第81話 呪詛の行方
「ぎゃあああああ、やだああああああああああ、来るなあああ」
もう俺は呪詛のことなんか忘れてしまって、この怪奇現象のことで頭がいっぱいになっている。先ほど言われたことも思い出せないほどに俺はパニック状態になっていた。
そう、呪霊はして欲しくないことをすることが大好き。つまり、来るなと叫ぶほど寄ってくるのである……。
『ダイジョウブダヨ』『コワクナイヨ』『イッショダヨ』『アハハハハ!』
樹皮のない場所からそのジメジメと冷たく、人間の形をした何かが侵入じてくる。痛みはないのに、吐き気がするほど不快だ。この世のものではないおぞましい感覚を例えるには俺の語彙は足りない。
数人分いた血と肉の塊は、爪を立てて樹皮をかきむしりながら徐々に俺の中にブクブクと黒と赤の混じり合った目玉の泡をたて侵入してくる。少し俺の中に入ってくる度に、凄まじい吐き気がする。
「オエッ!」
えづいても、えづいても、俺には吐くための口も消化器官もない。
ただ吐き気が俺を襲う、あまりの吐き気に思考能力が低下し、もう何人分の目玉が俺の身体の中に入ってきたかも数えられなくなっている。
何度も存在しないゲロを吐き、無いはずの身体を襲う異物感。それに耐えきれず俺の魂は地面にのたうち回る。その間にも幻聴のように聞こえてくる。
『痩せようなんてやめよ?』『駄目だよ一人だけ痩せようなんて』『お兄ちゃん、ほら、僕の血肉だよ』『いっぱいお食べ』『吐くなんて駄目よ』『ほら、私達を食べて?』『うふふふ、ほーら、口を開けて……』
存在しない口の中に、腐った血と、肉の味が広がる。吐き出したいのに、吐き出せない。吐き出して水で口をすすぎたい。ヌルヌルと内蔵のような噛み切れない感触や、喉に詰まる目玉のようなものが流し込まれて息が苦しい。俺には喉も気管も存在しないのにだ。
『もうこれで一生一緒だよ』
呪霊がねっとりとした声で呟くと、先ほど幹の表面に感じた、ゾクゾクとするおぞましい感覚が体中に広がっていく。急にそのおぞましい感覚は一気に存在感を増し、全身の神経に恐怖という感情を刷り込み、焼き付けていく。
「うわああああああ!」
そこで一瞬意識が途切れ、また意識を取り戻す。すると、先程までの気持ち悪さはだいぶん消えていた。
ようやく一息ついたものの、俺の身体が黒く染まり、全身をもぞもぞと虫が這いずるような感覚と共に一気に膨れ上がった。
今まで前世の腕1本分もなかったような幹が、黒く樽ほどの太さに成長……というよりは、肥え太っている。幸い痛みはない。成功したようだ。
太りはしたが、樹高はさほど高くなっておらず、前世の背の高さにはすこし及ばない。でも体積だけなら生前の数倍はありそうだ。太った部分はぶよぶよで、木らしい硬さもない。まさしく腐り落ちる寸前の樹木だ。
なんとか太ったけど、これ大丈夫なのか? と思っていると呪霊たちがまたささやき出す。
『アハハハハハ!』『君もこれで僕達の仲間だよ!』『醜い子』『無様なお腹』『ねえ、死のう?』
などと囁かれたあたりで、いきなり銅鑼っぽい音が鳴った。呪霊たちはすっと俺の身体から離れ、血肉の身体を捨てて、黒いドロドロのネバネバに戻っていく。
『ペリュ様が呼んでる』『帰らなきゃ』『帰るわ』『くすくす、またね』『そんなに頑張っちゃう人始めてみたかも』
黒いドロドロのネバネバ達は、俺の中から静かにこぼれ落ちると、地面に溶けるように消えた。
気がつくと、あれだけ立ち込めていた雲は消え満月が空に輝いている。
エーリュシオンさんが急に眼の前に現れるが、驚く気力もない。でも、明るい(物理)人がいるだけで、少し安心する。
「お前、意外に変なところだけ根性有るな……。とにかく、無事で良かった。もっと早くにギブアップしても良かったんだぞ」
そういう事はもっと早く言ってほしかったなあ。
「じゃあ、治すからな」
と、宣言してエーリュシオンさんが俺のぐじゅぐじゅになった黒く腐った幹に手を当てる。そこから、銀色の光がこぼれ落ち、身体の中で光が満ちていくような、不思議だけれども心地よい感覚で満たされた。
すると、ちょっとつつけば崩れ落ちそうなばかりだった俺の腐った身体がみるみるうちに堅い木材に戻っていく。
わざわざ一言いってから治療してくれるあたり、エーリュシオンさんも流石に疲れ切った俺に配慮したのかな。
「すみません、疲れました。ちょっと寝たいんですけど」
「まだ成果を報告してないだろ、お前」
エーリュシオンさんはそう言うと、いつも通りにエフェクト無しで回復魔法の追加をしくれた。
おかげで疲れは概ね消えた。若干残っているがあとは自力でも回復できるだろう。いつもなら抗議するところだが今日は無言のおせっかいが本当にありがたいと思う。
さすがにペリュさんやジェスロさんにお礼も言ってないし、報告も必要だ。エルシーさんにももう一度謝らないといけない。
「ありがとうございます、駄目だな頭が回ってなくて」
「闇属性の魔法の特性なんだよ。いらないものを与え、必要なものを制限する。」
「なんだか怖い感じですね、やっぱり……」
「あと、怒りや妬み、恐怖あたりを司っているんだ。あとは眠りや休息なんかかな。生き物にはどれも必要だから、むやみに怖がらないでくれると僕も助かる」
なるほど。確かに生きていくうえでそれらが全く必要ないとは言えない。
怒りや恐怖が有るからこそ、安全を確保できるというのは、確かにあるわけだしな。
「何分くらい呪われてたんでしょうね、俺」
「三十分くらいじゃないか」
「もう二度と呪詛はゴメンだなー……」
「すすんで呪詛を受けようなんて世界樹はお前だけだろ。当然の報いだ」
全く持ってそのとおりでございます。俺はため息をついた。
面倒くさくても、疲れていても、やらなくてはいけないことが有る。
それでも、あの最後の一ヶ月の勤務よりはマシだし、まあいいか。