エピローグ
微睡みの中にいる。
温かい湯船に全身が浸かっているような、心地よい感覚。このまま己の全てが溶けてしまえばと思うほど安らかだ。
そこで、ふと。
優しく肩を揺すられる感触を覚えた。深い労わりを思わせる手つきだ。
あぁ、どうやら、もう起きねばならぬらしい。
「孝仁、孝仁……朝だよ……」
「……ん」
「えへへ……起きた? 孝仁……」
「はい……おはようございます、天音さん」
「うん」
目を開ければ、そこには天使と見紛う愛らしさを持つ彼女がいる。
名を、天音。妖狐を統べる長にして最上の存在。天狐。
銀色に輝く耳と尾が、嬉しそうにふりふりと揺れた。
「……すみません。朝からとんだご造作を」
「ううん、いいよ。天音は、孝仁を起こすのが好きだから。寝ている姿も、こうして……」
「ん……」
「……にゅへ、えへへ。寝惚けてる姿も、好き」
「……っ」
何となく、気恥ずかしさを覚えて俺は視線を逸らす。頬がやにわに熱くなるのを感じる。
別に初めてのことでもあるまいに。彼女がこういった触れ合いを好むことは知っていたはずだ。
そう、知っている。
あの日からずっと繰り返される日課だ。
「……」
……あれから何年経ったのか。もはや日数を数えることはやめてしまった。
そも、どこから一日の始まりで、どこが一日の終わりなのかも分からぬ。起きて寝てを繰り返すものの、外の世界は一向に変化を齎さなかった。
ここでは不変が常識である。
物は壊れず、食物は減らず、そもそも腹は空かず。睡眠だって、本当は必要ないのかもしれない。
それでもこうして彼女と床を同じにするのは、今までの名残だろうか。
何にせよ、幸福だ。
天音さんの傍にいれることがとても嬉しい。
「ふぅ……」
「どうする? 起こしちゃったけど、寝たいならまだ寝てもいいよ?」
「いえ、大丈夫です。そこまで甘えるわけにもいけませんので」
「天音は気にしないのに」
「俺が気にします」
そう言うと、彼女は少し不満げに頬を膨らませた。もしや俺が遠慮していると思ったのだろうか。
誤解を解かねばならない。
と、思うものの。俺は彼女の姿に、無性に愛おしさを感じてしまって。
いつの間にか彼女の頭を撫でていた。
「わ」
「ぁ、すみません。つい、無礼を」
「……んーん。やめないで。このまま……ね?」
「……」
望みのままに。
きめ細やかな銀髪をするりと梳かしながら、次いで耳に。流れるように頬に。
柔らかく、温かい。
彼女の嬉しそうな瞳が絡みつく。俺と彼女との境界がなくなり、蕩けていくのを実感する。
いつまでもこうしていたい。許されるのならば永遠に。
「……する?」
「……っ」
はらり、と彼女の寝間着はがはだけた。所謂、旅館の浴衣のような恰好。胸元の防御力は乏しい。
隙間から肌色が覗く。
唾を飲み込んだ。まだ早朝であるのに、酷く心が騒めいている。
俺は、突き動かされるように手を伸ばし。
「あ……」
「……まだ起きたばかりゆえ、ご勘弁を」
「にゅぅ……けち」
「けちではありません。天音さんもそう、俺を惑わせないでください。貴女はとても魅力的なのだから」
「ふぇ、あ、え、ぁ。……うん」
伸ばした手で帯を締め直す。今度こそはだけないよう、厳重に、かつ快適に。
なぜか無言の天音さんに疑問を抱きつつも、着付けは完了した。
そろそろ、いいだろう。
「さぁ、居間に行きましょうか。きっと、紬さんが朝食を作ってくれています」
「えぇー。もうちょっとー」
「なりません。ほら、立ち上がって」
「にゅぅうう……」
なおも渋る彼女の手を取り、立ち上がらせる。しかし立ち上がったのはよいものの、一向に歩こうとはしない。
……どうしたものか。
心根困り果て、愚昧に立ち往生していると。
「……抱っこ」
「へ?」
「抱っこで運んでくれるなら、いい」
「はあ」
「じゃなきゃいかない」
「……わかりました」
ふむ。
俺は暫し考え込み、彼女に背を向けて膝を付く。
ぺちりと頭を叩かれた。
どうやら、おんぶを所望ではなかったらしい。
「……おはようございます、紬さん」
「あ、おはようございますっ、……兄、さん……」
「ふん。朝からご苦労、下女よ」
