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三十一話 それは運命と出会った

 なんだこれはなんだこれは。 

 何が起こっている。いや、何がいる? 目の前にいるこれはなんだ。

 どういうことだ。意味が分からない。分からない。

 分から、ない……。


 紬は脳みそが焼き切れる感覚を覚える。かつて、これほどまでに思考を回したことがあっただろうか。

 すでに紬の中では数時間ほどの体感時間が流れている。

 つまりそれは、現実で数秒が経っているということ。

 沈黙はまずい。何か話さなければ。

 何か、何か。


「……おかぁさん。この子、誰ぇ?」


 ようやく口から出た言葉は、しかして己のシミュレーションとは異なっていた。

 顔を背けるべきではないのに。彼に言葉をかけるべきなのに。

 事前に用意していた全てが崩れ、頭の中が真っ白になっていく。

 それは全く初めての感覚だった。


「んもう、前から何度も言ってるでしょ? この子は孝仁君。紬のお兄ちゃんになる子だよ」

「おにぃ、ちゃん?」


 そう。おにぃちゃん。兄だ。 

 目の前にいる彼は、己の義兄となる人物なのだ。

 分かっているそんなこと。

 そんな、ことは。


「――」


 ……そう。そうだ。

 彼は兄なのだ。であれば友好的に接さなければならない。あくまで無駄な労力を減らすために。

 彼の好感度を上げるべきだ。うん、上げておいて損はない。

 だから。


「わあああ……! おにぃちゃん、おにぃちゃん!」

「え、ちょっ」


 彼の体に抱き着いた。

 ばれないよう、思いっきり息を吸う。

 服から香る柔軟剤の匂い。その奥に隠れた、彼の匂い。

 

 そうか、そうか。

 彼はこういう匂いなのか。

 いや、よい情報収集になった。これで更なる友好的行動が取れるようになるだろう。

 他意は、ない。


「おっと危ない。……こら、紬。嬉しいからって、いきなり抱き着いちゃだめだぞー?」


 筋肉が何かを話している。

 まぁ興味はない。

 今はそれより、彼の生体情報を集めるのが先だろう。

 体を擦り付ける。息を吸う。指で彼の体をなぞる。

 あぁ仕方がない。仕方がない。


「この子は紬。俺と日葵の可愛い娘だ」

「むすめだー! かわいいー! うおー!」


 ナイスだ筋肉。

 これで彼も状況を把握できただろう。

 正直今は忙しくてそんなことをする暇がなかったため、有難い。


「すー、ふー」


 ……ふむ。 

 少し落ち着いたか。ならばここで一つ、自分も状況を整理しよう。

 

 まず、彼はなんだ?


 明らかに普通ではない。いや、身体的特徴だけを捉えるのなら一般的な人間の幼体だが。

 身長も普通。頭髪も普通。目の色も普通。筋肉も普通。

 顔も……あれ、なんかかっこいい。凄くかっこいい。


「すぅう、ふぅうう」


 ……まぁ、外見は置いといて。

 問題は中身である。

 視覚から得られる情報、また触覚、嗅覚、聴覚からも感じられる彼の情報。

 彼の中身。

 彼の心。

 彼という存在、彼という魂。


 それは……。


「はぁ……」



 あぁ、なんて《《美しい》》。


 そうか……これが。

 これが、美しいということなのか。


「……ほら、ご飯冷めちゃうから、入った入った」

「はいったはいったー!」

 

 ぐいぐいと彼を引っ張る。

 いっそはしたないほどに、体を擦り付ける。

 彼の困った顔が見えた。


 ……綺麗だ。 

 歪で、哀れで、傷だらけの彼。

 他者を憎むこともできず、また自分を許すこともできない、泣くこともできない、どうしようもなく愚かな彼。


 しかもこれは、生まれ持ったものだ。

 後天的に得たものではなく……自分と同じ。

 そう、紬と同じように、生まれた時には与えられていたもの。 

 彼は同じだ。望んでもないのに、何かを押し付けられたものだ。


 ……あ。

 

「……ふふ」


 小さく微笑む。

 そうか、そういうことだったのか。

 紬は全てを理解した。


 彼は己の運命なのだ。


 ようやく分かった。自分は心が無かったのではない。

 彼が、己の心だったのだ。

 欠けたパーツがぴったりと収まるように。

 彼が己の半身で、彼が己の愛だったのだ。


 愛……愛!

