俺の完全勝利だ
目が覚めても鋭い痛みは消えない。
ナイフの刺された時の感覚がそのまま肌に張り付いているようだった。
全く――確証はないが、おそらく今日秋瀬神楽は高校に入学してくることだろう。
頼もしい気持ちと共に怖い気持ちがあった。
あったってもんじゃない――怖いが勝つ。
そして、昨日のことは何もなかったように彼やアリスに接しようと思っている。
これも確証がないが、俺は彼に完全勝利したと確信して言える。
彼が本気を出しきれていなかったのは確かだったが――本気を出させなかったのは紛れもなく俺だ。
当て逃げに成功した俺の完全なる勝利……。
俺のプライドが高笑いを浮かべていたのだ。
ただ彼に殴られることは確かだろう――まぁ、そうなったらまた逃げればいい話だ。
「まぁ――それは一度置いておいて」
肩にナイフが刺さっていたと気づいた時に行ったセルフ解説は、思った以上にひと段落できそうなものだった。
なので日常的に使ってみることにしたのだ。
現在時刻は6時2分――6時ごろに起きる習慣が体に身についているようで良かった。
俺はスマホのチャットアプリを開いた。
そしてみそねへメッセージを送る。
『今日は朝ごはんを食べるのか?』
こうしておかないとまた妹を悲しませることになる。
もうドアの前に気配を感じていた――次期にドアをバンッと開けて朝ごはんを食べようという意思を伝えにくるだろう。
意外とすぐ返信はきた。
『お金がなくなっちゃったからパスで!』
そっか……トンカツ弁当とか牛丼とか2人分買わせちゃってたもんな。
また今度お返しをしておこう。
「おはようお兄ちゃん!」
それを感知したのかはわからないが、快が部屋に飛び込んできた。
全く、なんて可愛い妹なんだ。
本当に可愛いにも程があるだろう。
「朝ごはん食〜べよ」
誘うように言いながら、俺をリビングへと引き摺る。
自らの望みを実現させるために一番手っ取り早い方法を知ったみたいだった。
――力ずくである。
リビングに連れてかれてしまったものはしょうがないので、俺は椅子に座る。
「今日は〜」
そうは言いながらも朝食を作ってもらうのは初めてである。
「卵かけご飯♪」
作ってもらってなんかなかった。
ご飯の盛られたお茶碗に卵がひとつ、そしてスプーンが食卓に置かれた。
「……せめて、醤油とか」
「自分で用意しなよ、私はお兄ちゃんのことが好きだけど、自堕落なお兄ちゃんは好きじゃないし」
「そうかよ……」
脳も大して目覚めてないので味の違いなんて微々たるものだろう――
俺はご飯の上に卵を乗せて、そのまま食べ始めた。
その時俺は、絵に描くように『前言撤回』を体現していたように思う。
想像を絶するほどに生卵は生卵だった。
「にしても快……」
会話をしてその苦痛を和らげようと俺は切り出す。
――何を話そうか。
「最近、彼氏とはどうなんだ?」
「それがねぇ」
快は机にばったりとへたり込んだ。
「別れちゃった」
「ご愁傷様」
彼女は俺の顔を伺うように見る。
「思ってないでしょ」
「思ってるよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘!」
「嘘ですすいません……」
事実、ご愁傷様なんて全く思っていなかった。
対立の原因が一方的なことなんてないのだ――快の方にも何か非があったはず。
「浮気されたんだよね」
今日で二度目の前言撤回。
人の心を弄ぶなんて最低な行いだろう。
「今日家に帰ったらさ……愚痴聞いてよね……」
「わかったよ、無事に帰って来れるかわからないけどな」
「てきとうな事言わないでよ――ファンタジー小説じゃあるまいし」
「意外とわからないかもだぜ?」
その十分後――どうにか食べ終わった俺は立ち上がった。
「もう行くの?」
彼女はそう聞いたが、俺は首を振る。
「俺の足は現在常軌を逸しているんだ。すぐに着くさ」
「……やっぱりファンタジー小説だったかもしれないね」
やかましいわ。
俺は部屋に戻り荷物をまとめて制服を取り出す。
「あっ――――」
制服をクローニングに出さなければいけないんだった。
予備を使うのもありなのだが、今日は一日ジャージで過ごしてみることにした。
俺は着替えて布団に体を戻した。
「俺は今――実に無駄な時間を過ごしている」
セルフ解説は己の愚かさを満足に映し出す。
――現実から逃げちゃダメだよなぁ。
秋瀬神楽に対面して、殴られてこよう。
そして逃げてこよう。
というか、アリスを迎えに行かなくちゃいけないのかもしれないしな。
俺は家を出ると、自転車を漕いで学校に向かった。
学校へ向かうのが憂鬱だと思うのは俺史上初めてのことだったろう。
――あくまでも高校生活の話だが。
俺はすぐに高校へ辿り着いた。
すると、
「マジかよ」
朝早く誰もいない校門前に、秋瀬神楽は立っていた。
何を考えているか読み取れないような真顔だった。
こうみると――結構顔立ちはいい感じだったりしたのだった。
俺は何事もなかったかのように、校門を抜けようとしてみる。
「広瀬理人」
案の定声をかけられた。
声に怒りがこもっているような様子はなかったが、油断はできない。
「昨日はどっちが勝ったと思う?」
冷静に聞かれる。
――答えはひとつだ。
「俺だよ、お前の完全敗北だ」
「やっぱりそうだよね……」
切なげに彼は返した。
秋瀬は少しだけ視線を落とした。悔しさでも敗北でもない、名前のない感情だった。
良かった、これで俺の完全勝利が確定した。
なぜこんな朝早くに登校しているのか聞いてみると、やっぱりアリスを迎えに行くようだった。
「それは君に任せたよ、広瀬理人。君の度胸に感服した――アリスが君に惚れるのがわかるよ」
「バカをいうのはやめてくれ……俺を揶揄わないでくれないか?」
「……君がそう思うなら私はもう何も言わないよ」
道案内をしてなぜ惚れられなければいけないのか。
色恋沙汰なんて俺の人生には無縁すぎる言葉であり、俺はそれを望んでいないというわけなんだ。
俺は自転車の方向を変えると、昨日のビルへと走らせ始めたのだった。




