《第十三節》差し伸べられる手
どこからか、泣いている声がする。
心地の良い爽やかな風と、透き通るような空。
気がつけばリヴは、どこまでも広がる草原の上に一人寝転がっていた。
(あれ…ここ、どこだろう?)
起き上がってあたりを見回してみるも、リヴ以外には誰もいない。
蝶やバッタなどもおらず、他の生き物すらいないようだった。
何もないのかと落胆しかけたその時、遠くに大きな影が見えた。
(あれは…屋敷?)
目を凝らしてよく見てみると、霞んだ視界の向こうに大きな建物が立っていた。
王宮にある建物に負けないほど立派で、どこか見覚えがある。
無意識に、足はそちらに向いていた。
歩いても歩いても距離が縮まらないような気がしたが、やがて景色がふっと切り替わるように、リヴは屋敷の前に立っていた。
改めて屋敷を目の前にすると、それはジョーカー公爵家に酷似していた。
門の造りも、窓の並びも、幼い頃から見慣れたものと同じだった。
(どうして、こんな場所に…)
思わず胸がざわつく。
ここが現実でないことは分かりきっているのに、懐かしさが込み上げてくる。
その時だった。
「ぐすっ……」
目を覚ます前に聞こえた、誰かの泣き声が聞こえてきた。
とても小さく、押し殺すような泣き声。
しかし、どこかで聞いたことのある声だった。
(誰……いや、行かなきゃ)
考えるよりも先に、足が勝手に動き出していた。
広い屋敷の周りを壁伝いに進んでいく。
裏庭へ回り込むと、倉庫の影に小さな子どもが膝を抱えて座っていた。
フードを深くかぶり、肩を震わせるその姿に、リヴは思わず顔を曇らせる。
「あ、あの…大丈夫?」
声をかけると、その子どもはびくりと肩を震わせ、おそるおそる顔を上げた。
フードの下からのぞいた瞳は涙で濡れていて、その目を見た瞬間、リヴは言葉を失った。
「にい、さん…?」
泣いていた子どもは──間違いなく、ゼロだった。
月のように輝く金色の髪に、透き通った青色の目。
体は今よりも小さく、七歳くらいに見える。
「だ、誰…っ⁉︎」
ゼロはリヴを見るなり、怯えたように震え始めた。
(ど、どうしよう…。未来の弟だよ、なんて言っても信じてくれないだろうし…)
リヴは考えた挙句、新しく入った使用人を装うことにした。
「申し訳ございません、名乗り遅れました。今日からここで働かせていただくことになった、使用人のダイと申します」
幼いゼロに、リヴはしゃがみ込んで手を伸ばした。
「えっと、ゼロ殿下…ですよね?」
怖がらせないように優しく問いかけると、ゼロはまた瞳を潤ませながら頷いた。
「ごめんなさい…。人前では泣かないって決めてるのに…」
ゼロの声はひどく震えていた。
大きな雫がとめどなく頬を伝い、抱えた膝の上に次々と落ちていく。
そんなゼロの姿に、リヴは思わず目を見開いた。
幼いゼロの涙など、今まで一度も見たことがなかったからだ。
ゼロは〝人前では泣かない〟というこだわりを、昔から見事に貫いていた。
弟であるリヴに対しても、それは例外ではない。
ゼロが初めて人前で涙を見せたのは、リヴが六歳になってからだった。
だから、幼いゼロがこんな風に一人で泣いていたのかと思うと、リヴは胸が締め付けられる思いになった。
「…謝らないでください。泣きたい時は、泣いていいんですよ」
リヴはゼロを抱き寄せながら、どうしようもない悔しさを覚えていた。
ゼロが泣いていたことを、自分は何一つ知らなかった。
自分の前ではいつだって笑顔で、どうしようもないほど優しくて、誰よりも頼れる存在でいてくれた。
その背中があまりにも眩しくて、ゼロといるだけで勇気をもらえていた。
けれど今、腕の中にいるゼロは、自分よりも小さくてか弱くて、必死に涙を堪えながら震えている。
「……気づいてあげられなくて、ごめんね」
喉の奥から、絞り出すように言葉が漏れた。
「ダイさんは、リヴとそっくりだね」
ゼロは顔を上げて、穏やかに微笑んだ。
目尻に残る涙の粒が、陽の光にあたって宝石のように輝いている。
「え…?」
「僕の大切な弟だよ。よく抱きついてくるんだけど、リヴといるとすごく安心するんだ。ダイさんみたいにね」
「!」
その言葉は、リヴの胸を真っ直ぐに突き刺した。
視界が滲み、頬を熱いものが伝っていく。
雫が草原に落ちた瞬間、世界がかすかに煌めき、遠くの空が淡く色づいた。
とっくの昔に過ぎてしまった時間。
目の前にいる幼いゼロを助けることは、もうできない。
けれど、自分の存在が少しでも兄の支えになっていたのなら。
まだ、諦めなくてもいいのかもしれない。
「…ダイさん」
ふいに名前を呼ばれ、リヴは顔を上げた。
涙をぬぐった幼いゼロは、目尻を下げて微笑んでいた。
その笑顔はどこか大人びていて、不思議と今のゼロが重なって見える。
その瞬間、リヴは唐突に全てを思い出した。
