パチンコで負ける。そして美少女を拾う。
集英社ライトノベル新人賞IP部門一次選考落選作です(´;ω;`)
319分の1なのだ。
玉が所定の位置に入ることで回転を始める数字は、319分の1の確率で3つ揃うはずなのだ。
保留が強かろうが弱かろうが関係ない。結局、319分の1という確率に変わりはないのだから。
しかし問題は319分の1で当たるからといって、319回抽選すれば必ず一度は当たる……というわけではないという点にある。
319枚のくじが入った箱を想像して欲しい。その中に一つ当たりが入っているとしよう。
その箱の中から1枚くじを引いた結果が外れだったとする。それを箱から出したままにしておくなら良いのだが、そうはいかない。外れくじは箱の中に戻してから次の抽選を行わなければならないのだ。
どんなに派手な演出が来ようが当たらなければ意味がない。保留が強かろうが弱かろうが関係ない。
当たらなければ、1発4円の玉が台に吸い込まれていくのを、ハンドルを左回しにしたまま眺めているだけの空虚な時間が流れ続けることになる。
―――何の話かと問われれば、パチンコの話だ。
僕、伊藤和也は今日が給料日だった。
月に一度の給料日だ。この金でひと月生活しなければならない。
家賃は勿論のこと、光熱水費、日々の食費、大学の奨学金の返済――払わなければならないお金は多種多様だ。一円も無駄にすることはできない。
そんなシビアな現実に思いを馳せながらバイト先のコンビニから帰っていたはずの僕だったが、その途中でパチンコ店が目に入った瞬間、気が付けば台の前に座っていた。
そして我に返った時には僕の財布の中には小銭しか残っておらず、今日振り込まれたばかりの給料も使い切って、通帳の残高はほぼゼロになっていた。
僕はただ茫然とパチンコ店の休憩スペースのソファに座り込むしかなかった。
点けっぱなしになっているテレビでは、『一ノ瀬財閥』の偉い人が突然死したというニュースが流れていた。
一ノ瀬財閥といえば国内最大規模の企業グループだ。そのトップにいるような人だから、きっとパチンコで有り金全部溶かすような経験をしたことはないだろう。
そもそも、彼らが持っている資産というのはパチンコなんかで溶けてしまうような金額ではないはずだ。
余るほどお金を持っているのなら僕のような不幸な青年にも少しくらい分けてくれてよさそうなものだが、そんな都合のいいことは起こらない。
いつの間にか店内に残っている人もまばらになっていた。
そろそろパチンコ屋も閉店時間だ。
僕はドル箱に残っていた玉を景品と交換し、店を出た。
夜の空気が冷たかった。
もう冬も近い。
大学時代から着ているコートのポケットに手を突っ込むと、ポケットの奥に穴が空いていることに気が付いた。だからと言ってコートを買い替える金は持ち合わせていないというか、この数時間で使い切ったばかりだ。
なんてバカなことをしたのだろうと今更ながら後悔する。
ひょっとしたら僕が座っていた隣の台ならもう少し出玉も良かったかもしれない。
自責の念が後から押し寄せてくる。
「う、うわああああああ」
思わずパチンコ屋の前で頭を抱えうずくまる僕。
しかしそんな後悔はもう遅い。
それよりも明日からの生活費をどうしよう。
涙をこらえて立ち上がり、僕は道路わきの歩道を歩き始めた。
もうすぐ日付が変わる時間帯だというのに街のビルには明かりが灯っているし、道路ではひっきりなしに車が行き来している。
もっと休めよ、日本人。
大通りから狭い路地に入りしばらく歩いて、ようやく僕が住んでいるアパートに到着した。
そろそろバイトのシフト表も出さないといけないし、入院しているおばあちゃんのお見舞いにも行かなければならない。
やれやれ、フリーターも多忙だよな。
気が重くなるのを感じながら、一階の廊下を突き当りまで歩いた。
僕が契約しているのは一番端の部屋だ。
食欲は無かった。とりあえず今日はこのまま帰って寝よう。
そう思って、いつの間にか俯けていた顔を上げたとき―――。
「え」
思わず声が漏れた。
女の子だ。
薄汚れたドアの前に、長い髪の女の子が倒れている。