「……あら、駄目じゃないですか、もう。服にごみが纏わりついてますよ? 早く振り落としてください、兄さん」
「かかか。おぉ、おぉ、持たざる者の嫉妬は見苦しいのぅ。ほれ孝仁、椅子に座らせてたも」
「まぁまぁ可哀想に。そんなことすら一人でできないだなんて。あ、ごめんなさい、そういえば天狐様はもうお婆ちゃんですもんね。しわくちゃの」
「お、おばっ……。ま、まだ心は若いままじゃし。ぴ、ぴちぴちじゃし」
「はい? なんて? すみません、加齢臭がきつくて聞こえませんでした」
「……なぁ孝仁。こいつ、日に日に口が悪くなっとらんか? 儂、そろそろ泣きそうなんじゃが」
「天音さんが煽るからですよ。……紬さんも、どうかそれくらいで」
「む。……まぁ、兄さんがそう言うなら」
険呑な空気が胡散するのをなんとなく察する。よかった。彼女達の言葉の投げ合いはどうも胃によろしくない。まるで命綱なしで細いロープを渡る人を見ている気分になるのだ。
内心で安堵の息を吐きつつ、両腕を慎重に使い、天音さんを椅子に座らせる。
彼女の体重は非常に軽いため苦にはならなかった。少し痩せすぎな気もするが、女性にあれこれ言うのも失礼だろう。
俺は天音さんの横の席に座り、次いで紬さんが俺の前の席に座った。
眼前には美しく並べられた朝食がある。色よく焦げ目のついたパン、ベーコン、半熟の卵、サラダ。比較的スタンダードな献立だった。
とても美味しそうである。
「いつもありがとうございます、紬さん」
「いえいえ。私が好きでやっていることですから、そんな」
「そうじゃぞ孝仁。こやつに畏まる必要なぞない」
「貴女は私に感謝してください。地に頭を付けて、一万字以上の謝礼を述べながら」
「え、普通に嫌じゃけど」
「……判定をお願いします、兄さん」
……。
「……天音さん、謝りましょう」
「なぜ!?」
作っていただいた方に対して、流石に今のはよろしくないと思います、天音さん。
「……ごちそうさまでした。大変おいしかったです」
「ふふ、それは何よりです。早起きした甲斐がありました」
「早起き……ご負担ではありませんか?」
「いえ全く。元々朝には強いタイプですし……」
紬さんの黒い瞳が喜色をのせて微笑む。
「何より、兄さんが美味しいと言ってくれることが、嬉しいですから」
「……そう、ですか」
俺はどうやら直球の言葉に弱いようで。このような反応をされると、どう言葉を返せばよいか分からなくなる。
しかし嫌ではなかった。
優しく綻ぶ彼女の笑みが、俺は好きだった。
「……さて。よい、しょっと」
「あ、俺も手伝います」
「へ? いいですよ、今日は洗い物少ないですし。一人でやっておきます」
「しかし」
「おぉ、なら後は頼んだのじゃ。なぁなぁ孝仁、今日はな? しみゅれーしょんげーむ、とやらを……」
「……」
くい、と袖を引かれる。天音さんは既に思考をそちらに向けているようだ。
視線を紬さんに移す。
彼女はにっこりと笑い、食器を片付け始めた。慣れた手つきである。実際、今までにも何度か断られたことがある。
そのときは懇切丁寧に説得をされて引き下がるのだが……。
「……すみません、天音さん。ほんの少しだけ、お待ちいただいてもよろしいでしょうか」
「へ?」
「む」
何となく、何となくだ。言ってしまえば気分の問題なのかもしれない。
ただ何となく、紬さんと一緒に食器を洗いたくなった。
それだけだ。
俺は袖を掴んでいる彼女の指を慎重に剥がし、立ち上がる。
「紬さん、お手伝いします」
「いや、でも」
「お願いします。俺が、そうしたいんです」
「……なら、えと、はい。お願いします……」
「むむむぅ。……じゃ、じゃあ儂も」
おずおずと天音さんは手を挙げる。
俺と紬さんは目を合わせ。
「天音さんはそちらでお休みください」
「天狐様はそこで何もしないでください」
「なぜに!?」
戦力外通告。
俺はなるべく彼女に目を合わせないように食器を持ち、洗い場に向かった。
部屋の半分が泡で一杯になるのは、一度だけでいいだろう。
「……」
「……」
そうして、食器洗いに取り掛かる。といっても紬さんの言う通り、大した量ではないし、二人ならすぐに終わりそうだ。
洗剤でスポンジに泡を付け食器を洗っていく。
