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三十三話 元宮紬

「おはようございます、兄さん」


「今日もよいお天気ですね」


「ご飯、お持ちしました」


「……いいえ、そんな。好きでやっていることです」


「それでは、またお昼に」


「……」


「私だけは、兄さんの味方ですよ」



 


 

「――ふふ。それでですね、明美ちゃんったら、そのまま寝坊して……」


「はい?」


「……あー、外の声、ですか」


「……」


「何も心配しないでください。兄さんには関係のないことですから」


「ええ、本当です」


「兄さんは、何も気にしなくていいんですよ」







「ご飯、どうでしょう? 今日はちょっと焦がしてしまって……」


「……本当ですか? ふふ、よかったぁ」


「沢山食べてくださいね」


「……へ? 今日、取材の人が来た、ですか?」


「んもう、あれだけ来ないでくださいって言ったのに」


「……はい。そうですね。実は結構前から、頻繁に」


「最近では学校の前まで来られて……」


「ああ、いえいえ! そんな、兄さんが謝ることでは」


「……」


「……ふふ」






「兄さん、目の下に隈が出来てますよ? あまり眠れないのですか?」


「そんなこと言っても説得力ありませんよ」


「ほら、鏡を見てください」


「……そういえば、二人とも心配していましたよ」


「はい。お父さんもお母さんも、顔を見せてほしいって」


「だから」


「……っ」


「分かりました」


「でも……いつかちゃんと、会ってあげてくださいね」






「兄さん、これ、どうぞ」


「えへへ……手作りで拙いですが、お守りです」


「いーえ、受け取ってください。せっかく作ったんですから、兄さんが受け取ってくれないと困ります」


「へ? いえいえ、そんなの大体十万円くらいで……」


「あ、あれ? どうして更に抵抗が?」


「いーいーかーら、ほら、受け取ってください」


「でないと私、泣いちゃいますよ?」


「……ふふ、ありがとうございます」






「兄さん」


「大丈夫、落ち着いてください」


「兄さん」


「兄さん」


「貴方は誰も殺していません」


「あれは事故だったんです」


「兄さんが悲しむ必要はありません」


「……大丈夫です」


「私がいますからね」






「もう、二年になるんですね」


「なんだかあっという間だった気がします」


「……来年で私も卒業生。ふふ、なんだか実感が湧きませんね」


「へ? 進路ですか?」


「はい、就職しようかと思っています」


「……? 不思議ですか?」


「ええ、だってこの近くに大学はありませんから」


「はい。兄さんを置いていくなんてできません」


「安心してください。私もお金を稼げるようになったら、このままずぅっと一緒です」


「……なんでですか? 私は構いませんが」


「そんな。重荷だなんて」


「私は本当に、好きでやってることなんですよ?」


「……」


「……」


「……分かりました。もう少し、考えてみます」






「はぁっ、はぁっ」


「ごほっ、はぁ、よかっ、た……! 間に、合って……!」


「はぁ、はぁ。兄さん、兄さん」


「なんで……」


「なんで、こんなこと……」


「兄さん」


「兄さん!」


「……」


「……お願いです。もう二度と、こんなことしないでください」


「お願いです」


「お願いです……兄さん……」


「いらない存在だなんて、思わないでください」


「私には貴方が必要です」


「貴方がいれば、それだけで私は幸せなんです」


「だから……」


「……はい」


「約束ですよ、兄さん」


「絶対に、死なないでくださいね」






「……ん、んぁ、はぁ」


「ん、ん、ん……っ、ぁ、あ」


「兄さん、兄さん……!」


「ふっ、ふっ、ふっ」


「……ふ、ぅ。あぁ、でもまだ、我慢」


「もうちょっと、もうちょっとだから、我慢」


「……あぁ」


「待ち遠しい……」





「就職する、ですか?」


「いいですよ。どこにしますか? ここから近いのであれば、確かあそこが……」


「へ?」


「……なんでですか?」


「……」


「出ていくって、ふふ、そんな、冗談を」