一瞬、思考がショートした。
僕はドアの前に立ち尽くし、ただ女の子の姿を眺めていた。
女の子は厚手のコートを着ていて、肌が白く、そして長い睫毛の生えた目は固く閉ざされていた。
年齢は分からない。ただ、僕よりは遥かに若い――というか幼いことは確かで、どう見ても未成年だった。
えっと。
こういうときどうすればいいんだっけ。
駐車場で誰かの話し声が聞こえた。
アパートの住人だろう。
突如、マズいな、という考えが浮かんだ。
こんなところを誰かに見られたら、あらぬ誤解を生んでしまうかもしれない。
青少年保護条例違反とか、児童福祉法違反とかいう言葉が僕の頭をぐるぐると回った。
「うう……ん」
女の子がうめき声をあげた。
見れば女の子の額には大粒の汗が浮かんでいて、素人でも分かるくらい顔色が悪かった。
放っておけば今にも死んでしまいそうだった。
ヤバいヤバいヤバいヤバい。
頭の中がさらに混乱していく。
話し声は徐々に近づいてきていた。
そのとき、脳裏におばあちゃんの声が響いた。
『和也、人には親切にしてあげなきゃいけないよ』
「……そうだったね、おばあちゃん」
こんなところで突っ立ってる場合じゃない。
僕は女の子を抱き上げ、鍵を開けて部屋の中に飛び込んだ。
靴を脱ぎ捨て、部屋に散らばっていたペットボトルや衣服を蹴飛ばしながら進み、ソファの上に女の子を寝かせた。
コートを脱がせ、押し入れにしまい込んでいた毛布を掛けた。
部屋の暖房を入れた後で台所へ駆け込み、冷蔵庫を勢いよく開き保冷剤を取り出して、パチンコの景品でもらったタオルで包み、急いで女の子の額に載せた。
それからもう一度外に出て、24時間営業のドラッグストアを探し、財布に残っていた金で解熱剤とスポーツドリンクを買った。
レジの店員さんが商品をバーコードで読み取っている間も、部屋に置いてきた女の子が死にはしないかと不安だった。
大急ぎでアパートに戻った僕は、ソファで眠る女の子が呼吸をしているのを見て胸を撫でおろした。
そこからは寝ずの看病だった。
何度も保冷剤を取り換えてやり、彼女から一瞬も目を離さないようにした。
途中で目を覚ました女の子は、うわ言のようにお父様、お父様と何度も繰り返した。
僕が解熱剤を飲ませてしばらくすると、女の子は幾分か落ち着いて再び眠りについた。
荒くなっていた呼吸も収まり、顔色も少し良くなっていた。
安心した僕は、いつの間にか目を閉じていた。
※
大学を中退したのはもう2年も前のことだ。
理由は単純。今まで学費を工面してくれていたおばあちゃんが病気で入院し、それ以上大学に通うことが出来なくなったからだ。
親を頼ろうにも、父母ともに僕が小学生のときに借金を抱えたまま蒸発してしまっていた。
奨学金を借りるという手もあったが、僕はそれまでにも多額の奨学金を借りていたので、さらに借金を増やすようなことはしたくなかった。
そしてバイトを転々としながら今に至るというわけだ。
パチンコにどハマりしたせいで時々無一文になることがある以外は、安定して低空飛行を続けてきた人生と言えるだろう。
そう、パチンコにどハマりしたせいで……!
気が付けば僕はパチンコ台の前に座っていた。
座席の後ろには山のように積まれたドル箱があり、パチンコの画面では未だ当たりが継続し続け、滝のように玉を吐き出している。
やった、大勝ちだ。
今まで負けた分は十分に取り返せた。
もうバイトもやめちゃおうかな。このままパチプロで生活していこうかな。
そのときだった。
パチンコの画面内にカットインが入り、ドアの前に少女が倒れている映像に切り替わった。
っていうかこれ――僕のアパートじゃないか!?
そしてこの女の子は……!
そうだ、熱を出して倒れていたあの子だ。一体どうなったんだ?
こんなところで呑気にパチンコ打ってる場合じゃない。早く部屋に戻らないと。
だけど画面の端では3つの数字が次々に揃っていき、そのたびに過剰な演出と共に大量の玉が排出されているのだった。
このまま放置するわけにはいかない。
どうすりゃいいんだ、僕! どうすりゃいいの!? 神とかゴッドとかそういう存在がいるなら教えてよっ!