紬さんは泡を洗い流し、布巾で拭く役割になった。
「……」
「……」
ごしごし、きゅっきゅ。
思えばこうして二人並んで作業するのは久しぶりだ。童心に帰った気分になり、酷く懐かしんだ。
「……」
「……」
「……なんで、兄さんは」
「はい?」
手を止める。
右を向けばすぐそこに彼女の顔があった。予想外に近い距離に戸惑いつつも言葉を待つ。
「……なんで、手伝うなんて言ったんですか。いつもなら、納得してくれるのに」
「……ん、そうですね」
「ほら、もう終わりそうですよ。一人でも簡単でした。なのにこんな、一緒にだなんて」
「……」
理由があったわけではない。何となくなのだから。
そう、何となく。
「紬さんが……寂しそうだったから」
「へ……?」
それだけだ。理由なんてそんなちっぽけなもの。
だのに紬さんは大きく目を見開き、硬直している。やがて沈黙の末に視線を器に移した。
そして。
「……私は寂しがっていたか?」
「……」
「そのようには見せなかった。表情筋もいつも通りだ、感情の揺らめきすら異常はない」
「……」
「それなのに、どうして貴方はそう認識した」
口調が変わる。それと同時に、彼女が纏う雰囲気も。
これは天音さんにも言えることだが……彼女達は表と裏、二つの顔を持ち合わせている。
恐らくどちらが本物というわけではない。普段見せている顔も紛れもなく彼女達だ。
ただこれは、それが剥き出しなだけ。紬さんの素直な気持ちが表れている。
しかし……。
「どうして、と言われても……」
再三繰り返すも、理由などない。どちらかというと勘に近いものだ。それを言葉で表すのは非常に難しい。
だから、俺は笑った。精一杯の虚勢を張った。
彼女の感じている何かを拭い去るために。
「俺は、紬さんのお兄ちゃんです。兄が妹のことを理解しているのは、当たり前のことですよ」
「……」
「紬さんはもっと我儘になってよいと思います。それがもし叶えられることなら……俺も協力します」
最後の皿を洗い、紬さんに差し出す。少しの沈黙の後、彼女はそれを手に取り、水に流した。
そこに表情はない。
俺は内心で、己の能力不足を悔いた。何がお兄ちゃんだ。妹を笑顔にもできない俺が、どうしてそんな。
軋む胸中のまま、エプロンを解こうと後ろ手に回し。
「兄さん」
「は、いっ?」
急接近。
耳元に吐息がかかり、柔らかな体が右半身を犯す。足は絡められ身動きができない。
突然の混乱の最中、彼女はぼそぼそと囁く。
「兄さんは勘違いしてます……私は、とっても我儘な人間ですよ……?」
「……っ?」
「ふふ……ねぇ兄さん。兄さんのファーストキス、本当に天狐様がだと思いますか……?」
「どう、いう」
「ふふ、ふふふ。さぁ……? どういう意味でしょう……?」
ファーストキス。
俺のそれは、間違いなく、あのときのはずだ。俺がここに来たとき。そのきっかけとなった、あれが初めてのはずだ。
だが、今の言い方はまるで。
「……はい! これで全部拭き終わりましたねっ。お手伝いありがとうございました、兄さん」
「え? ……あ、ああいえ、はい」
「ふふふ。私としてはもっとお話ししたかったのですが……どうやら、嫉妬深い獣がいるようなので、これにて」
……居間に目をやれば、そこには物凄い目つきをした天音さんがいる。詳細は省こう。あの深淵の如き瞳を言い表す語彙力を、俺は持ち合わせていなかった。
「すみません。天音さんのところに戻……?」
そう言葉にしようとして、萎む。気付けば紬さんは立ち去っていた。
なんというか、彼女らしい。
俺はエプロンを畳み、急いで天音さんの下に向かった。
「ふぃ……んあぁ、ふぅ。今日も楽しかったのぅ、孝仁」
「そうですね」
「にゅふふ。しかし……まさか恋愛げーむが、あそこまで趣深いとはなぁ」
「ヒロインが最後に闇堕ちし、そのまま戻ることなく主人公と添い遂げる展開には驚きましたね」
「うむ。驚きじゃった」
現在、俺と天音さんは寝室にいる。敷布団の上で俺は胡坐をかいて。その隙間に収まるように、彼女は座っていた。
すでに湯浴みは終えている。
距離が近いからか、彼女の髪から甘い香りがした。またしっとりとした髪の下には火照ったうなじが見える。
