第36話 黒杉姫の物語
土と落ち葉や針葉樹の匂い。コンクリートとは比べ物にならない柔らかな土。
俺が今見ているのは異世界ではない。
記憶にある母方の祖母の家の裏山だ。薄暗いが、人の侵入を阻むかのように厳かな雰囲気が漂っている。
「ほら、そうちゃんもお参りしようね」
眼の前に、子供が上を向いても、終わりがどこかわからないほどの大木がある。
そして、その前には祭壇と鳥居。鳥居には小さな注連縄と紙垂も飾られ、その木が現在進行系で大切に扱われていることを示していた。
祖母の真似をして、手を合わせているのは子供の頃の俺か。
「おばあちゃん、この木なに?」
「この木はね、ご神木なのよ。何百年も前から、この村と我が家を見守ってくれているの」
「そうなの?」
「そうよ、そうちゃんも、ここに来たらくしゃみしなくなってるでしょ?」
そういえば、俺は子供の頃重度の花粉症だった。
しかし、母方の祖母の実家に行ってから、急に花粉症が治った記憶がある。
周りが花粉症に苦しむ者が多い中、くしゃみも鼻水も涙も出なかったのは、ちょっと有り難かったなあ。
「そういえばそうだ! すっげー!」
「だから手を合わせてありがとうって言おうね」
「神木様! ありがとー!」
この当時から俺は雑だ。
「黒杉姫様、この子の花粉症を治していただきありがとうございます」
おばあちゃんは、お米と塩、酒を供えて深く祈りを捧げた。
それを見て、俺は形だけ真似た。
「じゃあそうちゃん、帰ろうか」
そこで、意識はまた飛ぶ。
「おばあちゃんー、なんか読んで、よーんーでー!」
俺は絵本を入れておく箱ごとおばあちゃんに押し付ける。酷いガキだな我ながら。
「じゃあこれを読んであげようね」
おばあちゃんが嫌な顔ひとつせず選んでくれたのは「きこりとくろすぎさま」という、今では全く記憶にない絵本だった。
『むかし、むかし。あるところに。
貧しいけど気の良い木こりがおりました。
芝刈りをするおじいさんがいれば手伝い
茸を探すおばあさんには自分の採った茸をわけてあげる。
迷い子がいればおぶって家まで送ってあげる。
そういう優しい木こりでした。
木こりは毎日山の大きな木にお祈りをします。
この山で一番大きな木の名前は黒杉様。
「黒杉様、黒杉様、今日も無事に一日を過ごすことが出来ました」
お水と時々の僅かなお米だけしかお供えできませんでしたが
毎日欠かさずお供えしていたので、黒杉様も木こりをずっと見守っていました。
黒杉さまは熊が出れば熊に言い聞かせ、急にできた穴に落ちないように、夢で穴の場所を知らせ、流行り病や大きな怪我からもまもってくれました。
木こりの母が病を得たときは、鳥を遣わして薬のある場所を教えてくれました。
大水が出るときや、雨がふらないときも教えてくれたので木こりはそれに備えて無事に過ごすことが出来たのです。
その様子を見て、村人も黒杉様を信じるようになりました。
黒杉様のご加護で、村は平和に過ごすことが出来ました。
しかし、ある夜の夢のお告げに出てきた黒杉さまは悲しそうな顔をしています』
──絵本なので、挿絵がある。絵柄的には年代感のあるやつで、黒杉様は長い黒髪に巫女装束のような、十二単のような和服を着た、女性の姿だった──
『黒杉様は言いました。
「もうすぐ、私は殿様に切られてしまう定めなのです。御殿の柱にされるのです」
「そんな、黒杉様に酷いことを」
木こりはさめざめと泣きました。
「今までありがとう、感謝しています」
黒杉様の言葉に、木こりは目が覚めても泣いていました。
そして、村に黒杉様のお告げを触れて回ると、皆驚き、うろたえます。
皆で黒杉様に詣でて、捧げ物をし、どうか殿様のお触れが嘘であるように祈りました。
しかし、三日後、お殿様からのお触れがありました。
「殿様の御殿を作るために山の一番大きい杉を切って献上するように」
木こりと村人は他の木なら何本でも差し上げる、黒杉様だけは許してくれ、そう何度もお願いしましたが、許してもらえません。
「お触れに逆らうなら、子供から老いぼれまで、残らず村人の全員の首を切り河原に晒す」
役人にそう言われて、村人は泣く泣く、黒杉を献上することを約束しました。
黒杉様を切る事になったのは、村で一番木を切り出すのが上手い木こりでした。