会ったこともない神的な存在にそう問いかけたとき―――目が覚めた。
カーテンの隙間から日の光が差し込んでいた。
「あ……当たりは? 女の子は?」
顔を上げて周囲を見渡す。
いつもと変わらない僕の部屋だった。
どうやら知らぬ間に眠ってしまっていたらしい。
そうか、夢だったのか。
パチンコの大当たりも夢なら、昨日の女の子も夢だったんだ。
確かに、帰ってきたら部屋の前で女の子が倒れてたなんて現実味ないもんな。
むしろ夢だったと言われた方がリアリティあるよな。
さて、昨日もバイトから帰ってそのまま寝ちゃったみたいだし、シャワーでも浴びて目を覚ますとするか。
僕は立ち上がった。
その瞬間、毛布が床に落ちた。
僕の背中に掛けられていたものらしい。
「……?」
無意識のうちに毛布を被って寝ていたのかな。不思議だな――なんて思いながら毛布を拾い上げたとき、何かが足元に落ちた。
それは白い布で、レースで刺繡が施されていた。
というかパンツだった。
しかも女性ものの。
なんで――――女性用の下着が?
見れば、ソファの上にはセーターとスカートと、そしてパンツと同様の刺繍が入ったブラジャーがきれいに畳まれた状態で置かれていた。
……やれやれ。僕は混乱した。
ちゃぶ台の方を見ると、これまた女性もののコートが置かれていたのだった。いや、置かれていたというよりは、僕が置いたのだった。
ということは。
昨日の女の子は夢ではなく――。
「きゃああっ!?」
不意に、風呂場の方から少女の可憐な叫び声がした。
反射的に僕は風呂場へ向かっていた。
そして僕が廊下へ続くドアを開けたとき、洗面所の戸が勢いよく開き、小柄な影が飛び出してきた――だけでなく、そのまま僕に突っ込んできた。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
それなりの衝撃を受け、僕は背中から倒れこんだ。
背骨に激痛走る……!
「い、痛て……」
「あ、あの、大丈夫ですか!?」
目の前には心配そうな表情を浮かべた女の子の姿があった。
昨日、ドアの前に倒れていた女の子だ。
彼女の濡れた髪から雫が落ちて僕の頬に当たった。
それを振り払おうと顔を振ったとき――僕は、女の子が何も身に着けていないことに気が付いた。
細い首筋。華奢な肩。長い髪で隠れた胸元。痩せていながらもくびれたウエスト。白い太腿―――。
「あ……うん。大丈夫……」
上の空で僕が返事をした瞬間、僕の視線で何かを察したのか、女の子の顔がみるみる赤くなっていった。
そして。
「きゃああああああっっっ!」
と、僕の鼓膜を破らんばかりの声量で悲鳴を上げられたのだった。
「よ、よせ! やめろ! 静かにしてくれ! 裸を見たのは謝るから!」
こんな悲鳴を聞かれたら、近所の人にどんな誤解をされるか分からない。
僕は身体を起こし、縋る思いで女の子の肩を掴み前後に揺すった。
「―――あっ、ご、ごめんなさい、つい我を忘れてしまって!」
女の子がようやく正気を取り戻す。
僕は安堵のため息をついた。目の前に全裸の少女がいるというこの状況ののっぴきならなさは依然として変わらないが。
「落ち着いて、風呂場で何があったか説明してくれ」
「は、はい。なんだか黒くてテカテカした虫がいきなり現れて」
「黒くてテカテカした虫だって?」
「ええ。黒くてテカテカした虫です」
それってつまりあれか。
Gから始まる昆虫のことか。
この部屋、けっこう出るもんな。
「分かった、僕が何とかする。君は殺虫剤を持ってきてくれ」
「殺虫剤……ですか?」
「ほら、あそこの棚にあるスプレーだよ」
僕は棚の上に置いたままの殺虫スプレーを指さした。
女の子が得心したように頷く。
それから、僕はすぐ脇に落ちていた雑誌を丸めて風呂場へ向かった。
恐る恐る洗面所に入ると、開けっ放しになっていた風呂場のドアから白い湯気が漏れていた。
そしてそのドアのフレームにしがみつくようにして―――奴は、居た。
こういう時、相手の出方を伺っていてはいつまでも決着はつかない。むしろこちらが引いた分だけ逃げられるリスクは高まるのだ。
つまり……迷ったら負ける! 攻めろ!
