はい。お姉様の髪なら、こちらにまとめても似合うと思います」


 リゼットはクラリッサの髪を片側へ寄せ、手でひとつに束ねた。

 すると、いつも背中へ流れていた縦ロールが、片側の肩へと集まった。

 サイドテールと呼ばれる髪型。

 貴族令嬢はまずやらない髪型だ。


「……まあ」


 鏡を見たクラリッサが、目を丸くした。


「こんな髪型もできるのね」


 リゼットはリボンを取り出し、束ねた髪を結び、固定する。


「可愛らしいリボンね」

「はい、なにかあった時のために持ち歩いてます」


 紐状の道具というのはなにかと便利だ。

 リボンならロープと違って常に持ち歩いていても不自然じゃない。


「庶民の間では、こういった髪型をしている娘もいます。ご不快でしたらすぐに解きますが」

「いえ、このままでいいわ」


 その声色は先程までと違い、明るい空気を纏っていた。


「それと、このリボンは貰っていいかしら」

「はい、大丈夫です」


 安物のリボンだ。大した価値もない。


「これで私の大事な物が増えちゃったわ」

「大事な物……ですか?」

「そうよ。だって妹が私のために、私を変えてくれたリボンですもの」


 これまで楽しそうなクラリッサは何度か見てきた。

 だが、ここまで嬉しそうなクラリッサを見るのは初めてだった。


「宝物がもう一つ増えるだなんて。ふふっ」

「……もう一つ?」

「ええ」


 そう言って、クラリッサは右手の薬指にはめた指輪へ目を向けた。


「これも、私の大切な宝物よ」

「その指輪……ですか?」

「ええ。ヴァレスティア家に代々伝わる指輪なの。母から娘へ、受け継がれてきたものよ」


 その言葉に、確信を得る。


 この指輪だったのか。


 リゼットは指輪を見つめた。

 ずっと探していたものが、今まで何度も目にしていた場所にあった。


「さあ、もう寝ましょう」

「え、はい」


 クラリッサが自分のベッドへと移動し、腰掛ける。


「すみません。布団の用意を忘れていました。持ってきます」

「なにを言っているの?」

「いえ、ですから、私の布団を……」

「一緒に寝るのよ。いらっしゃい」

「でも……」

「いらっしゃい」

「……はい」


 圧に負けた。


 おずおずとベッドに腰掛けると、布団に入るように促される。

 従うと、クラリッサも同じように横になった。

 狭いかと思ったが、そこは公爵令嬢の寝台。

 二人が横になっても十分なスペースがあった。

 だが問題があった。


「あの……」

「なにかしら?」

「近くないですか?」


 肩が触れてしまうほどの距離に、クラリッサの顔があった。


「これだけ広いのですから……」

「嫌?」

「そんなことは」

「なら、いいでしょ?」

「はい……」


 ただ、ここまで誰かに近づかれたことはない。

 まるで自分の領域を侵されているようで落ち着かない。

 でも不思議とそれは嫌ではなかった。


「もしかしてお姉様」

「なにかしら?」

「怖」

「あなたが怖い思いをしないようにと思いまして」


 そう言うと、クラリッサは右の手のひらを顔の前に差し出してきた。


「手を出しなさい」

「え?はい」


 クラリッサと同じように左手をそっと差し出した。

 するとクラリッサは指と指の隙間に、その細くて綺麗な指を入れると、ゆっくりと握った。


「お姉様?」

「手を握っていてあげるわ」

「……」

「これなら怖くないでしょ」

「……はい」


 元々怖くはない。

 だけど、この温もりが嬉しくて、振りほどく気になれなかった。


「さあ寝ましょう」

「はい」


 二人は手を握りあったまま、瞼を閉じた。


 そしてどれくらいたったのだろうか、クラリッサから静かな寝息が聞こえてくる。


「お姉様?」


 反応はない。完全に寝入っている。


 自らの左手を凝視する。

 否、左手にしっかりと握られたクラリッサの右手。

 その薬指に嵌められた指輪を凝視していた。


 これを今すぐ奪い、組織に送れば私の任務は完了する。

 そうすればこの学院にいる理由もない。

 クラリッサとの姉妹ごっこも終わりを迎え、次の任務のため他の場所に派遣されるだろう。


 簡単なことだ。

 眠っている相手から指輪を外すだけなのだから。

 左手を離し、指輪を抜き取り、この部屋を出て学院を抜け出す。

 赤子の手を捻るぐらい簡単な任務だ。


 そう思い、密着した左手をゆっくり離そうとする。


「……ん、リゼット……」


 起きたか!?