翌日木こりが泣きながら黒杉様を切り倒すと、黒杉様は殿様の御殿になるために、役人たちに引かれて山から降りていってしまいました。
木こりはずっと泣いていました。
泣きつかれて眠りについた夜のことです。
「木こりよ、お前は今までよく私を信じてくれましたね。どうか私の願いを聞き届けてほしいのです」
木こりは夢に出てきた黒杉様の変わり果てたお姿に泣きました。
長い髪の毛は短く切られ、尼寺に行くかのようなご様子でいらっしゃいます。
「私の若木を、お前に託します。どうかこの木を育てて、大きくしてください。そうすれば、また、この村を護る力となるでしょう」
そういって、目が覚めると枕元に小さな杉の苗木がありました。
「黒杉様、必ずや小さな若木様をお護りいたします」
木こりは黒杉様がいた場所に、丁寧に若木を植えました。若木は、黒杉様の娘であると言うことで黒杉姫様と呼ばれました。
そうして長い時が経ち、大きく育ったのが■■山の黒杉姫様なのです。
黒杉姫様は、今も山から■■村を見守っています』
「この絵本の黒杉姫様が、昨日お参りした御神木の杉の木なのよ」
「へー! すっげー!」
幼き俺、今以上に語彙がない。
本を閉じて見えた表紙には■■村郷土資料という表記があり、そのあたりで、目が覚めた。
……やっぱり夢だったか。
もうエーリュシオンさんはどこかに行ってしまっていて、俺の目に広がるのは異世界の青空である。誰もいないので、ゆっくり考えることができる。
なんで俺は忘れていたんだろう。
あの挿絵の人は、扶桑さんにそっくりだったではないか。
でも、所詮挿絵は挿絵。
それに、時系列的にどうしても噛み合わない部分がある。扶桑さんは俺の世界から来た、というが樹齢一万二千年では絵本と計算が合わない。この絵本、話が実在したとしても平安〜江戸あたりの話だろうしせいぜい千年前だろう。
十分くらい考えていたが、考察するにも材料が足りない。俺は考えるのを止めた。
今日はなんとなく体が軽い。そしていつになく健康な満腹感があり、満たされているという実感に包まれている。
植えられて自由を失ったはずが、どことなく自由な気持ちに満ちている。
視線も高い気がする。
そして頭に何か乗っているような、それが頭皮に張り付いて揺れているような感覚がある。でも俺は自分を客観的に見られないのでどうなっているかわからない。どうしたものか、と考えていると。
「ソウヤ様ぁー!」
「どうでしたか、大丈夫でしたか、お食事はおとりになられましたか、一睡でもお休みになられましたかっ!」
目の下に若干のクマを作ったエルシーさんが、早口で叫びながら駆けてきた。
「俺は大丈夫だけど、エルシーさんの方こそ大丈夫?」
「大丈夫です!」
「本当に?」
「……本当はソウヤ様のお側にいようと思ったのですがエーリュシオン様に止められて、ずっと家から遠眼鏡で暗視魔法を使ってソウヤ様に何かあったら飛び出そうと準備してました……」
徹夜やんけ……。そんな無理しなくてもいいのに……。
『わしも夜間歩哨に着こうと思ったのですがエーリュシオン様に止められて……』
男爵も徹夜覚悟してたのか。寝ててよかったのに……。
「あのねえ、君たち」
当の御本人が何もない空間からにゅっと出現した。
「そうやって甘やかすから木野がボンクラになって、一人で睡眠も取れないゼロ歳児になるんだよ」
「いや、だから屋根と壁があるとこなら一人で寝られるんですって」
バチッといい音がして俺に激痛が走った。
「何度も言っただろ、屋根の下で育つ世界樹なんていないんだよ、諦めろ!」
「いるさ! ここに一人なっ!」
思わず出たネットミームはエーリュシオンさんの逆鱗に触れた。
なんかね、出ちゃうんだよね、反射で。メッセージアプリやSNSのクセで。
さらに俺に走る静電気。
「痛ああああああああい!」
「二百トフィールにもなる木の為の屋根をどうやって作るんだ、このボンクラーっっ!」
二百トフィールは六十メートル位である。この世界の技術では厳しいだろうな……。
「うわあああああん、日本の建築技術ううううう!」
日本の建築技術ならその十倍の高さの建物だって作れるのに……。
俺がいるのは残念ながら異世界だ。諦めねばならない
俺はまた意味の伝わらない絶叫を上げ、もちろん誰もわからない顔をしていた。