「うおおおおおおっっ!」
僕は雄たけびを上げながら丸めた雑誌を相手めがけて振り下ろした。
その瞬間、黒くてテカテカした虫は羽を広げて飛翔した。
「――――ッ!?」
奴は僅かな迷いすらなく、僕の顔へと飛び移って来た。
咄嗟の判断で身体を仰け反らせた僕だったが、濡れていた床で足を滑らせ、そのままうつぶせの状態で倒れこむことになった。
再び背中を強打し激痛が走る。
だが、それだけの衝撃があってもなお、奴は僕の眉間の辺りに留まったまま離れようとしなかった。
「うわああああああああっ!」
思わず首を左右に振った。しかし黒くてテカテカした虫は離れない。
「大丈夫ですかっ!?」
そう言って洗面所へ現れたのは、毛布で全身をくるんだ女の子だった。その片手には殺虫スプレーが握られている。
女の子はのたうち回っている俺を見ると、力強い声で今助けてあげますと言って―――僕の顔面めがけてスプレーを吹きかけた。
「ぐわあああああああああああああっっっっ! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬっっっ!」
「ああっ!? ご、ごめんなさいっ!?」
女の子がスプレーの噴射を止める。
黒くてテカテカした虫はようやく僕の顔から飛び上がり、ある程度まで上昇した後、力なく落下して床の上で動かなくなった。
「な……なんとか、倒せたみたいだな」
「は、はい。……あの、大丈夫ですか?」
「ああ、まあね。びっくりはしたけど」
顔を拭いながら立ち上がると、背中に強烈な痛みを感じた。
僕は思わず呻いていた。
「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「一応は……」
「もしかして、私がスプレーをかけちゃったせいですか?」
「殺虫スプレーが効くなんて、僕は害虫かよ」
「でも、虫さんを殺せる成分が入っているのですから、全くの無害というわけではないでしょう?」
女の子があまりにも不安げに僕を見上げるので、僕は安心させてやろうと笑顔を作ってから言った。
「大丈夫だって言ってるだろ。ちょっと腰をぶつけただけだ」
「お怪我をなさったのですか? それは大変です。私が向こうまで連れて行ってあげますから、お手を出してください」
「え?」
言われるまま女の子の手を取ると、女の子は僕を支えるようにしてリビングへ連れていき、ゆっくりと座らせた。
痛くありませんか、と女の子が僕の腰に手を当てながら尋ねるので、僕は少しドキドキしながら頷いた。
「あの、さっきはありがとうございました。それから、勝手にシャワーを使ってしまってごめんなさい。汗をかいていて気持ちが悪くて、つい」
「ああ、まあ、それは別にいいんだけど、悲鳴を上げるのは勘弁してくれ」
「それもごめんなさい。見慣れない虫がいてびっくりしたのと」女の子は再び頬を赤らめて、言う。「裸を見られるなんて経験、したことがなくて」
それは――そうだろうね。
気を付けてくれるなら、まあいいか。
改めて女の子の姿を見ると、毛布が密着した身体はそのボディラインがはっきり分かってしまって、下手な裸よりも劣情を煽られるような気がした。
……なんて不埒な毛布だ。けしからん。もし生まれ変わったら全裸の美少女用の毛布になろう。
「そうだ、君の体調は? 少しはマシになったか?」
「おかげさまでずいぶん良くなりました。私、覚えてます。あなたが私の額をずっと氷で冷やしてくださったこと」
「人には親切にしろって躾けられたからな。僕のおばあちゃんに」
「では、おばあ様にも感謝しなければなりませんね」
そう言って女の子は微笑んだ。
あまりにも可愛らしい表情だったので、不覚にも胸が高鳴った。
いやヤバいって。何考えてんだ僕。相手は絶対まだ子供だって。
だけどとりあえず、悪い子ではなさそうで安心した。
「ところで、なんであんなところに倒れてたんだ?」
「あんなところ?」
女の子が首を傾げる。
「僕の家の前だよ。覚えてないのか?」
「……ええ。意識が朦朧としていたので」
そう言って女の子は目を伏せた。
言いづらいことがあるのかもしれない。
「とにかく、体調が戻ったなら帰った方が良い。君の親も心配してるだろ?」
「あの、それが、私の親は――」
女の子の言葉を遮るように、ぐるるる、という音が鳴った。
おなかの音だと僕が気づいたとき、女の子は毛布を口元まで引き上げ、顔を隠すようにしていた。
「もしかして今のって……」
「は……恥ずかしいです……っ!」