俺は無言で目を逸らした。
「……ねぇ、孝仁」
「はい、なんでしょう」
「孝仁はさ……後悔してない?」
「後悔、ですか」
「うん……」
不意に、天音さんはか細い声でそう呟いた。やや予想外の問いだったため、返答に遅れる。
「……今はまだ、いいかもしれないけど。孝仁はこれから永劫に天音といるんだよ? 孝仁が考えているよりも、はるかに長い時間を」
「……」
「ねぇ。後悔してない? その、天音が、無理やりそうさせたのは、分かってるけど」
「……」
「その、ぇと……き、嫌いになったり、し、て」
「それはないですね」
「へ?」
理解できない言葉が聞こえたので即座に反対した。
俺が彼女を……天音さんを嫌う? それはありえない。大体にして、彼女は大きな勘違いをしている。
「天音さん。貴女は俺の意思に反してここに連れてきたと言いますが、それは違います。ああいえ、何度もお断りしたのは、事実なのですが」
「そう……ああするしか孝仁は。だ、だから」
「でもそれは、今の俺じゃない」
「……ぁ」
思い出すのは過去の姿。母を殺したと嘆き、憎しみ、絶望に暮れる日々。
正直、それは今も変わらない。俺は母を殺してしまった自分を許す気はない。未来永劫、俺は己を憎しみ続けるだろう。
だが、だからといって。
俺を愛すと言った彼女らを。このような塵に愛を向ける彼女らの心を。
ただ俺が嫌だからと、許せぬと否定するのは……違う。
俺が何よりも優先すべきは、彼女らの幸福だった。
「今の俺は自分の行動に対して、一切の後悔を持っていません。俺は俺の意思で、貴女と共に生きることを選びました」
「……うん」
「嫌いになるなどと、後悔しているかなどと、そんなことをおっしゃらないでください。俺は、貴女の笑顔が見たいのです。ただそれだけで、俺は幸せです」
「うんっ」
しゅるり、と。彼女の尻尾が俺の体を覆う。まるで全身を抱きしめられているかのようだ。
温かい体温、優しい毛並み。
今日もよい眠りにつけそうだ。
そう、思っていたが。
「ふぅ、ふぅ……ね、孝仁」
「はい?」
「あ、朝は、さ。その……まだ早くて、できなかったけど。ぃ、今なら、いいでしょ……?」
「……ええ、そうですね」
「……!」
ちらちらちらり。
期待の眼差しで彼女は俺を見つめる。どうやらそういうことだった。彼女は俺の膝の上で反転し、体を正面に密着させる。
「……」
「……」
「ん……」
……口付けを行ったのは、どちらからなのか。俺かもしれないし、天音さんかもしれない。
深く、深く口付けを交わす。あの時と同じように、溶け合っていく。
「ん、ん、ちゅ、ん」
「はぁ……ん、ちゅぷ、ん」
こきゅり、と。彼女の細い喉が嚥下したのを感じる。俺と彼女が混ざったものを、彼女は飲み下したのだ。
倒錯的すぎる。
少女の見た目をしている者に、このような行為を。
されど止まれない。
俺はもう、止まれないのだ。
彼女を愛すと決めたのだから。彼女の望みを叶えると言ったのだから。
「孝仁……きて……」
「天音さん……」
……だが。
だが、それでも。俺はやはり愚か者だ。
どうしても諦めきれないことがある。ああ笑ってくれ、この無様な男を。どうか蔑み、罵り、嫌悪してくれ。
俺は願う。
彼女達が俺なんかに依存せずとも、一人で己を肯定できる未来を。俺の存在など必要とせず、自分の力で幸せになれる未来を。
願っている。
願っている。
どうか、どうか。
「……あぁ、ぁ……!」
希望、あれ。
……手を開く。手を握る。
爆発的に増える妖力を抑えつけ、圧縮し、握りつぶす。空間が歪むほどのエネルギー。世界が悲鳴をあげるのを感じた。
……まだだ。この程度では足りない。この程度の力では到底足りない。
もっと力が必要だった。
もっと。
もっと絶対的な力が。
「……管奈。もう、それくらいに……」
「は? 何を言ってるんですか。こんな程度でへばらないでくださいよ、《《九瑠璃様》》」
「でも……貴女、そんな血だらけで」
「それがどうかしましたか? いいから早く攻撃してください。じゃないと意味がありません」
「……」
無言で金色の尾を生やす麗人は火球を作り出し、痛ましそうな顔のまま、解き放つ。