 心臓が飛び跳ねる思いをしたが、後に言葉は続かない。

 ただの寝言だったようだ。


 そして少し冷静になる。


 果たしてこれが本当に、目的の物なのだろうか。

 あくまでクラリッサが話していた内容と、他に見つからないという情報から出た私の勘に過ぎない。

 ほぼ間違いないとは思うが、確定ではない。

 もしこれを奪い、逃げたとして、違っていたら任務は失敗だ。


 そして、目の前の少女には、信頼していた妹に大事な指輪を盗まれたという事実だけが残る。


 おそらく二度と他人を信用しなくなるだろう。


 それは今回の任務の失敗だけではなく、今後ヴァレスティア家に関わる任務がすべて困難になることを意味している。

 ならば裏切ったと思わせなければいい。


 リゼットは目の前の指輪をゆっくりと引き抜き、細部まで確認した。

 石の留め方、内側に刻まれた文様、わずかな傷の位置まで。

 そして、再び元の指へと戻した。


 これでも記憶力はいい。

 あとで図面に起こして、組織に同じ物を作らせよう。

 それをすり替えてしまえば、おそらく気づかれない。


 もし違っていても、あとで組織に返してもらい、元に戻しておけばいい。

 この姉妹ごっこはまだ続いてしまうが、今後のことを考えれば仕方のないことだ。


 そう考えることで、リゼットの胸の中にあったモヤが少しだけ晴れた気がした。


 ----------


 夏が終わり、秋の風にわずかな肌寒さを覚えた頃、組織からリゼットへ連絡があった。

 学院の外で依頼していた物を受け取り、自室に戻ってから包みを開く。


「さすが……よく出来ている」


 それは以前、リゼットが記憶して図面に起こした、クラリッサの指輪とそっくりの物だった。

 宝石や形状、意匠だけではなく、表面に刻まれたわずかな傷までもが再現されている。


 これなら、見比べても区別はつかないだろう。

 あとは、すり替えるだけだ。


 手のひらの上で、指輪が小さく光る。

 任務は、あと一歩で終わる。


 それなのに、なぜかその指輪がひどく重く感じた。


 ----------


 あの夜から、リゼットは時折クラリッサの部屋に泊まるようになっていた。


 怪談話の季節はとうに過ぎている。

 それでもクラリッサは、何かと理由をつけてはリゼットを部屋へ呼んだ。


「今夜は冷えるから、一緒に寝ましょう」


 その夜も、そんな理由だった。


 湯上がりの髪を乾かし合い、同じ寝台に横になる。

 差し出された右手に左手を重ねると、クラリッサはすぐに指を絡めてきた。


「おやすみなさい、リゼット」

「おやすみなさい、お姉様」


 やがて、隣から静かな寝息が聞こえてくる。


 リゼットは、ゆっくりと目を開けた。


 絡められた指を、一本ずつ、起こさないように解いていく。

 薬指の指輪を抜き取り、寝間着の袖に忍ばせていた複製を、同じ指へと滑らせる。


 音もなく、一呼吸の間に終わった。


 何度も繰り返してきた仕事だ。手が震えることもない。

 なのに、もう一度クラリッサの手を握り直したとき、その温もりから逃げ出したくなった。


 本物の指輪は、胸元に隠した。

 肌に触れる金属が、やけに冷たく、胸を刺す。


 明後日の夜、学院の外で組織の人間に引き渡す。

 それで、すべてが終わる。


 ----------


 翌朝。


 いつものように、化粧台の前に座るクラリッサの髪を梳く。

 背中に流さず、片側へまとめ、あのリボンで結ぶ。

 登校前に結い直すまでの、わずかな時間だけ。

 あの夜から、クラリッサが時々ねだるようになった髪型だった。


「ふふっ、やっぱりこの髪型、好きだわ」


 鏡の中のクラリッサが、嬉しそうに微笑む。

 リゼットも、鏡越しに笑みを返した。


 いつもと同じ朝だ。

