第壱話 上を下に
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昨夜はほとんど眠ることが出来なかった琳瑶だが、朝から眠いとなど言っていられなかった。
用意されていた風呂はなんと范皇后の浴場で、なるべく湯を汚さないように気を張り、しかも皇后の入浴にあわせて湯を張り直すと言われて急がなければならなかった。
少なくとも琳瑶はそう思っていたし、そう思わせるようなことを范皇后の侍女も言っていた。
なのにずいぶんと時間を掛けて入念に琳瑶を磨き、湯上がりも丁寧に髪を梳くなど身支度にも時間を掛けた。
そして朝食の席で聞かされた今日の予定に、胸を躍らせるとともに緊張に身が引き締まる。
「実は本日、薔薇様が宮城にいらっしゃいます」
琳瑶の世話をしてくれる侍女の中でも、年長の……いや、年長に見えるだけかもしれない侍女が今日の予定を切り出してくる。
いよいよ待ちに待った薔薇と会える!!
そんな期待に胸を膨らませて耳を澄ませる琳瑶に、年長に見える侍女は勿体ぶることなく話し出したのだが、意外な切り出しで始まったのである。
てっきり琳瑶が後宮を出て黎家の屋敷を訪れると思っていたのだが、年長に見える侍女は薔薇の方からやってくるというのである。
それはつまり、薔薇とは会えるが琳瑶は後宮から出られないのではないか?
そんな不安を抱いた琳瑶は食べる手を止めて尋ねる。
「お母様がっ?!」
「はい」
「でも……どうしてお母様が?」
「もちろん琳瑶様をお迎えに」
「え?」
安堵はするけれど、疑問は残る。
そんな琳瑶に、年長に見える侍女は話を続ける。
「これからわたくしがお話しいたしますことをよくお聞き下さいね」
今日、薔薇は范皇后のお茶に呼ばれているため、宮城にやってくるという。
もちろんこの予定は昨日今日に決まったわけではない。
以前から決まっていた……ということになっている。
実際に薔薇が范皇后のお茶に呼ばれることは以前から決まっていたことである。
だが茶会が催される日は未定だった。
今日がその日だと決まったのは昨夜、琳瑶が菓子が出た合図を送ったあの時である。
当然ながら、出戻りとはいえ薔薇も黎家の娘。
皇后のお茶に招かれてもおかしくはない立場であり、その支度は即日出来るものではない。
後宮内で開かれる側室同士の茶会と同じように、その日、皇后が着る衣装を事前に調べ、色柄が被らないように配慮しなければならない。
そして衣装に合わせて帯や髪型を決め、髪飾りや簪、それに宝飾類を選ぶ。
当日は朝から着付けや化粧に忙しいことなどを考えると、前日の夜に決まって翌日に茶会が開かれる……というのはかなり難しい。
だからこういったことは何日も前から話が決まっているのが普通である。
今回は、茶会の招待自体は以前から決まっていたが、催される日は未定だった。
そのため薔薇はこの作戦が決まってからは毎朝いつもより早く起き、王宮からの連絡の有無を確認することから一日を始めるようになった。
そうしていつ開かれるかわからない茶会の日を、毎日のように準備して待ち続けたのである。
ようやく昨夜、皇太子誠豊と蘇妃が逢瀬をするためのお膳立てとして、老侍女は琳瑶に眠り薬入りの菓子を出した。
これにより皇后の茶会が催されることが決まったのである。
だから今日、薔薇は宮城にやってくる。
だがここで問題が一つ。
昨夜の騒動で、後宮はもちろん、王宮が上を下への騒ぎとなっており、とても呑気にお茶会など開ける状況ではない。
しかも今回の騒ぎはこれからが本番である。
皇帝皇后が臨席する前で、皇太子誠豊や蘇妃の処遇が詮議されるのである。
もちろん丹貴妃や誠豊と同母の姉妹たち、それに蘇妃の実家にまで累が及び、詮議はさらに冷宮の存在まで追及され、あの老宦官や老侍女はもちろん宮官長にまで波及することが決まっている。
当然のことながら、あまりに広い影響範囲から皇后も忙殺されるため茶会どころではなくなるのだが、翠琅の背後にいたのが皇后なら当然この事態は予測されていたはずなのに、あえてこの日に茶会を開くことにした。
むしろあえてこの日に茶会を予定したのである。
そもそもこのお茶会は薔薇を王宮に呼び寄せるための手段であり、琳瑶を引き渡すための方法である。
だから茶会自体は開かれなくてもいいのだが、あらかじめ開かれないとわかっていては意味がない。
それでは薔薇が王宮に来る理由がなくなるから。
そこで騒ぎのため報せをやれなかった……ということにしたのである。
実は薔薇もまた、昨夜の内にこの騒ぎを知っていた。
彼女には三人の兄がおり、泰昌子と離縁して出戻ってからは長兄の屋敷の離れで暮らしている。
その黎家当主である長兄と、別に屋敷を構えて家族と住んでいる次兄は、詮議に出席する立場であるため、昨夜の内に王宮から報せが来ていたからである。
だから今日、茶会が開かれることはないと薔薇は知っていた。
それでも彼女は王宮に行かなければならない。
絶対に
