第108話 胡蝶の夢 3
「こんにちは」
俺は思い切って声をかけることにした。呪詛で出来た方はやはり俺に敵意むき出しの憎しみの籠もった目で睨みつけてきて、その次の瞬間いつの間にか消えている。
アンナちゃんは先程までいたもう一人の自分のことを既に忘れているようだった。
「こんにちは……あれ? お兄さん、前、どこかでお会いしたかしら?」
「駅前で、クッキーを一緒に食べましたね」
「ああ、あの時のお兄さんなのね! あなた、全然年を取らないのね!」
「アンナちゃんはすこし大きくなったね」
「そうなの。少し大きくなったわ。でも……」
「雨も降ってるし、体が冷えるのはよくないです。俺も墓参りに来たんですよ。よかったら、少しお話でもしませんか?」
「……うん」
俺は適当な墓に花を供え、手を合わせる。知らない人の墓だが、まあ良いだろう。アンナちゃんの手を握って墓地を出た。
少し歩くとカフェがあったので、俺にはコーヒーを、アンナちゃんにはホットチョコレートと名物のチョコレートケーキを注文した。気がつくと、手元からチョコレートケーキの箱が消えていた。夢だからか、なんか色々なものが雑だなあ。
「お兄さんもお墓参りだったの?」
「はい、知り合いのですが……」
ここは真っ赤な嘘である。許してほしい。
「私もね、お父さんも去年戦死して、お母さんがこの前死んでしまったからお墓参りに来たの。一人ぼっちになってしまったわ。孤児院か、親戚のうちに行くかどっちかを選びなさい、って言われて親戚の家を選んだの。でも、親戚の叔母さんがとても怖い人で、行くのが怖いの……」
「そうですか、大変でしたね……」
下手なことを言うことが出来ず、俺はだまって無難な言葉を呟いた。
「お兄さんのお父さんとお母さんは元気?」
アンナちゃんの質問に、俺は正直に答えた。
「いえ、両方とも亡くなっていますね」
「……寂しくない?」
「当時は、とても悲しかったですよ」
嘘ではない。父は事故、母は心臓由来の突然死だった。父の事故の時は大声を出して泣いたし、母が死んだのも悲しかった。
保険金などが多少はあったが(ただしこれは諸般の事情で殆んど消えた)、生活の心配が薄いだけアンナちゃんの状況よりは倍以上マシだと言える。だからといって悲しくないわけがなかった。
「そうよね……」
アンナさんがしんみりとした顔で、ホットチョコレートを飲む。
「でも、母も父も、俺のことを愛していてくれましたからね。俺がずっと悲しんでいたら、母と父も悲しむのではと思って、なんとか今まで生きていますよ」
「大人になって、良いことあった?」
「ありますよ。勤め先で辛いこともいっぱい有りましたが。ほら、こうやって好きな時に、アンナちゃんに飲み物をごちそうして、お話できたりしますし。大人になって、自分で稼ぐようになれば、好きな時にケーキも買えるんです」
俺はウェイターを呼び、追加のケーキを二つ注文した。アンナちゃんは、少し顔色を明るくした。
「うん、うん……そうね。私もお兄ちゃんみたいになりたい。自分で働いて、お金を稼げるようになるわ。天国のお母さんが心配しないで済むように。……素敵だけど、女の子の私でも出来るかしら」
「大変ですけど、勉強すればタイピストや電話交換手、お針子とか、なれる職業は結構あると思います。どれも極めれば男の子くらい稼げると思いますよ」
この時代、女性の働き口は少ない。でも逆に、女性しかなれない働き口というのもたしかに有り、健全なものもいくつか記憶にあった。ありがとうインターネット。
そして、そういう女性の花形職業はどれもそこそこの収入があった、と記憶している。間違ってたらすみません。
「どれも素敵ね! うん、叔母さんは怖い人だけど、私頑張って勉強する!」
「いい心がけだと思いますよ、少し街に出ましょうか」
「うん!」