「……っ」


「……あの、私、何か気に障ることをしましたか? そ、それとも、住む場所が嫌になりました?」


「でしたら私に任せてください! 絶対、兄さんが住みやすい部屋を……」


「……!」


「……ぁ、そう、ですか」


「はい……はい……」


「あ、もう……はい、そうですか」


「は? え、い、今?」


「そ、そ、そんな。いきなり、えと、まだもうちょっと」


「……」


「わかり、ました……兄さんが、そうおっしゃるなら……」


「……」


「……」


「……っ」



「兄さん!」


「はぁ、はぁ。待って、待ってください……!」


「やっぱり嫌です! 私、兄さんとずっと一緒にいたい!」


「今までみたいに、ずっと……」


「……ね? 今からでも、戻りましょう? ご、ご飯、作ってきたんですよ?」


「兄さんに、喜んでもらえると、思って……」


「……っ」


「どうして、ですかぁ。ぐすっ、私、何が駄目だったんですかぁ?」


「ひぐ、お願いです。行かないで……行かないでよぅ、お兄ちゃんっ」


「……ぁ」


「いや、いや。行かないで、ねぇ。待って、ねぇ!」


「お兄、ちゃん……」


「……ぐす」


「すん、すん。うぅ、あぁあああああ」


「ふ、く、ぅ、ぅううう」


「えぇぇえええん!」


「ふぅ、ふぅっ、ぅぅううっ」



「……ふぅ、ふぅ、ふふ」



「ふふふ」



 黒い瞳が指から覗く。


「ふふふ、あは、ふふふふふふふ。あははぁあ」


「あぁ、悲しい。痛い。とてもとても、悲しい」


「ぐすっ、あは、うふふふ。涙、全然止まらない。あはははは」


 唇が弧を描く。


「はぁ……分かっていたけど、辛いですねぇ」


「でも、それでこそ私のお兄ちゃんです」


「……ふふ、あぁ、流石。なんて哀れで、綺麗な」


「うふ、うふふ。あ、だめ、こんなところで、はしたない」


「ふっ、ふっ、さぁ、戻ろ」


 黒髪が艶やかに揺れた。


「……お守り。大事にしてね、お兄ちゃん」











 元宮紬の計画は、凡そ完璧だったと言っていい。

 安いマンションに住み、劣悪な会社に身を置き。低賃金でも仕送りは欠かさず、残る僅かばかりの金額でその日を凌ぐ。

 刻一刻と擦り切れていく体。

 失われていく尊厳と心。

 膨らみ続ける、自己嫌悪と罪悪感。


 完璧である。

 あとはもう、背中をぽんと押してやるだけ。

 そうすれば彼はどこまでも深く堕ちていくだろう。

 紬のために。

 どこまでも深い罪を背負った彼が幸せにできる、唯一の存在に。

 溺れていくだろう。


「……まぁ、それでも一応、保険はかけておきますが」


 かちゃり、と紬は首輪のようなものを撫でる。

 どこか機械めいたそれ。指先に感じるのは冷たい金属の感触だけだ。

 しかし紬は、これこそが彼を縛る毒となることを知っていた。

 優しい優しい彼。

 そんな彼と《《一緒に》》首輪を付けたら、彼はどんな反応をするだろうか。


「……ふふ、ふふふ」


 紬はその未来を想像し、口をだらしなく歪ませた。

 スイッチが入った彼女の妄想は止まらない。

 孝仁との生活。

 孝仁との会話。

 孝仁との逢瀬。

 そしてなにより、孝仁との……。


「やん、私ったら。はしたない」


 そう口では言いつつも、考えることは止めない。

 否、もはや考えるという次元ではない。既に彼女の頭ではそれが現実になっているのだから。

 高すぎる知能の弊害が、ここに出ていた。


 そうして、彼との共同生活が七年を過ぎたころ……。


「……?」


 ガチャリ、と鍵が回される音がした。


「……」


 紬はヘッドフォンの音量を上げ、目を細める。

 ちらりと別のカメラへ視線をやれば、そこには夜遅くまで働いている孝仁の姿が。


「……誰?」


 孝仁ではない。

 だが今、確かに扉の鍵が開く音がした。

 それだけでなく、ドアノブが回され、扉が……。


『うーん、ここで合ってるかのぅ? 札はここだと言っておるが……うーん?』


「は?」


 思わず目を疑う。

 なんだこの……何?


 ピコピコと揺れる耳。ふさふさと流れる尻尾。宙に浮いている札。 

 どれも非現実的なものばかり。

 コスプレ……というわけでもないか。視覚から入る情報が、それを否定している。

 であれば、これは本物の。


 ……いや、そんなことよりも……!