凄まじい速度で飛来する火球。
しかしその狐は、動かなかった。
「がっ、ぁあ!」
「……! もうやめましょうっ、管奈っ。分からないわ、私……貴女の考えていることが、何も!」
「はぁー、はぁーっ。ぃ、いから、はやぐ、次……」
「……っ」
「いいがらっ! はやぐっ!」
狐は吠える。
荒々しく、恐ろしく。全身を火傷と出血で染めてなお、瞳をぎらつかせる姿は、まさに妖怪。
狐は求めていた。
あのときと同じ感覚を。
死に直面し、狂気的なまでに磨かれた鋭利な集中と想い。
限界の限界の限界を超えた先に、狐は確かな力の片鱗を見た。
即ち、天上の狐すら下せる、己の牙を。
「あ、がぁ、はぁっ、ぎ、ぃ、あぁあっ」
「……分からない。どうして……? 貴女はもう、私と同じ……いいえ、私すら超えた存在なのに。それなのに、どうしてまだ……」
「ぁあ……足り、ない、んですよぉ……天狐を堕とすには、まだまだ、足りなぃぃ」
「天狐……? 貴女、何を言って……?」
九瑠璃は彼女の言うことが分からない。そのような狐を、九瑠璃は聞いたことがない。
困惑する様を見て、血濡れの狐は舌打ちをする。
……天狐が結んだ契約。いや、あれはもう呪いの類だろう。
固く堅く、幾重にも結ばれた呪いだ。静観を気取る神に、あれを解く術はない。
そも、この世界の誰も解けることはない。
当たり前だ。その術の存在も、誰が行使した事実すら、この世には残っていないのだから。
ただの一人、自分を除いて。
「……っ」
天上の狐、天狐。真名を天音。
元宮紬。与えられしもの。英雄。
これらを覚えている存在はこの世にはもういない。あれらが消し去ってしまった。親も友人も知人も誰もかも、その存在を観測できない。
それは当然、元宮孝仁も、含まれている。
「ぁあ、あああぁぁぁぁぁあ……!」
思い出す。
あのときの瞬間を。あのときの、彼の顔を。彼の笑顔を!
『どうか、お元気で……』
今にも消えそうな蝋燭が、最期に一瞬、燃え盛るがごとく。
彼の一生はあそこで終わったのだ。彼はあのとき、何かを諦め、受け入れてしまった。
空っぽな笑みだった。見るだけで泣いてしまいそうなほど、寂しい笑顔だった。
「ぐ、ぅう、ふぅっ、ぅ、ぐ、ぅぁああっ」
……彼は、優しい人間だった。
優しくて、やさしくて。やさしすぎたから、とっても傷付いてしまった、かわいそうな人間だ。
そう、彼はただの人間だ。
英雄でもない。救世主でもない。運命の人でもない。
そんなものは、お前らが勝手に押し付けただけだろう。お前らが押し付けるから、彼はそうせざるをえなかったんだぞ。
だって、優しいから。断れないから。
彼はそういう人間で……私もまた、彼のそういうところに救われた。
「ふぅ、ふぅーっ、はぁ、はぁ……」
全てが恐ろしかった。この世の全てが悍ましく、私を支配する何もかもを憎んでいた。
嫌いだった。自分より強者に媚びることが。
嫌いだった。誰かの目を気にして生きることが。
嫌いだった。嫌いだった。嫌いだった。
何よりも、弱くて役に立たない自分が嫌いだった。
……彼は、そんな自分でさえ、尊んでくれたのに。
この世界で彼だけが、恐ろしくなかったのに。
「はぁ……はぁ……はは」
奪われた。盗られた。隠された。
あの人は間違いなく私で救われたはずなのに。あの人を救えるのは私だけなはずなのに。
奪われたのだ。
無様にも操られ、掌で踊り、殺されかけ、踏み躙られた。
「はは、あは、ははは、はははは」
……なら、こっちもやっていいだろう?
なぁ、そうだろ。奪ったのだから、奪い返すのは当然の摂理じゃないか。
なぁ。今頃貴女は酔いしれているのかもしれないが。彼との偽りの独り善がりな 幸福を享受しているのかもしれないが。
覚えていろ。
必ず、必ずその首に牙を突き立ててやる。あの賢しげを気取る人間も。
私を見下し支配するもの全てを潰してやる。
だから。
だから。
「待っていてくださいね……孝仁さん……」
いつか絶対に、貴方を救いに行きますから。
血濡れの狐は笑う。嗤う。
ここにはいない、遠くの想い人の幸福を願いながら。
深く。重く。
どこまでも狐は愛に病んでいく……。