「腹、減ってるのか?」
僕が尋ねると、女の子は恥ずかしさを誤魔化すように瞬きを数回した後で小さく頷いた。
「ちょっと待ってろ。準備するから」
台所にお粥の素と粉末スープが残っていたはず。どちらもパチンコの景品だ。
立ち上がる時、さっき床でぶつけた背中が痛むのを感じた。
湿布でもあれば少しは楽なんだろうけど、残念ながら家にストックはないし購入できる金もなかった。
ガスコンロの傍らに積み重ねていたレトルト食品の山からお粥のパック。
目当てのものはすぐに見つかった。
鍋を火にかけ、その中にパックを放り込んだ。
「何か手伝いましょうか?」
リビングの方から女の子が歩いてくる。
「いや、必要ない。食事を用意しなければと心の中で思ったとき、そのとき既に行動は終わっているんだ……ッ!」
「え?」
女の子が首を傾げる。
やれやれ。
「じゃあ、火の加減を見ていてくれないか。僕は片付けとかを済ませておくから」
「分かりました。見てるだけでいいなら私にもできそうです」
「いや……一応、火が強すぎるようなら弱火にして欲しいんだけど」
「火を弱く? ああ、水を掛ければいいんですね?」
「なるほど、そういう手段もあるよな。だけどそれはどうしても火が消せないときの最終手段として取っておいてくれないか。ここのツマミを調節すれば火は弱まるから」
僕がガスコンロのツマミを調節して火を弱めたり強めたりすると、女の子は感嘆の声を漏らした。
「おお……! すごい仕組みですね」
「もしかしてコンロとか見たことないのか?」
「コンロ? この火を出す機械はコンロというんですね。へぇー、初めて見ました」
興味深そうに火を眺める女の子。
そうか、見たことないのか。
まあ、最近はオール電化の家とかも多いみたいだし、ありえない話でもないかもしれない。
「とりあえず、ここは任せるよ。5分経ったら教えてくれ」
「分かりました!」
そう言って女の子は真剣な表情でコンロと向き合った。
その間に僕はソファの周囲に散乱していた衣服を拾い集めて洗濯機の中へ投げ入れた。
洗っておいてあげないと、女の子は着るものが無くなってしまうだろう。服が乾くまでは毛布で我慢してもらうことになるけど。
洗剤を加えスイッチを入れると、機械の中で衣服がくるくると回転を始めた。
規則的なその動きは僕にスロットマシンを連想させ、精神に悪影響を及ぼしそうな気がしたので、目を逸らした。
気づけば右手が洗濯機の『一時停止』ボタンに触れていた。やばいやばい、女の子のパンツを狙って目押しするところだった。
「大変です、お湯が溢れそうですっ!」
台所から女の子の悲鳴が聞こえてきた。
僕は廊下から台所の方へ顔を出し、言った。
「沸騰させすぎなんだよ! 弱火にしろ弱火に!」
「ツマミの出番ですね! 了解です!」
女の子はすさまじいまでの引け腰でコンロのツマミを握り、震える指先でそれを回した。
火が弱まり、沸騰が収まる。
それを見た女の子は大きな仕事を成し遂げたかのようにため息をついて額の汗を拭うと、僕へ振り返ってにっこりと笑い、言った。
「……やりました!」
「……ああ、お疲れ様」
可愛いは正義。
ということで5分が経った。
「ところで、これは今何を茹でているのですか?」
「すぐに分かるさ。皿を2枚出してくれ」
「は、はい!」
女の子が食器棚からプラスチック製の皿を2枚取り出し、コンロの隣に並べた。
僕は火を止めて、沸騰したお湯の中からレトルトのお粥を引き上げた。
封を開け、中身を皿に出す。
「良い感じだ」
「お粥ですか?」
「そうだよ。あっちで食べよう」
台所からリビングに移動し、ちゃぶ台の上にお粥とスプーンを並べる。
「見た目は確かにお粥ですけど……お湯で温めただけですよ? 食べられるんですか?」
「当たり前だろ」
僕は湯気の立つお粥を一口食べた。
うん、普通にうまい。寝不足で体調がイマイチなときはこういうのが一番だ。
「で、では、私もいただきますね……!」
覚悟を決めたように、女の子はスプーンでお粥を掬って口へ運んだ。
初めは不安そうな表情を浮かべていた女の子だったが、その口元は次第に綻び始めた。
「意外といけるだろ」
「は、はい! 美味しいです!」
女の子のお粥を食べるペースが徐々に上がっていく。
口に合ったようなら良かった。
大した量でもなかったので、僕はすぐに食べ終わった。
ぼんやりと女の子が食事をしている様子を眺めていたら、女の子は照れたようにこっちを見た。
「あんまり見つめないでください。恥ずかしいです」