 何も変わらない。変わってはいけない。


 クラリッサが、ふと右手に目を落とした。


 親指で、薬指の指輪をなぞる。

 一度、二度。


 その指が、止まった。


「……リゼット」

「はい」

「この指輪……私のものではないわ」


 髪を梳く手が、止まりそうになった。

 止めなかったのは、長年の訓練の賜物だ。


「……どういうことでしょうか?」

「わからないの。形も、石も、この小さな傷も、全部同じ。でも、違うのよ」


 クラリッサは指輪を外し、手のひらに乗せて見つめた。


「母から受け継いでから、毎日つけてきたの。言ってしまえば……そう、身体の一部が急に無くなって、別の物になってしまったような」


 ――同じ形を正確に再現できるほうが、よほど価値があるはずだ。


 刺繍の時間に、自分がそう思ったことを思い出す。

 正確すぎる。

 あのとき、クラリッサはそう言っていた。


「誰かが、すり替えたんだわ」


 クラリッサの声が、わずかに震えていた。


「いつ……?昨日の夜は、確かに……」


 言い訳はいくらでも用意できる。


 寮には多くの人間が出入りしている。

 侍女の誰かかもしれない。嫉妬に駆られた取り巻きの誰かかもしれない。

 そう言って、一緒に探すふりをすればいい。

 そうすれば、クラリッサは疑いもしないだろう。


 だって、この人は――。


「リゼット」


 振り返ったクラリッサが、リゼットの手を取った。


「お願い。一緒に探してくれる?……あなたにしか頼めないの」


 その瞳には、一片の疑いもなかった。


 口を開く。

 用意した嘘は、喉の奥までせり上がってきていた。


 だけど――。


「……探す必要は、ありません」


 出てきたのは、別の言葉だった。


「本物は、私が持っています」


 ----------


 すべてを話した。


 自分が、とある組織の人間であること。

 リゼット・クロフォードという名も、侯爵家の庶子という身の上も、組織が用意した偽りであること。

 ヴァレスティア家に代々伝わる『ある物』を奪うために、この学院へ潜入したこと。

 そして、あの夏の夜に指輪を確かめ、昨夜すり替えたこと。


 クラリッサは、一度も口を挟まなかった。


 話し終えると、部屋に沈黙が落ちた。


 リゼットは胸元から本物の指輪を取り出し、化粧台の上に置いた。


「……お返しします」


 罵られるだろう。

 人を呼ばれるかもしれない。

 それでいい。それだけのことをした。


「この指輪を、あなたの組織は何に使うの?」


 返ってきたのは、責める言葉ではなかった。


「わかりません。私は、奪えとしか命じられていません」

「そう」


 クラリッサは、化粧台の上の指輪を見つめたまま、静かに問う。


「では、この指輪を持ち帰ったら、あなたはどうなるの?」

「任務は完了です。私は学院を去り、次の任務に就きます」

「……リゼット・クロフォードは?」

「最初から、いなかったことになります」


 クラリッサの肩が、小さく揺れた。


「持ち帰らなかったら?」

「任務は失敗です。私は組織に戻り……その先は、わかりません」


 どちらにしても、ここにはいられない。

 それだけは、確かだった。


 クラリッサは長い間、黙っていた。


 やがて、化粧台の上の指輪を手に取る。

 本物の指輪を。


 そしてそれを、リゼットの手のひらに乗せ、その手を両手で包み込んだ。


「お姉様……?」


 クラリッサは答えない。

 包み込んだ手に、ほんの少しだけ力がこもる。


 やがて、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、取り巻きを黙らせたときと同じ、公爵令嬢としての強い光が宿っていた。


