《第八節》悪夢
どこまで続いているかも分からない、暗闇に包まれた、何もない空間。
気がつけば、僕はそんな場所にいた。
つい先程まで夕食を食べていた記憶はあるけれど、部屋に戻ってから何をしたのかは覚えていない。
ここは一体、どこなのだろう。
少なくとも、王宮にこんな場所はない。
あったとしても、こんな暗い場所に迷い込むはずはない。
それにしても、気味の悪い空間だ。
早く出口を探さないと……
「ゼロ」
(⁈)
歩き出そうとした瞬間、背後から僕の名を呼ぶ声が聞こえた。
妙に聞き覚えのある、懐かしい声。
「そこに誰かいるのですか?」
真っ暗で何も見えないが、声のした方へ話しかけると、しばらくして再び同じ声が聞こえてきた。
「ゼロ。待っていたよ」
やはり僕は、この声を昔どこかで聞いたことがある。
よく思い出せないが、僕はこの声の主を知っている。
誰だったっけ…
頭の中をものすごい速さで回転させて記憶を辿っていると、ふいに暗闇の中から、ぼんやりと白い人影が見え始めた。
体を奇妙に揺らしながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
得体の知れない何かに、僕はどうしようもない恐怖を覚えたが、なぜかその場から逃げ出すことはできなかった。
奇妙な人影は、やがて僕の目の前まで来ると、手と思わしき部分で、僕の頬にそっと触れた。
(⁉︎)
僕はあまりの恐怖に、言葉を失った。
触られて、こんなに気色悪い感覚になるのは初めてだ。
できることなら、一刻も早くここから逃げ出したい。
しかし、そんな僕の思いとは裏腹に、その手は突然僕の体を引き寄せ、今度は顔と思わしき部分が間近に迫ってきた。
予想外の出来事に、僕は引き寄せられたまま力が抜けてしまった。
不本意だが、得体の知れない誰かに支えられる。
かろうじて、息をするので精一杯だった。
しかし、得体の知れない影は、一向にその手を離してくれない。
恐怖と不安が渦巻く中、頭上からまた同じ声が聞こえてきた。
「ゼロ。私が分かるか?」
思い出せそうで思い出せない、聞き覚えのある声。
少なくとも、ここ数年間は聞いていない。
けれど、妙に聞き慣れている。
「思い出せないのか? なら、これを見てくれ」
僕の気持ちを察したのか、奇妙な人影はそう命令すると、僕の顔を反対側に向けた。
いきなり動かされたため、首が悲鳴をあげそうになる。
されるがままに目を開けると、暗闇の向こうに何かが動いているのが見えた。
青色と赤色が混じったような、ごちゃごちゃした何か。
少しずつ、こちらへ近づいてきている。
目を凝らして見てみると、それは次第にはっきりと見え始め、最終的に僕の目の前に現れた。
それを見て、僕は思わず悲鳴を上げた。
目の前に現れたのは〝あの日〟の光景だった。
足元には、体の半分が消えてしまっている男女。
その後ろには、怯えた顔をした〝ミネルヴァ騎士団〟の団員たち。
彼らには特に外傷はないようだが、男女の方はすでに亡くなっており、消えたところから大量の血が流れ出ている。
血液の水たまりが、僕の足元まで広がってきた。
「あ…いや……あ…」
震えが止まらない。
頭が真っ白になって、何も考えられない。
こんなに最悪な気分になるのは、随分と久しぶりだ。
…まるで、あの頃のよう。
「ゼロ。私が誰か、思い出したか?」
おかげで、全部思い出した。
目の前の光景とすぐ近くの脅威によって、僕の頭は限界を迎えていたが、それでも思い出さずにはいられなかった。
横たわっている男性は、僕を支えているこの影と同一人物。
八年前、僕が〝殺〟してしまった、僕とリヴにとって大切な……
「父…上……」
「そうだ」
未だにはっきりとは見えない父上の影は、その名を呼ぶと、僕の体をいきなり地面に放り投げた。
ぐちゃっと言う音がして、僕は地面に叩きつけられる。
後ろを振り返ると、目の前には父上の死体が横たわっていた。
生気のない、陛下と同じ金色の瞳。
もうとっくに死んでいるというのに、なぜか見つめられているような気がして、僕は再び悲鳴を上げた。
どこを見るのも怖くて目を瞑っていると、いつの間にか背後に立っていた父上の影が、僕の髪を乱暴に掴んで引っ張ってきた。