あくまでも騒ぎを知らせる遣いは黎家当主東雲宛であり、翌日に行なわれる詮議に黎東雲の出席を促すもの。
皇后からの遣いではない。
薔薇は皇后に招かれているため、茶会の取りやめを知らせる遣いが薔薇の許に来ない限り、薔薇のほうから勝手に宮城に行かないという選択は出来ないのである。
だから薔薇は絶対宮城に行かなければならないのである。
だがおそらく薔薇が王宮に来ても、衛士や官吏に足止めされて後宮には入れないだろう。
それどころかこれからしばらくのあいだは、誰も後宮に入ることはもちろん、後宮から出ることも出来なくなる。
その中で皇后の世話をする侍女だけは例外となる。
主人である皇后が詮議に出席するため、後宮の外にいるからである。
しかし薔薇も黎家の娘、どんなに慌ただしくとも蔑ろに出来る相手ではない。
後宮に入れることは出来なくても、皇后に取り次ぐよう言われれば無下には断れない。
しかも約束があったと言われればなおさらである。
だが皇后は皇帝とともに詮議に出席している。
そこで官吏が宦官か女官を通して皇后の侍女に茶会の予定があったかを確認し、侍女が慌てて皇后に茶会のことを伝えに行く。
そしてどこかに部屋に通してある薔薇に、皇后に変わってお付きの侍女が茶会の中止を知らせて詫びる……という筋書きである。
全て筋書きである。
だが筋書きどおりにいかないことも多々ある。
まず詮議の場に侍女は入れない。
控えの間に下がる休憩の時を見計らう必要があり、その時間まで待たなければならない。
もちろんそれは事前にわかっていたことだが、予想されていた以上に詮議が押した。
しかも用意してあったのとは違う部屋が皇后の休憩に使われ、案内した官吏も間違っていることに気づかず、侍女たちと一緒に皇后を探して右往左往する始末。
さらには行き違いがあり、取り次ぎを待つあいだ薔薇が通された部屋までが、皇后の侍女に伝えられた場所とは違っていたのである。
そのため皇后の侍女の振りをしていた琳瑶も、他の侍女たちと一緒に後宮の外を、あちらこちらと右往左往する羽目になったのである。
連絡ミスによる行き違い。
しかも酷くピリついた王宮内を、右に左に走り回る侍女の姿は人目を引く。
目立つわけにはいかない琳瑶は緊張のあまり、何度か蹴躓きそうになりながらも必死に侍女たちについて走る。
侍女たちも焦るあまり時折琳瑶のことを忘れていまい、お互いに冷汗を掻きながらの大捜索である。
そうしてようやく辿り着いた薔薇が待つ部屋は、詮議の間とはずいぶん遠く離れた場所にあり人気もまばらだが、部屋の外には薔薇の自由を制限するために監視の武官が置かれ、室内には薔薇が黎家から連れてきた護衛、それに侍女が控えるという物々しさであった。
まずは監視の武官に用件と身分を告げ、部屋で待つ侍女の取り次いでもらう。
そして侍女から薔薇に伺いがいって、返事をもらった侍女が迎えに出てくる……と思っていたが、あらかじめ薔薇とは打ち合わせてあったのかもしれない。
取り次ぎの武官と一緒に侍女が部屋から出てくる。
そして皇后の侍女に恭しく礼をして部屋に迎え入れる。
(お母様に会える。
やっと会える)
我慢に我慢を重ねること七年。
五つの時に両親の離縁によって引き離され、年に一回、黎家で開かれる花見の宴で遠目に見るのがやっとだった母。
側に行って話をしたかったけれど、抱きしめてもらいたかったけれど、いつもいつもきつく手を握って自分の側から離さない父がそれを許さなかった。
その母とようやく会えるのである。
しかもいつも邪魔をした父はいない。
緊張と期待に胸を躍らせながら、琳瑶も皇后の侍女たちと一緒に控えの部屋に招き入れられる。
本当は皇后の侍女たちも、薔薇の侍女たちも押しのけてすぐにでも部屋に飛び込みたかったけれど、油断は大敵である。
どこで誰が見ているともわからず、気づかれてはいけない。
ただの遣いにしては侍女の人数が多いことを武官たちも怪訝に思ったようだが、相手は皇后の侍女である。
しかも王宮中が上を下にの大騒ぎとなっており、皇后が侍女たちの安全を配慮した。
あるいは他にも用があって人数が多いのかもしれない。
問われれば言い訳はいくらでも出来るのだが、ここまできて下手に足止めをされたくなかったので、じっと堪えて皇后の侍女たちのあいだに身を隠す。
招き入れられた決して広くはない控えの間には、入り口近くに黎家の護衛が数人。
そして薔薇の侍女が数人いて、薔薇は一番奥で椅子にすわって待っていた。
皇后の侍女が全員部屋に入ると護衛が扉を閉め、その前に鍛え抜いた体で陣取る。
すると誰が合図をしたわけでもないのに、皇后の侍女が、薔薇の侍女が左右に割れる。
それまで背の低い琳瑶からは、皇后の侍女たちの肩越しにわずかに見えていただけの薔薇が一瞬で全容を現わす。
「お母様!」
「琳瑶」
なにかを思うより体が動くほうが早かった。
気づいた時には駆け出しており、薔薇も掛けていた椅子から立ち上がり、両腕を広げる。
そうして七年ぶりの母子の再会を果たしたのである。