「貴方の上司に、会わせて頂戴」


 ----------


 秋の陽射しが、木々の間から柔らかく差し込んでいる。

 聞こえてくるのは、葉擦れの音と、ティーカップがソーサーに触れる小さな音だけ。


 いつもと変わらない、静かな午後だった。

 ただ一つ、テーブルにもう一客、客人用のカップが用意されていることを除けば。


「……来ました」


 リゼットが小さく告げる。

 クラリッサがカップを置くよりも早く、木陰から一人の男が姿を現した。


 作業着に、つばの広い帽子。手には剪定鋏。

 どこから見ても、学院に出入りする庭師の一人だった。


 だが、足音がしない。

 落ち葉の積もった小道を歩いているというのに、枝一本踏み鳴らさない。


 男は、テーブルから数歩離れた場所で足を止めた。

 帽子のつばの下から、感情の読めない目がリゼットを射抜く。


「報告は受けている」


 低い声だった。


「身元が割れた工作員が、ターゲットと茶を飲んでいるとはな」

「……返す言葉もありません」


 リゼットは頭を下げた。

 言い訳をするつもりはない。この人の前で、言い訳が意味を持ったことは一度もなかった。


「あら」


 カップを置く、小さな音。


「私の妹を責めるのは、後にしていただけますかしら」


 クラリッサは、男に視線すら向けていなかった。

 優雅な所作で、客人用のカップに紅茶を注いでいく。


「お呼び立てしたのは、私ですもの」


 湯気の立つカップを、空いた席の前へと滑らせる。


「どうぞ、お掛けになって。お茶が冷めてしまいますわ」


 男は、しばらく動かなかった。

 帽子の下で何を考えているのか、リゼットにすら読み取れない。


 やがて、剪定鋏をテーブルの脇に立てかけ、椅子を引いた。


「……公爵令嬢手ずから、茶を淹れていただけるとはな」

「ええ。これでも私、お茶を褒められたことがありますのよ」


 クラリッサが、初めて男を見た。

 微笑んでいる。

 だがその瞳は、少しも笑っていなかった。


「さて。お話を始めましょうか」

「用件はなんだ」

「せっかちな殿方は嫌われますわよ。まずはお茶を飲んでくださらないかしら」


 男は目の前に差し出されたティーカップに視線を落としたまま、動かない。

 差し出された茶を飲めば、この場の主が誰かを認めることになる。


「あら、毒などは入っておりませんことよ」

「私に毒は効かない」

「では飲んでくださらないかしら。それとも怖いのかしら?」


 見え透いた挑発だった。

 だが、ここで拒めば、それこそ怖れていると認めることになる。


「では頂こうか」


 カップを手に取り、優雅な仕草で一口だけ飲んだ。

 庭師の格好とは似ても似つかぬ美しい所作だった。

 この人がこれまでどれほどの場に潜り込んできたのか、リゼットはその一端を肌で感じた。


 そこで少しだけ、男の表情に変化があった。


「美味いな」

「そうでしょう」

「さすが公爵令嬢……と言ったところか」

「ええ、実は先ほど、一つ嘘を吐きましたの」

「やはり毒でも?」

「いえ、そのお茶を淹れたのは私ではなく、妹のリゼットですの」


 『姉妹の契』を結んでから、クラリッサの好みに合わせて、クラリッサのためだけに淹れ続けてきたお茶だった。


「では、一息つけたところで、お話をしましょうか」


 いよいよ本題に入るとわかり、空気が変わる。


 クラリッサが目配せをすると、リゼットは懐から本物の指輪を取り出し、テーブルの上に置いた。


「あなた方が欲しているのは、この指輪でよろしいかしら?」

「相違ない」

「なぜ?」

「答える義理はない」

「あら。私の家の物ですのに?」

「ある伯爵家から、古い手記が見つかった」

「それが?」

「……その手記に、この指輪のことが記されていた。それ以上は言えん」

「嘘……ですわね」


 男の手が、カップへ伸びかけたところで止まった。

 表情は変わらない。だが、張り詰めていた空気が、さらに一段冷えたのをリゼットは感じ取った。


 この人が相手に嘘を見抜かれるところなど、見たことがない。


「なぜ、そう思う?」

「古い手記は本当なのかもしれません。ですが指輪は嘘ですわ」


 クラリッサは、テーブルの上の指輪へと視線を落とし、白い指先でそっと縁をなぞった。


 リゼットは息を呑んだ。

 自分が打ち明けたのは、ヴァレスティア家に伝わる『ある物』を奪えと命じられたこと。それが何かも知らされないまま、部屋を探ったこと。

 たったそれだけの話から、この人はそこまで読み取ったのか。


「それが本当なら、指輪だと分かった時点で、代々ヴァレスティア家の女が身につけてきた物だと突き止められたはず。複製を用意してすり替え、逃げてしまえば任務は終わり。妹を何ヶ月も潜り込ませる必要などありませんわ。違いまして?」

「ふぅ……」


 観念したかのように、男はため息を吐くと、言葉を続けた。


「そこにはこう記されていた。『我が想いは、あの方に託した証の中に。いつか成就する日まで、真実は眠る。この真実が世に出れば、この国は割れよう』と」

「まぁ」

「……心当たりは?」

「ありませんわ」


 クラリッサは軽く首を横に振る。そこに嘘偽りは一切なかった。


「国を割るほどの真実を手に入れて、あなた方はどうなさるおつもり?」

「なぜ知りたがる」

「理由と条件次第では、この指輪を渡してもいいと思っていますの」

「お姉様!」


 思わず声が出ていた。

 身体の一部のようだと、あの朝クラリッサは言っていたのに。


「ありがとう、リゼット。でも大丈夫よ」


 クラリッサは、自分を案じる妹を愛おしそうに見つめた。


「それで、教えてもらえるのかしら?」

「……我々の組織は、国の安定を目的としている諜報機関だ」

「それで?」

「昔とはいえ、伯爵家の人間が、のちにヴァレスティア家へ嫁いだ侯爵令嬢に何かを託した。そしてそれが露見すれば国が割れるとある。もしそうなら、それは闇に葬らねばならない」