「あ、ああ……ごめん」
慌てて目を逸らし、天井のシミへ視線を移す。
なんであんなところにシミが出来ちゃったんだろうな。上の階の住人が何かこぼしたのかな。
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、女の子の皿は空になっていた。
「お代わり、要るか? 探したらまだあると思うけど」
「もうお腹いっぱいです。ありがとうございました」
「気にするなよ。どうせパチンコの景品だから」
「ぱちんこ?」
「あ、いや、何でもない。片付けて来るから、皿貸せよ」
「ご親切に、ありがとうございます」
「良いんだよ。おばあちゃんの教えだからな。……痛っ」
立ち上がろうとした僕だったが、腰の痛みに思わず顔を顰めた。
「腰、やっぱり痛いんですか?」
女の子が心配そうに僕の顔を覗き込む。
「ああ、思ったよりひどいみたいだ。でも心配はいらない。しばらく安静にしてりゃ治るさ」
「本当ですか? ひどい顔をしていますよ」
「元々だよ」
「えっ、それは、その……ご愁傷様というか」
余計なお世話だ。
「まあ、湿布でもあれば少しはましかもしれないけど」
「しっぷ? 船のことですか?」
「船でどうやって腰を治すんだよ……。湿布だよ湿布。体に貼って使うやつ。テレビでCMとかやってるだろ?」
「すみません、私あまりテレビを見ないので……」
そんな馬鹿な――いや、そうでもないのか。
スマホの普及によってテレビを見ない人も増えてきていると聞いたことがある。
そうか、テレビに映る巨人対阪神や猪木対ジャイアント馬場に熱狂する時代は終わったのか……。
流し台の蛇口を捻り、空になった皿を水で流す。
少し前屈みの姿勢になった瞬間、再び腰に激痛が走った。
「うっ……!」
口の端からおぞましい呻き声が漏れ出た。
リビングの方からぱたぱたと足音が近づいてくる。
「あの、私、代わります。ソファで休んでいてください」
「……悪いけどお言葉に甘えることにするよ」
「ええ。これと言って恩返しもできませんから」
「恩返しなんて気にするなよ。僕はただ、おばあちゃんの教えに従っただけだから」
腰に響かないように恐る恐る歩きながらリビングへ向かう。
まるで生まれたての小鹿だよ、僕は。
クソ、こんなときに湿布を買う金さえないとは。
「せめて金さえあればなあ……」
「え、何ですか?」
台所から女の子がこちらに顔を覗かせる。
その背後にはいくつものシャボン玉がふわふわと舞っていた。
いったいどのくらいの洗剤を使われたんだろう。気にしたら負けだと思ってる。
「だから金だよ、金。マネー」
「お金……?」
「おいおい、金も知らないのか? 今までどうやって生きてきたんだ」
「ええとそれは、まあ、それなりにです」
「金っていうのはあれだよ、長方形の紙に人の顔とかが書いてあるやつ。見たことあるよな?」
僕が言うと、女の子はううんと唸って首を傾げ、それから何かを思いついたように顔を上げるとこちらへ駆け寄って来た。
「きゅ、急にどうしたんだよ」
「思い出しました。見たことありますよ、人の顔が書いてある長方形の紙の束」
「……束?」
女の子は僕に目もくれず、ちゃぶ台の傍らに除けていた彼女のコートを持ち上げ、そのポケットの中を一心不乱にひっくり返し始めた。
いったいどんなビックリドッキリメカが出てくるのかと思ってその様子を眺めていると、女の子はコートを漁る手を止めて僕の顔を見た。
「ありました」
「……あったんだ」
「はい、これでしょう? お金って」
そう言って。
女の子は。
人の顔が描かれた長方形の紙片―――いわゆる一万円札の束を取り出し、ちゃぶ台の上に置いた。
「ああ――それだね、確かに」
束の厚さはおよそ一センチ。
一万円札を100枚束ねると1センチ程度の厚さになる――確かおばあちゃんもそう言っていた。
僕は目をこすって、もう一度ちゃぶ台の上を見た。
しかし一万円札の束はそこから消えなかった。
「差し上げます、これ」
「……は?」
「看病をしてくださったお礼です。あなたに差し上げますから」
「い、いやいや、だって百万円だろ? そんなもの簡単に貰うわけには……」
「でも、シップ……でしたっけ? この紙があればそれを買うことが出来て、あなたの腰の痛みも和らぐのでしょう?」
女の子は純粋でまっすぐな瞳を僕に向けながら言った。
こういうときはどうすればいいんだっけ、おばあちゃん。
名前も知らない女の子から百万円あげるって言われたときは―――っ!?