 なんと甘美な響きだろう。今まではただの文字列としか思わなかったそれが、とても好ましいものに思えてくる。

 愛、愛……もし彼が、己を愛してくれるなら、それは。


「……?」


 肩に手を置かれた。

 それで……、?

 ??


 どうして剥がそうとしている?

 どうして離れようとしている?


 ???

 意味が分からない。

 そんなこと、させない。


「これからよろしくね! おにぃちゃん!」

「――」


 絶対に。


「よろしく、お願いします……」

「うん!」


 もう、離さない。











 伊藤孝仁が元宮孝仁になった運命の日から、数年が経った。

 いや、まだ数年しか経っていないと言うべきか。体感ではもう何十年も彼と一緒にいる気がする。

 実質、熟年夫婦と呼んで相違ないだろう。

 彼のことならば何でも分かる。

 身長から細かい癖まで。彼に関する一つ一つを全て脳内に刻み込んだ。

 今なら目を瞑っても完璧に彼をイメージすることができる。

 やはり、自分が妻だったのだ……。


「兄さん、お風呂が沸きましたよ」

「あぁ、ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げる彼を見て、紬は喜びと切なさを覚える。

 彼から伝わる敬意はとても心地よい。しかし同時に、どこか彼との隔たりを感じてしまう。

 まさにジレンマだ。

 彼にはどこまでも美しくあってほしい。なのに自分は、それを寂しくも思っていた。


「でも……俺はまだいいので、紬さんが先にお入りください」

「そんな、兄さんもお疲れですし」

「いいんです。それに、お疲れというなら紬さんもでしょう」

「私、ですか?」

「はい。日葵さんから聞きました。学級委員、頑張ってるそうですね」

「あ……」


 柔らかく、孝仁が笑う。

 少し目を細めて。いつもは真面目に固められた口元が、ほろりと綻ぶ。

 これを見ると紬は駄目だった。考えていたこと、こうしようと計画していたこと。

 その全てが包み込まれてしまう。

 彼のやさしさに、甘えてしまう。


「誰かをまとめるということは、決して簡単なことではありません。どれだけ紬さんが優秀でも、それは変わらないと思います」

「……はい」

「いつもお疲れ様です、紬さん」

「……はぃ」


 言葉尻が小さくなる。

 正直小学校程度ならば一日で掌握できる小さな箱庭だが、それは言わなかった。

 今はただ、この温もりに浸っていたかった。


「……じゃぁ、その。お先、いただきますね……?」

「ええ、どうぞ。ごゆっくり」

「……ありがとう、兄さん」


 紬は考える。

 もし紬という女が頭脳に秀でて生まれたのなら、孝仁という男は《《心》》に秀でて生まれたのだと。


 どこまでも他者を尊び、幸福を願う。

 自らを省みることはなく。

 他者の喜びをこそ、己の喜びとする。

 誰かを恨むこともなく。

 この世に起こる全ての罪は、自らによるものだと戒める。


 まさに彼は聖人のようだった。

 頼まれもせずに十字架を背負い、奇跡も起こせぬ手で他者を救う。

 その姿はあまりに尊く痛ましい。

 だが愛おしい。


「大好きです、お兄ちゃん……」


 ぽしょりと呟く。

 冷えた廊下は暗く、呟いた声には何も反応しない。

 それでいい。


 彼を愛するのは、自分だけでいいのだ。

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