第2話 異世界行きのチケット
「異世界ですか……」
俺は天を仰いだ。先程まで並び立っていたビル群はどこにもない。見渡す限りの自然溢れる光景が広がっていた。
「ええと、ここは……その、どこでしょうか。俺は通勤途中のはずなのですが」
「……そうですね、あなたは仕事に向かう途中でした」
「でした?」
過去形?
「その……申し上げにくいのですが、貴方が今いるのはいわゆる三途の川のような場所でございます」
そうは言うものの川らしきものは見当たらない。
女性は、悲しそうな顔で言う。
「今朝、やたらと胸が痛みはしませんでしたか?」
そう言われてみるとたしかに最近起きると頭痛と胸のあたりが痛い気がしていたが繁忙期ゆえ病院にも行けず放置していた。あれ、あかんやつだったのか……。
要するにブラック労働の末に通勤中に倒れて死んだのか。流石にちょっと衝撃を受けている。
死ぬならせめてアニメでも見ながら布団の中で眠るように死にたかった。
「そうですよね、私も、貴方の死に方は悲しく思います……」
あれ?
俺はこんな死に方したくない、と口に出したっけ?
そもそもこの人は誰だ?
「私はあなた達の世界でいう異世界から来た者です。 名を扶桑と申します。 どうぞお見知りおき下さいまし、木野草也殿」
「名前まで知ってるんだ」
「ずっと見守っておりましたので」
女性は、少しだけ表情を緩めた。
扶桑という女性は語る。
ここが異世界と現実との境界であること。
自分がこの巨大な樹の化身であること。
その力で魂そのものに語りかけていること。
この世界から、自分を見守っていてくれたこと。
「なんで俺なんかを?」
「私はある場所で神木と呼ばれておりました。祟りは末代までと申します。しかし、受けた恩も同じく末永くまでお返しするものなのです。 私の大恩ある御方の、本当に最後の子孫。それがあなたです」
俺の両親はもう亡くなっている。両親には兄弟はおらず、一人っ子同士の夫婦だった。そして俺は童貞だ。子孫がいるはずもない。
俺が末代だった。
子孫を残せず申し訳ない気が今、死の淵で少しだけ湧いた。
かといって、今復活できても結婚する気がないのでどうしようもないのだが。
「大恩って……」
「あまり長く話している時間はありません」
俺はハッとする。そうだ、俺死んでるんだった。死んだら消えるんだろうか。
「できれば、なのですが、草也様はこのままなくなるにはあまりにも惜しい御方。なので、私のいる場所で、私の跡継ぎとなって木になっていただけませんものかと」
まさかの言葉に、俺は思わず目を見開いた。
木。
それはまさに、先程なりたいと思っていたものではないのか。
あんなでかい木になれば伐採されることもなく数百年は余裕で暮らせるだろう。しかも食料も仕事も考えなくて良い。あまりにも俺向けだ。
「そんなに悪い所ではないと思うのです。もちろん、善人しかいない世界ではありませんがあなたを守る守護者も精霊もおります」
都合が良すぎて詐欺にも思えるが、それが嘘か本当なのか、今の俺には判別できなかった。
「えっ、あのでかい木に俺がなる、ってことですか!?」
俺がビルほどもあるでかい木を指差すと、扶桑さんは頷いた。
「異世界って言いましたけど、魔法があったりドラゴンがいたりするんですか?」
「ございますね」
これで俺の心は決まった。
「よし、異世界転生だあああああああ!」
両手を上に突き上げ、絶叫する。
素でこんなに叫んだのは何年ぶりだろう。多分中学生の時位ぶりだ。久々の絶叫は爽快だった。
社畜で通勤時間とランチ時間と寝る前の数十分しか娯楽に使えない俺は、僅かな余暇を動画でアニメを見たり電子書籍や小説サイトで小説を読むのに費やしていた。
最近の好みはチート主人公が活躍するアレである。デスマの最中でも、上司の理不尽なお叱りの最中でも俺にもチートがあればなぁなんて妄想と厨二心だけは元気に持ち続けていた。
その願いが今実ったというのか。あまりにも喜びが溢れすぎてしまう。
俺が叫んでしまったのもやむを得ないことだった。
扶桑さんは、一瞬目を丸くしたが直後、柔らかく笑う。
全ての所作が上品で美しい。祟るって言ってたけど本当にこの人が祟ったりするんか? 信じられない。
「ちいと? とはよくわかりませんが……そうですね、ここはあなたが思うような世界に近いです。妖精がいて、竜がいて、ドワーフやエルフもおります。人族ももちろんいますよ」
「マジで!?」
思わず失礼な態度を取ってしまったが、そのときは興奮のあまりに判断力がゼロになっていたのだ。許してほしい。
エルフと竜と妖精とドワーフがいるなんて、あまりにも鉄板ファンタジーワールド……この世界、俺に都合が良すぎる。
しかし、俺は考えた。あまりにも都合が良すぎる。詐欺では?