 その話を聞き、クラリッサはリゼットへ顔を向けると、リゼットは小さく頷いた。

 これまでの任務も、すべて国のためのものだった、と。


「わかりましたわ。では条件を」

「言ってみろ」

「リゼットの自由を」

「お姉様!?」


 それでは釣り合わないではないか。

 自分の身と、代々受け継がれてきた家宝の指輪とでは、比べるまでもない。


「自由とは?」

「組織を抜けることを許可すること、そして今後干渉しないこと」

「だがその女には、名も身分もないぞ」

「あるではありませんか。リゼット・クロフォードという名前が」

「それは我々組織が与えた名前と身分だ」

「ではそれも条件に加えましょうか」


 クラリッサは平然と条件を追加する。


「調子に乗るな。いまここで力ずくで奪い取ってもこちらは構わないのだぞ」


 目の前の男から殺気が滲み出る。

 リゼットは条件反射で身構えた。

 周辺にも、組織の人間が伏せている気配がある。

 かかってこられれば、自分はただでは済まないだろう。


 だが、クラリッサだけは傷一つ付けさせるつもりはなかった。


「あら?公爵家の娘が、学院の中で傷を負う。それこそ国が割れかねない醜聞ではなくて?」


 クラリッサのその言葉を聞き、男は殺気を霧散させた。

 どうやらただの脅しだったようだ。


「……指輪が手に入るなら、工作員一人など安いものだ。その条件、飲もう」

「え!?」

「あら?よろしくて?」

「喜べ、ここまで私をやり込めたのは貴様が初めてだ」

「光栄ですわ」


 クラリッサは指輪を絹のハンカチで包み、男の前に差し出した。


「あなた方に譲るとはいえ、それでも代々受け継がれてきた家宝です。丁重に扱ってくださるかしら」

「善処する」


 男は指輪の入った包みを受け取ると、立ち上がり、すぐにその場を立ち去ろうとした。

 しかし、一度足を止め、リゼットに顔を向ける。


「これよりお前はリゼット・クロフォードだ。我々とは一切関係はない」

「……はい」

「まあ、幸せにな」


 男の予想外の言葉に、リゼットは目を見開いた。

 上司だったこの男から、気遣いの言葉をかけられたのは初めてだった。


「立ち去る前に、よろしいでしょうか?」

「まだなにかあるのか?」

「あなたは先程、『工作員一人など安いもの』と仰いましたわね?」

「ああ」

「それが、あなたの組織の人員の価値なのでしょう。それに口を出すつもりはありませんわ」

「ならどうした」


 クラリッサは答える代わりに、男が口をつけたティーカップへ視線を落とした。

 一口分だけ減った紅茶が、すっかり冷めて残っている。


「紅茶、美味しかったでしょう?」

「……そこは認めよう」

「『誰かのために淹れると、お茶って美味しくなる』という言葉はご存知かしら?」

「昔、ある国の王女様が言ったとされる言葉だな」

「あのお茶は、この子が私のためだけに淹れ続けてきたもの。……私にとっては、指輪より価値のある妹ですわ」


 男は、しばらくクラリッサを見つめていた。

 やがて帽子のつばに手をかけ、わずかに目深に被り直す。


「……覚えておこう」


 それだけ言うと、男は背を向けた。

 来たときと同じように、落ち葉を踏む音ひとつ立てずに。

 その背中は木々の間に溶けるように消え、一度も振り返ることはなかった。


 庭には、葉擦れの音だけが戻ってきた。


 リゼットは、その場から動けなかった。