耳元で、低く感情のない、父上の声が聞こえてくる。
「お前に私を〝父上〟と呼ぶ資格などない。思い上がるな」
父上の影はそれだけ言うと、最初に現れた時と同じように僕の頬に触れて、そのまますーっと消えていった。
謎の空間に、再び静寂が戻る。
あの日の光景も次第に見えなくなり、何も見えない暗闇が僕の周りを包みこんだ。
「ごめん…なさい……」
そう呟いた時、もう気力がなくなっていた僕は、その場に力なく倒れ、そのまま意識を失った。
♢♢♢
伸び伸びと響き渡る、小鳥たちの鳴き声。
机の上に置いていた懐中時計が、朝日に照らされてほんのりと煌めいている。
あまりにも美しい朝の様子に、僕は驚いて起き上がった。
「あっ、殿下、おはようございます。昨夜はよくお休みになられましたか?」
ふいに隣から声が聞こえて振り向くと、ティーポットを手に持つ従者のラグが立っていた。
僕は目をぱちぱちさせながら、彼に問いかける。
「おはよう、ラグ。どうしてここにいるの?」
確か今日は、珍しく公務のない日だったはずだ。そのため、彼がここへ来る必要はない。
僕の問いに、ラグは少し目尻を下げて答えた。
「本日よりご謹慎とのことで、監視役を仰せつかりました。よろしければ、お目覚めに紅茶はいかがですか?」
そうか。謹慎、か。
本当に、僕が犯人なのかな…。
謹慎は人生で〝二度目〟だけれど、こんなに落ち着かないのは初めてだ。
証拠が見つからなくても、せめて真実だけは明らかにしたい。
リヴたちの捜索で、何か一つでも判明するだろうか。
「殿下?」
「! …ごめん、なんでもない。朝早くからご苦労さま。紅茶、いただくよ」
布団から降りてソファに座り、ラグから紅茶が入ったカップを受け取ると、カップの中から華やかな香りが漂ってきた。
この香りは…ベルガモットかな。
僕はあまり紅茶には詳しくないのだが、フィンのおかげで、アールグレイの香りだけはなんとか覚えている。
一口飲んでみると、上品な味わいが口いっぱいに広がった。
「…美味しい。ありがとう、ラグ」
「喜んでいただけて何よりです」
紅茶を飲みながら、窓の外をぼんやりと眺める。
次第に昇っていく太陽が、眩しいほどに光り輝いていた。
今日はなんだかとても気持ちの良い日だ。
でも、平和すぎて落ち着かない。
触れたら消えてしまう泡のような、薄い膜の中に閉じ込められている気がする。
「ねえ、ラグ。リヴたちはもう任務に出かけたの?」
別に聞かなくても良い質問なのだが、聞かずにはいられなかった。
誰かと話していないと落ち着かなかったのだ。
「ええ。先程、アマネセールの町へ向かわれました」
「アマネセール…」
ということは、エスペクトロの解体か。
犯罪組織〝エスペクトロ〟。
アマネセールの町を拠点に活動しており、メンバーはおそらく三千四百名。
他の組織との連携が強く、どこまでが一つの組織なのかは分かっていない。
主に賭博や人身売買を行っているとされ、西の地域では最も危険視されている。
ざっとこんな感じだったかな…。
とても凶悪な組織だけど、まあリヴたちなら大丈夫だろう。
これでようやく、アマネセールにも平和が訪れるんだ。
国の脅威が一つ減ることに安堵しながら、僕はもう一つ気になっていたことを聞いた。
「そういえば、謹慎のことって公にはされていないの?」
「ええ。まだ殿下が犯人だという、明確な証拠がございませんから」
「そっか…」
そういえば最初の謹慎の時も、結局公にはされなかったな…。
あの時は、本当に僕が〝犯人〟だったというのに。
陛下は本当に、寛容なお方だ。
「いかがされましたか?」
「いや…なんでもない」
「? …そうですか」
今日はやけに明るい日だ。
こういう日は、決まって何か悪いことが起こる。
思い込みだと信じたいが、起こらなかった試しがない。
せめて〝リヴたちにだけは起こらないでほしい〟と願いながら、僕は残っていた紅茶を飲み干した。
(無事に、帰ってきますように…)
どこか寂しそうに窓の外を眺めるゼロの横で、ラグが小さな声で呟いた。
「今日は〝なんでもない〟が多いですね…」