「もし、断ったら……?」
「断っていただいても構いません。現世にお送りいたします。ただ……」
「ただ?」
扶桑さんは寂しそうな顔をしている。
「それで最後です、その後のことは私になにもできず……」
「……」
異世界転生しない場合、多分俺は死ぬ。心臓がやばくて三途の川って言ってたもんな。
俺が考え事をしているうちに扶桑さんの存在感が薄くなってきているのを感じる。
周りを取り巻く光が徐々に弱くなってきているのだ。
結論を早めに決めないといけないことだけは分かる。
なぜ跡継ぎが必要なのかはわからないが……。
俺はない頭を絞って考える。
現世に戻るか、異世界でやり直すか。
ファンタジー異世界といっても俺が思ったものでない可能性だってある。というかそっちのほうが高い。
悪質な魔王や邪悪な蛮族が支配する世界かもしれない。もしかすると、現実のほうがマシでした、なんて可能性だってある。
だけど、俺が知りたかったのはそういうことではない。
「俺が転生したら、誰かの役に立てたりする?」
真面目な顔で問う。
役に立てるのなら、きっと今よりマシな居場所もあるだろう。居場所があるのは大事だ。
扶桑さんは、目に涙を浮かべる。
「あなたが私の跡を継いでくれるなら、私は必ず救われるでしょう」
思ったよりも重い言葉が帰ってきた。
正直何が救われるんだかさっぱりわからない。
でも、誰かにこんなに頼られたこと、一回もないし。
戻ったってまともな人生にやり直せる気もしないし。そもそも、俺にはもう家族もいない。
ここで現実に戻ったら、生き残ってもきっと扶桑さんのことを思い出して後悔しそうだし。
じゃあ、いいか。
俺の心は決まった。
「いいよ、転生する。あとのことは扶桑さんにお任せするよ」
それを聞いた扶桑さんは、長い袖で涙を拭う。それでも涙が止まらなくて、顔を覆いながら涙ぐんだ声を出す。
「ありがとうございます、草也殿。……あなたに未来を託します」
やはり彼女の言葉は重い。だが、きっとそれは抱えていたものが大きいのだろう。
俺の抱えているものよりも、きっとずっと大きいのだ。
何となく、それだけは感じ取れた。
扶桑さんは俺に近づいて、手を取ってくれた。半分消えかかっているのに不思議と柔らかく、温かな手のひらだった。
「詳しいことは、生まれ変わったあとにあなたの従者がお伝えします。今は時間がありません」
手のひらから、パアッと光があふれる。
先程まで死の恐怖と興奮に震えていた体が光りと暖かさに包まれて、俺の意識も光の中に溶けていく。
何か、聞き忘れているような、伝え忘れているような。
そういや労災だよなこれ、なんとか異世界でも労災降りないもんかな。
もらえるものは何だって貰いたい。
いや、違う。そんなことじゃない。大事なことを聞き忘れていないかが不安だ。しかしそれが何も思いつかない。杞憂なら良いのだが。
それでも俺はなんとか思いついた一言を叫ぶ。
「扶桑さん! チート多めにしてね!」
薄れゆく意識の中で、俺はすごく厚かましく、浅ましい願いを伝えた。
扶桑さんは仕方ないな、とでも言わんばかりの顔で微笑んでいた。
「次の生でのあなたの人生が、幾久しく善きものでありますように……また、お会いいたしましょう」
手からも伝わってくるその優しい気持ちに、俺は恥ずかしい気持ちになりつつ意識はまたそこで途切れた。