(そうだ。俺はオスカルに…)
ここが夢の中だと分かった途端、真っ白な光が世界を包み込み始めた。
リヴはもう一度小さな体を抱きしめ、静かに囁く。
「…さようなら、小さな兄さん」
草原も屋敷も、次第に光に包まれていく。
幼いゼロの体も、もうわずかに消えかかっていた。
思わず寂しそうな顔をするリヴに、小さなゼロは最後にはっきりと告げる。
「ありがとう、リヴ」
ゼロの目は、まるで幼い頃のリヴを見るような、とても優しい目だった。
ゼロの体はみるみるうちに光に包まれ、リヴの意識も次第に遠くなっていく。
(そういえば、名前…)
気がついた時にはもう、リヴは現実へと引き戻されていた。
♢♢♢
「兄さん…」
リヴはかすれた声でそう呟きながら、重たいまぶたを開けた。
視界に飛び込んできたのは、苔の生えた岩の天井。
夢で見た草原とはあまりに違う光景に、どこか切なさを覚えた。
しかし、隣にオスカルがいたことを思い出し、おそるおそる顔を横に向ける。
(良かった、気づいてはいないみたい…)
オスカルはこちらに背を向けて、何やら真剣に作業をしていた。
ひとまず安心していると、ふいに頭の中から声が聞こえてきた。
『おはよう、リヴ』
「兄さん⁈ ……はっ!」
反射的に声を上げてしまい、慌てて口を押さえる。
おそるおそるオスカルの方を見ると、彼はこちらの声に気づいた様子もなく、黙々と作業を続けていた。
(ど、どうして…?)
困惑するリヴに、頭の中の声が楽しそうに笑った。
『ふふっ、リヴの声は聞こえないようにしているから大丈夫だよ』
「そうなんだ…」
声が聞こえていない理由は分かった。
けれど、頭の中に響く声は夢の中と同じで。
幼いゼロの姿がどうしても頭から離れず、リヴはしばらく言葉を失った。
黙り込む弟の様子に気づいたのか、ゼロは少し急ぐような調子で言う。
『あまり時間がないから、手短に言わせてね』
ゼロの言葉に、リヴはごくりと唾をのんで耳を澄ませた。
『今、サンとフィンがリヴの元へと向かってる。道は教えたから、もう少しで来てくれると思うよ。サンとフィンのことだから大丈夫だと思うけど、万が一のこともある。だからリヴは、隙があれば逃げられるようにしてて』
「…分かった」
リヴが短く答えると、ゼロはペンダント越しにふっと微笑んだ。
『僕はこれから少し休むけど…』
「……?」
『どうか、無事に帰ってきてね』
その声はどこまでも優しく、温かかった。
♢♢♢
「……っ! はぁ…はぁ…」
瘴気の制御をやめて意識を元に戻した途端、全身の力が一気に抜けてしまった。
「殿下!」
サイラスの叫びと同時に、強い腕が僕の体を支えてくれる。
お陰で顔から倒れるのは免れたが、体は鉛のように重くなっていた。
(思った以上に消耗してるな…)
視界は霞み、息を吸うのさえも苦しい。
「もう、無茶しすぎっすよ」
隣に跪いたルイが、困ったように笑う。
けれどその目は笑っていなくて、じっと僕の顔色を伺っていた。
「ルイ、水を持ってきてくれるか?」
「分かりました」
「殿下、体を起こせますか?」
サイラスが心配そうに問いかける。
けれど、首を横に振るのがやっとだった。
答えた瞬間、吐き気が込み上げてきて、僕は咄嗟に口元を押さえる。
指の隙間からにじむ赤……。
それを見た途端、サイラスの顔色が変わった。
「殿下⁈」
サイラスの声が震えている。
体を支える力がさらに強まった。
駆け戻ってきたルイが、水筒を手に膝をつく。
「…飲めますか?」
差し出された水筒を受け取ろうとしたが、指が震えて掴めない。
仕方なく首を横に振ると、ルイが蓋を開けてそのまま傾けてくれた。
冷たい水で、乾いた喉が一気に潤っていく。
しかし、再び喉の奥から込み上げてきたものを抑えきれず、僕は咄嗟に赤黒い液体を吐き出した。
もう、限界だ…。
視界が揺れ、冷や汗が頬を伝う。
それでも、少しでもリヴたちの力になれたのなら、やり残したことはない。
そう思うと、自然と指先から力が抜けていった。
「殿下⁈」
「ちょっ、しっかりしてください!」
ごめんね、二人とも。
僕は少々無理をしすぎたみたいだから、また今度ゆっくり話そう。
リヴたちが無事に帰ってきたら、僕の代わりに盛大に労ってあげてね。
みんなはものすごく、頑張ったから。
心の中でそう伝えた瞬間、視界はゆっくりと霞み、音も次第に遠ざかっていった。
(……静かだ)
けれどその静けさの向こう側で、誰かの声が響いているような気がする。
おそらくルイとサイラスの声だ。
けれど、僕にはもう、遠すぎてよく聞こえない。
〝大丈夫だよ〟と言いたいけれど、それも叶わない。
それでも、不思議と心は軽やかだった。
──みんなが無事なら、僕はそれでいい。
そう思いながら、僕は静かに意識を手放した。