 自分の身と、代々受け継がれてきた家宝の指輪。

 比べるまでもないと思っていた。

 その答えを、この人はいとも簡単にひっくり返してしまった。


「リゼット」


 クラリッサが、いつものようにリゼットを見上げて微笑む。


「お茶、淹れ直してくれるかしら。すっかり冷めてしまったわ」

「……はい、お姉様」


 答えた声は、自分でも驚くほど震えていた。


 ==========


「報告を聞こう」


 薄暗い執務室。

 机の向こうに座る人物は、書類から目も上げずにそう言った。


 男は、一冊の報告書を机の上に置いた。

 かつてリゼットに任務を命じ、あの庭で指輪を受け取った男だった。


「ヴァレスティア家の件です」

「ああ。国が割れるという、あれか」

「結論から申し上げます」


 男は、わずかに間を置いた。


「国は、割れません」


 ペンを走らせていた手が、止まった。


「……聞かせろ」

「指輪の台座にメッセージが仕込まれていました。しかもこれは宝石を外した状態で魔力を流すことで初めてわかる魔術具になっています」

「指輪型の魔術具とは……また古風な」

「昔の話ですので」

「そうだったな。それでなんと書いてあった」

「では読み上げます」


 リゼットの上司だった男は、軽く咳払いをした後、書かれていた内容を読み上げた。


「たとえ運命が二人を分かつとも、いつの日か、この想いが一つにならんことを」


 部屋に静寂が訪れた。


「それだけか?」

「これだけです」

「私の解釈が間違ってたら教えてくれ」

「はい」

「これは、恋文ではないのか?」

「おそらくは」


 このメッセージが発見された後、伯爵子息と侯爵令嬢の関係を調べ上げた。

 そこからわかったのは、かつて、ある侯爵令嬢と伯爵家の子息が、互いに想いを寄せ合っていたということだ。


 しかし令嬢は、王子との政略結婚を強いられる。

 二人の想いはより強くなり、伯爵子息が、この指輪に想いを綴ったのだろう。


 今は一緒になれなくても、いつの日か、あるいは自分たちの子孫が一緒になれる日がくることを祈って。


「たしかに、当時これが公にされれば国は割れたかもしれんなあ。王子の妻が伯爵家の息子と通じていた、などと疑われかねん」


 当時の政敵からすれば格好の攻撃材料になりえただろう。

 しかし、今の時代、貴族としての義務さえ果たせば、夫婦がそれぞれ別の相手とロマンスを楽しむことも珍しくない。


「だが、今これが表沙汰になれば、ヴァレスティア家には王子の血が流れていないのでは、と疑う者も出てくるだろう」

「そこは大丈夫です。二代目当主……女性ですが、こちらの髪の色は鮮やかな金髪だったと言われています。もちろん三代目も。ちなみに王子の妻は黒髪です」

「なるほど。それなら疑いようがないな」


 金髪は王家の血筋を引いた証である。

 妻の生家である侯爵家にも、相手の伯爵家にも、王家の血筋が混ざっていないことは確認済みだ。


「それと、これも調べてわかったことなのですが、初代公爵家当主……王子は、妻がもともと伯爵令息と恋仲だったことを知っていたようです」

「ほう」

「にもかかわらず政略結婚で自分と一緒にならざるを得なかったのを不憫に思い、一つだけなんでも言うことを聞くと言ったそうです」


 政略のために奪った花嫁への、せめてもの償いだったのだろうか。

 机の向こうの人物が、わずかに身を乗り出した。


「もしかして、伯爵令息との子を?」