いつの間にか僕の脳内にはパチンコで確変に突入したときのBGMが流れていた。
当たりを引き続け、永遠に玉が出続けるあの快感……!
無意識のうちに、僕の右手はパチンコのハンドルを握る構えをしていた。
落ち着け、僕。これは現実だ。目の前にいる女の子は大当たりの確定演出ではなく、ひとりの人間として存在する少女なのだ。
「……気持ちは嬉しい。だけど受け取れない」
「え?」
「これは君のお金だろ? 大事に使え。いつの間にか失くしてしまわないようにな」
昨日の夜、給料を全額スッてしまったことを思い出した。
目尻に浮かぶ涙を、僕は手のひらで拭った。
これでいいのだ。
恐らく、この百万円は彼女の全財産だろう。
大人として、それを易々と受け取るわけにはいかない。
これでいいんだよな、おばあちゃん……。
「本当に要らないんですか?」
「ああ、要らないよ」
「そうですか……。では、片付けますね」
「あ、いや」
女の子が再び百万円に触れた瞬間、思わず声が出ていた。
「どうされました?」
「あの……じゃあ、湿布代として一万円だけもらってもいいっすか」
僕の言葉に、にっこりと笑う女の子。
「もちろんです。こんなものを持っていても、私には価値が分かりませんから」
「あ、ああ、どうも。じゃあ遠慮なく」
なんて情けない男だろう。
気が付けば僕の手には一万円札が握られていた。
手触り、質感、どう考えても本物の一万円だ。
こんな紙切れ一枚に人生左右される羽目になるとは。なんて恐ろしいんだ、貨幣経済って。
「本当に一枚だけでいいんですか?」
「き――訊くな、それ以上は! とにかく僕は湿布を買いに行ってくるからな!」
「分かりました。気を付けて」
「ちゃんと中から鍵かけて、僕以外の人間が来ても開けちゃだめだぞ」
「はい」
僕は上着を羽織りながらドアを開け、外に出た。
ジーンズのポケットに一万円札を捻じ込んだ。
気持ちいいくらいの晴れ模様だったが、吹き付ける風は冷たかった。
一歩進むごとに腰から発する痛みが僕を苛んだ。
とにかく湿布だ。それから痛み止めも買おう。
しばらく歩くと、昨晩訪れたばかりのドラッグストアが見えてきた。
―――そして、その向かい側にあるパチンコ店が目に入った。
よせよ、僕。やめておけ。
昨日痛い目にあったばかりだろ。あの苦しみをもう忘れたのか。パチンコ台に金をいくら入れても数字が揃わない悪夢を。派手な演出が延々と続いた挙句、結局外れを引かされる地獄を。
このままドラッグストアで必要なものだけを買って、残りの金は全部あの子に返してやる。それから警察か何かに相談して彼女の親を探してもらおう。僕がやるべきことはたったそれだけで、当たりもしないパチンコ玉を打ち続けることではないはずだ。
パチンコ店の前に差し掛かったとき、僕は固く目を瞑った。
誰がこんなところに立ち寄るものか―――ッ!
※
「おかえりなさい。ずいぶん時間がかかったんですね?」
アパートの自室に戻ると、女の子がソファに座って待っていた。
時刻は17時を回っている。確か、アパートを出発したときはまだ昼前だった。
「待たせて悪かったな。弁当買ってきたから、温めて食べよう。……ああ、そうそう。忘れないうちに返しておくよ、これ」
財布をパンパンに膨らませている万札の中から一枚抜き出し、女の子に手渡す。
女の子は不思議そうな顔をした。
「必要なかったのですか?」
「ああ、まあ、必要なかったというか、返って来たというか……」
正直、バカ勝ちした。
僕の人生史上最高に勝った。
一万円札をパチンコ台の投入口に突っ込んで、一回転目から当たった。
それから数時間当たりっぱなしだった。
昨日の負けは十分に取り返したと言っても過言ではないだろう。
まったく、これだからギャンブルはやめられねえぜ!