「無断で、お兄ちゃんの部屋に、女が……!」


 ぎり、と歯を噛みしめる。

 これが通常の人間ならばよかった。これがただの、頭のおかしい女の犯行ならばよかった。

 もしそうなら速やかに世界から退場していただくだけである。


 だが、これは。

 カメラに映る、これは。


『……ん? 誰ぞ、そこにおるのは』

「……!? ちっ!」


 慌ててカメラの電源を切る。

 今の目、完全にこちらを捉えていた。


『……ふむ。まぁ、よいか』


 だめだ。

 どう考えても、これを抹消できるビジョンが浮かばない。

 見たのは一瞬だった、その一瞬ですら理解できる、生物としての格。絶対的な差。

 否が応でも認めなければならない。

 元宮紬では、あの存在を屠ることはできない。


「……狐畜生が」


 負け惜しみの如き言葉を吐く。

 それしかできなかった。握りしめた爪が皮膚を破り、薄っすらと血が滲んだ。

 そんなことすら、もうどうでもいい。


「考えろ」


 考えろ、考えろ、考えろ。

 あの女ここにやって来た理由。あの女の正体。あの女の弱点。計画の見直し。世界に対する認識の改め。


「妖怪、化物、モンスター。お伽噺の存在……なぜ、失念していた?」


 違う。失念していたのではない。

 いないものだと、そういうものだと思わされていた。思考を挟む余地もなく、考える以前の問題だった。

 だとすると、誰が。

 これは明確に第三者による介入である。 

 誰だ。誰だ。

 一体、誰が。


「……神、か?」


 そう考えた瞬間、目の前の何かが《《ズレた》》。

 空間がぐにゃりと歪み、思考が定まらなくなる。これ以上はいけないと世界が警告をしているかのように。


「……」


 考えるな。

 考えるな。

 それは、考える必要のないものだ。

 決して考えるな。

 忘れろ。

 全てを忘れて、新しい生活に。


「ふざけるな」


 ぴたり、と眩暈が止まる。

 目を黒く濁らせながら、紬は呟く。 


「誰にも渡さない」

 

 世界に色が戻ってくる。先程のような思考誘導は聞こえない。

 あるのはただ、煮え滾る熱のみ。


「私の心はお兄ちゃんのもの。お兄ちゃんの心は私のもの」


 視界は良好だ。

 まるで曇っていた眼鏡を取り換えたような、酷く明瞭な気分だ。


「誰にも、渡してなるものか」


 カメラの電源を入れる。

 そこには変わらず……いや、何なら居間に寛いでいるふざけた狐女の姿があった。

 

「……」


 紬は考える。

 眼下にいるこれの利用価値を。どうすればこれを使って、自分と兄が結ばれるかを。

 考える。

 考える。


「……」


 考える。考える。考える。


「……」


 考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。考える。


 考え……。


『……ん? おお、よう帰ったの! えらく遅かったでは――』

『失礼しました』


「……あ」


 そうか。


『おいー!? な、何故閉めるんじゃー!? おーいっ!』


『う、うぅ……どうか、許しておくれ……ぐすん』



「あは、あははは。そうか、うん、そっか……うん」


 ドンドンと、扉が叩かれる音がする。

 そうか、お前も、そうなのか。


「……んー、計画変更、ですね」


 気に入らないが、まぁ仕方がない。これが最善の策ではあるか。

 仕方ない。仕方ない。全く腹立たしいが、仕方がない。

 無理やりにでも自分を納得させる。


「……あーぁ、折角十五年も準備したのに……はぁ」


 だが考えようによっては、この方が確実に。かつ永久的に。己の望みが叶うやもしれない。

 いや、そのようにする。

 絶対に。もう、二度と失敗することはない。


「……」


 再三、カメラに映る女を見つめる。

 最愛たる兄を誑かす、下品で矮小な、人外の化物を見下す。


「一人勝ちにはさせませんよ」


 だが、別にいいだろう?

 お前がそうやって己を負かしたのだ。ならば紬も、お前を地に堕とし這い蹲らせてやる。

 思い知るがいい。

 お前と出会ったその人の深淵を。

 そして理解するだろう。


「お兄ちゃんを幸せにできるのは、私だけです」 


 そう言ったきり、紬は兄の映るカメラの電源を落とす。

 この十数年で、それは初めての行為だった。兄が映っている途中でカメラを止めるなど、言語同断の愚行。死刑レベルの罪である。


 ……せめてお風呂シーンだけでも録画しておくか?