「いえ、さすがにそれはまずいと思ったのかそこまで要求していません」

「では何だ?」

「『代々女を当主にすべし』という家訓を残させたそうです。これも指輪を引き継ぎつつ、いつか伯爵家の血を継ぐ者を婿に迎えるためでしょう」


 たとえ、自分が叶えられなくとも、いつの日か子孫が、愛した人の子孫と添い遂げて欲しい。


「女の執念ってのは怖いなあ」

「ええ、よく存じております」


 上司だった男は、あの日の公爵令嬢との会話を思い出していた。


 ==========


 冬の朝は、寮の廊下まで冷え込んでいた。


 リゼットはいつものようにクラリッサの部屋の扉を叩き、中へ入る。

 寝台の上では、この部屋の主が、まだ布団にくるまったまま丸くなっていた。


「お姉様、朝です」

「……あと少しだけ」

「遅刻しますよ」


 渋々と起き上がったクラリッサを化粧台の前に座らせ、髪を梳く。

 今日は背中に流さず、片側へまとめ、あのリボンで結んだ。


 鏡越しに、化粧台の上の小箱が目に入る。


 昨日、差出人の名もない小包が、クラリッサ宛てに届いた。

 中には、見覚えのある絹のハンカチに包まれた指輪と、一枚の紙切れ。

 紙には、たった一言だけ。


『善処した』


 クラリッサはその場で指輪をはめると、目を閉じて、しばらく黙っていた。

 そして小さく「おかえりなさい」と呟いたのを、リゼットは聞こえないふりをした。


 あの男に、こんな律儀なところがあったとは知らなかった。


「リゼット」

「はい」

「手を出して」


 言われるまま差し出した左手に、クラリッサは何かを乗せた。


 小さな指輪だった。

 クラリッサの指にはまっているものと、形も、石も、傷の位置まで、何もかもが同じ。


「これは……」

「あなたの記憶から生まれた指輪よ」


 あの朝、クラリッサが見抜いた偽物。

 ずっと手元に置いていたらしい。


「形は同じでも、同じものは二つとないの。これは、あなたにしか作れなかった指輪」


 クラリッサは指輪をつまむと、リゼットの左手の薬指へと滑らせた。

 少しだけ、緩い。


「私の指に合わせたものだから、少し大きいわね」

「……お姉様の寝間着と同じですね」

「ふふっ、そうね」


 クラリッサは、指輪をはめたリゼットの左手に、自分の右手を重ねた。

 あの夜と同じように、指と指を絡める。


 二つの指輪が、並んだ。


「ねえ、リゼット」

「はい」

「あなたの本当の名前、聞いてもいいかしら」


 本当の名前は、確かにある。

 だけど、それを名乗る必要は、もうなかった。


「リゼットです」


 絡めた指に、少しだけ力を込める。


「お姉様が守ってくれた、私の名前ですから」


 クラリッサは一瞬目を丸くして、それから、心の底から嬉しそうに笑った。


「そう。なら、これからもよろしくね。リゼット」

「はい、お姉様」


 冬の朝日が差し込む化粧台の前で、二つの指輪が小さく光っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
とても面白かったです 姉妹の契りは美しくて、指輪の秘密も納得感があって完成度の高い短編だと思いました リゼットはクラリッサの側近として生涯仕えるのでしょうね…… 良いものを読ませていただきました、あり…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。