「そうですか。必要ないのでしたら、私が預かっておきますね。ところでシップとやらは買えたのですか?」
湿布……?
ああ、そうか。そういえばそうだった。僕は湿布を買いに行ったのだった。
しかし既に腰の痛みは消えていた。
「大丈夫だ。もう治ったみたいだから」
「そうですか、それは良かったです。でも、体に貼るシップというものを見てみたかったなあ」
言いながら、女の子は残念そうに俯いた。
「いつでも買ってやるよ、そんなもの。さあ、ちょっと早いけど夕飯にしよう。温めて来るからテレビでも見て待っててくれ」
僕はテレビをつけ、弁当を片手に台所へ向かった。
そしてレンジで弁当を温めながら考える。
あの子、これからどうすればいいんだろう。
最近はやりの家出少女とかいうやつかもしれない。SNSで検索すれば、女子高生の『今晩泊めて欲しい』というも多々見るし、そうした投稿への『泊めてあげる』という無数の返信も見たことがある。なんて思いやりに溢れた国なんだろう、この国は。
とにかく警察に相談だな。いつまでも家に置いておくわけにもいかないし。
レンジの音が鳴った。
温まった弁当を取り出し、リビングに戻ってちゃぶ台の上に並べた。
「のり弁で良かったか? ちくわとか食べれる?」
「はい、食べ物の好き嫌いはありませんから」
「そうか、じゃあ僕のちくわ天やるよ。僕、練り物好きじゃないから」
「ありがとうございます。親切なのですね」
いや。
嫌いなものを他人に押し付けているだけだ。
「長い時間待たせて悪かったな」
「いえいえ、そんなことはありません。無為な時間を過ごすというのも幸せなものですから」
「ふうん……」
女の子ののり弁に僕の分のちくわ天を移しながら、僕は話を切り出すタイミングを伺っていた。
そろそろ家に帰った方が良いんじゃないか、もし帰り辛いなら一緒に行ってやるから――いやそれとも、女の子には何も言わず警察に保護を求めるべきだろうか。
テレビでは『一ノ瀬財閥』の役員が突然死したニュースが放送されていた。昨日、パチンコ屋でも見たニュースだ。
豪邸の前にリポーターが立っていて、早口で原稿を読み上げていた。
『一ノ瀬財閥の次期トップと目された一ノ瀬逸弥氏の死因は現在のところ分かっていません。一部では財閥内の権力争いを原因とした他殺ではないかと言われています。また、一ノ瀬氏の娘が行方不明になっているとの情報も入っております』
「いただきます。美味しそうですね」
そう言って女の子は上品な笑顔を浮かべた。
「近所に安くて美味い弁当屋があるんだよ。……なあ、言いづらいんだけどさ」
「なんですか?」
ちくわ天を頬張りながら、女の子が僕を見る。
「それ、食い終わったら家に帰れよ。僕が送ってやるから」
僕が言うと、女の子は悲しげに顔をあげ、そのまま表情を強張らせた。
「ですが……」
「いつまでもこんなところにいたら、親が心配するだろ」
言い切った。
胸のつかえが少し取れた気がした。
しばらく無言の時間があって、女の子が箸をおいた。
部屋にはニュースのナレーションだけが流れていた。
「私には帰るところがないんです」
沈黙を破るように、女の子は言った。
「え?」
「そういえばお名前を伺っていませんでした。失礼ですが、教えていただけますか?」
「ああ、僕は……伊藤和也」
「では伊藤さん、折り入ってお願いがあります。私をここに住まわせてもらえませんか?」
テレビの画面に、行方不明だという一ノ瀬氏の娘の顔写真が映った。
色白で髪が長い少女だ。
僕はその少女に見覚えがあった。
いや、見覚えがあったというよりは、この姿はまるで―――。
「ちょ、ちょっと待て。そもそも君……名前は?」
「私は一ノ瀬有紀。伊藤さん、私にはもうあなたしか頼る人がいないのです。どうか私を助けてください」
女の子が僕の手を握る。
その背後のテレビには行方不明者として、女の子の顔写真が画面いっぱいに映し出されていた。
ご愛読ありがとうございました。
ぶんぶんスクーターの次回作にご期待ください!