 否、これでもし、あの女と、一緒に入って、はい、は、入っててて。


「おっと、これ以上は脳に障害が」


 ……とにかく、自分以外との女と仲睦まじく話す彼の姿を見るのは、もはや自殺行為に等しい。

 今は静観の時期である。

 待つのだ。

 機会は必ずやってくる。

 必ず、必ず。


「……」


 かくして、元宮紬は待ち続ける。


 ただずっと、一心に待ち続ける。


 待つ。


 待つ。


 ひたすらに待つ。


 彼を想いながら待つ。


 そして……。






 そのときは、来る。


「……おい」

「はい」


「お前か、孝仁を意地汚く追い回している、紬という小娘は」

「ふふ。鏡に向かって話してます? 小皺が目立つか心配ですか、天狐様ぁ?」

「あ?」


 狐女のこめかみに青筋が立つ。

 いい気味である。

 自分から数カ月も兄を奪ったのだ。その鬱憤は、これからじっくりと晴らさせてもらおう。


「……殺してもよいが、それだと孝仁が悲しむか。はぁ、全く面倒じゃのぅ、《《貴様》》」

「それはこちらのセリフです。妖怪だなんてふざけた存在が生きているだけで吐き気がするんですよ。早く寿命で逝ってくれませんか?」

「かか、なるほど、これが負け犬の遠吠えか。定命の者は哀れじゃの」

「……狐畜生め」


 負け犬。あぁ確かに、そのように見えるのだろう、お前には。

 だがお前は、そんな見下している女に利用されるのだ。

 

「……ふむ。まぁ言葉遊びはここらへんにして。時間も惜しい、本題に入るとするか」

「そうですね。といっても、貴女は既に答えを知っているのでしょう?」

「……はぁ。これだから人間は嫌なのじゃ。時たま、ぽんと、何の前触れもなく。貴様のような外れ者が現れる」

「ええ、天には感謝しなくてはなりませんね」


 実のところ、この会話すら不要である。

 相手は未来を知っており、己もまた、そのことを知っているのだから。

 酷い茶番だ。


「では始めましょう。もう準備はできています。こちらへ」

「……そのようじゃの。全く、陰陽師の連中も口が軽い」

「彼らを悪く言わないであげてください。それに、この術を考えたのは私ですから」

「考えた、というより、辿り着いた、じゃがな」

「どちらも結果は同じことですよ」


 無機質な部屋。

 壁には何の装飾もない、ただ真っ白な正方形の空間。

 一ミリ単位で区画されたそれは、だからこそ神秘性が高まる。


「さぁ、始めましょう。さぁ、さあ!」

「……はぁ、憂鬱じゃ」


 血で塗られた五芒星が輝く。

 どろどろと、欲望が煮詰まった赤黒い煌めきが世界を犯す。


 これより行うは古代からの契約。

 あるいは禁忌の呪術。またあるいは最悪の奇跡。


「神によって定められし天狐。真名を天音が世界に命ずる」

 

 その、契約は――











 体がとても火照っていた。

 今すぐに内側から燃えて溶けてしまいそうなほど、熱い。かつてない昂ぶりを感じている。

 思わず、口から吐息を漏らした。


「はぁ、はぁ……あぁ」


 それもそうだ。

 ようやくなのだから。

 本当に、ようやく。長い長い道のりを経て、ようやく。


「契約、成立ですね」


 重ねられた契約。その本質。

 神秘の渦が紬を包む。

 うぞうぞとした紋章が体を駆け周り、やがて首の位置に収まった。

 それはまるで、首輪のような形をしていて……。


「ぁん、痛いです」


「……は?」


 あぁ、感じられる。兄の痛みが、兄の心が。

 痛い、痛い、痛い。今にも気が狂ってしまいそうになるほど痛い。

 これが彼の痛みなのだ。

 あぁ……なんて、素敵なことだろう。


「ふふ……なんだか二番煎じみたいになっちゃいましたね? 私、残念です」


「……紬、さん」


 ちろり、と舌を出す。 

 彼の顔が面白いほど、蒼白になった。

 信じられないものを見たといわんばかりに。

 絶望している。


「……ふふ」


 あのとき、貴方と会ってからずっと願っていたこと。

 ようやく叶った。

 

 これでずっと、一緒だね。


 お兄ちゃん。

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