お茶を飲み終わった俺とアンナちゃんは、街を歩くと、今度は俺の記憶の中に有る本屋が出てきた。振り出しに戻ったようだな。
アンナちゃんは自動ドアに目を白黒させながら、俺と手を繋いで中に入っていく。中にあるのは不思議なことに、現代日本風の装丁と絵なのに、文字部分が全てドイツ語の本だった。
「こんなに素敵な本がいっぱいあるなんて!」
「せっかくですし、一冊買っていきませんか? どれでも好きなのをプレゼントしますよ。実は図書カードが余っているので、使ってくれると嬉しいです」
「としょかーど? よくわからないけど、わかった!」
アンナちゃんは悩んだ末に、一冊の本を手に取った。『グリム童話全集』と書いてある。
「いい本を選びましたね! いっぱい読んで、文字の勉強もがんばってください」
「うん、ありがとうお兄ちゃん! 今度会った時は、私がお兄ちゃんになにかプレゼントをするね!」
アンナちゃんは眩しい笑顔で本を抱きしめていた。
気がつくと、また別の場所にいる。ここは………随分新しい建物のようだ。新築のような建物の匂いがする。
しかし、様式が古い。記憶に有るような気がして、外に出ると世界樹がそびえ立っている。ここはアンナちゃんの記憶の中のティエライネンのようだった。しかし、誰も俺に気が付かない。
「え? ゴムシー、死んじゃったの? 嘘でしょう?」
「真実でございます……」
頭を下げているのはエルシーさんだ。手には厳重に包帯をしている。あの魔王の呪いだろう。
「ゴムシー様を守りきれなかった咎は全てこの私にございます。お許しくださいとは申しません。ミルラ様、そして私は呪われた身になってしまいました。ミルラ様に悪い影響がないように、私はお側から離れることになりました」
エルシーさんの言葉に、衝撃を受けて目を見開くアンナちゃん。
「後任には私の妹が付く予定です。私に似た顔で、私よりも魔法が得意で、しかも優しい女の子です。なので、安心してくださいね」
もうミルラになった後なのか。ミルラさんはショックな顔を隠せなかった。どうやら、魔王を封印した直後の夢らしい。
「この200年、誠に楽しい時間でございました。お願いです、ミルラ様。どうか末永くお健やかに、大きくお育ちくださいませ」
エルシーさんは顔を下げていたが、目からは涙がポロポロとこぼれ落ちていたのはごまかせていなかった。
「やだ! エルシーがいい!」
抱きつこうとするミルラさんを、エルシーさんは呪われていない方の腕で止めた。
「いけません、ミルラ様。ミルラ様に何かあれば、メアリー様も悲しみましょう」
「エルシーがいい! 他の守護者じゃ嫌!」
叫ぶミルラさんの顔を見た、エルシーさんのつらそうな顔が俺の心にも突き刺さるように痛い。
「この呪いが解けたら、必ず御前に馳せ参じます。約束です」
「嫌! エルシー、行かないで、私も呪われてもいいから一緒にいて、一人にしないで……」
わんわんと泣くミルラさん。それを触れて慰めることも出来ずに、エルシーさんは静かに唇を噛み締め、涙をこぼしていた。
「嫌だよ、やだよぉ……せっかく出来た家族の子の顔も見てないのに。エルシーもゴムシーもいなくなるなんて、嫌だよ……お願いだから、痛くても我慢するから、置いていかないで、私を一人にしないで……」
何も言わずエルシーさんが部屋を辞した後も、ミルラさんは泣きながらうずくまり続けていた。そこに、誰かが入ってきた。
「こんにちは、お嬢さん」
「あなたは誰?」
「メアリー様の使いでございます」
「メアリーの……?」
恰幅の良い商人のような男だった。西洋人風の顔立ちで、人好きのする顔だ。思わず、ミルラさんの顔が期待に輝いていた。
メアリーさんは、数少ない、しかも同じ世界から来た同種の友達なのだ。
本人じゃなくても、たとえ使いでも、嬉しくないわけがなかったのだ。