三十話 それは産まれた
ここで一つ、とある少女の話をしよう。
産まれながらにして外れていた、憐れな少女の話を。
時はおよそ二十年前に遡る。
それはいたって一般的な家庭の間に産まれた。
どこにでもある総合病院の中で産声を上げ、母に抱かれ、父に抱かれ。周りの祝福を一身に受けて生を与えられた、どこにでもいる赤ん坊。
「おぎゃぁ、おぎゃぁ」
その赤ん坊は泣いた。
苦しいからではない。生物的本能でもない。
ただ、そうするのがこの場において正解だということを知っていた。
生まれて初めて目にする光景から、それを察した。今自分が何を求められているのか、何をすべきなのか理解したのだ。
そして当たり前のように実行する。
ただそれだけだった。ただそれだけの、現象だった。
「紬。貴女は、紬。あぁ……産まれてきてくれて、ありがとう……」
「お、おぉ……! ずびっ、おおお、日葵! 紬ぃ! おおおぉぉ……!」
「ちょっと、アナタ……うるさい」
「おぉぉ、ごめん! でも、でも、よかった……! ぐす、本当に……!」
「……ふふ。もう、まったく」
それは理解した。
なるほど、自分は紬という名前らしい。また身体的特徴から捉えるに、日葵と呼ばれた母体と自分は同じ性別であると。
言語の構築も大体完了した。
あとは自分の力で、この世界の大体は把握できるだろう。
さて……。
そこまで思考し、紬と名付けられたそれは今後の身の振り方を考える。
周りの反応から鑑みるに、自分という存在が他と逸脱していることは分かった。もし皆が自分と同じレベルなら、文明はもっと発展しているはずである。
しかし見ると、身を包む布も、置かれている機械も、照明も。
紬からすれば、それこそ積み木の玩具のようなものだった。
あまりに稚拙だ。
故に悩む。
紬がその気になれば、世界の文明レベルを十段階はすっ飛ばすこともできるが……。
「おぎゃぁ、おぎゃぁ」
「あ、ほら……アナタがうるさいから、泣いちゃったじゃない……よーしよし。大丈夫でちゅよー」
「え、俺のせい?」
「おぎゃぁ」
「うん、だってさ」
「……ぐすん」
結局、紬は静観することにした。
世界に対して特に恩があるわけでもなし。またそこまで興味があるわけでもない。
言ってしまえば、どうでもよかった。
その程度である。その程度の、世界。
……暫くは両親のご機嫌を取りながら大人しく生きよう。波風を立てず、望まれたように。
そこに自己の感情は必要ない。
それが恐らく、正解だろうから。
どこまでも冷め切った客観的思考のまま、紬はそう結論付けた。
「おぎゃぁ」
すでにその目は、無機質に乾いていた……。
「紬ー? もうすぐ来るわよー。早く起きなさーい」
「ぁぅ……ふわぁ、ぁ……」
「ああもう、ほら、ちゃんと髪整えて。紬も女の子でしょ?」
「ふぁーい……」
元宮紬という人間が産まれて、実に五年の月日が経った。
親子関係は依然何事もなく続いている。
お転婆で、どこか抜けている元気いっぱいな女の子。両親達の特性を受け継いだ、元宮夫妻が望む子供像。
今はそういうことになっている。
元宮紬は、そういう理想の子供になった。
家族以外での関係も良好だ。幼稚園でも公共の施設でも、問題なく演じられている。
ただ一つ誤算があるとすれば、それは元宮紬の容姿が他より優れていたということか。
相手の望んだ反応をするため、なにかと将来の約束を結ぼうとする子供が多く、さりげなく断るのが手間だった。
恋愛とは危険である。一人の雌を巡って暴走が起きかねない。
故に紬は、五才にして独身を貫くことを決めたのだった。
「んー……」
「いい? お母さんちょっと出てくるから、早く着替えるのよ?」
「ふぁーい……」
「……もう、大丈夫かしら」
そんな生涯独身目標を娘が考えているとはいざ知らず。心配そうな顔をしながら、元宮日葵は扉を開ける。
その様子を紬はいかにも眠たそうだという仕草で見ていた。目を擦り、しきりに欠伸をして、ぽやぽやと。
日葵はもう一度、大丈夫かしら、とため息をついて家を出た。
そして扉が完全に閉まったとき。
「……」
無。
紬の表情から、ありとあらゆる感情が抜け落ちる。
眠たげだった目は色を映さず、気の抜けた表情筋は鉄の如く固まった。もはやそこに元宮紬の姿はない。
そこにあるのは、紬の形をした機械であった。
「……」
それは無言でパジャマを乱雑に脱ぎ捨てる。畳むことはしない。元宮紬が脱ぎ散らかすであろう地点に、正確に寝間着を置いていく。
終えれば後は迅速だった。
必要最低限の動きで用意された服に着替え、着替えながら扉の前に移動する。
およそ十秒もかからぬ早業であった。
「……」
それは無感情に立ち尽くす。
五年の歳月を経てなお、この世界はそれに感動を与えられなかった。
親の愛情も、友の友情も。男の恋心も。映画も、ゲームも、ペットも、スポーツも、芸術も。
所謂人間が楽しい美しいと感じるものに、それは興味を全く示さなかった。
否、示せなかったというべきか。
「……」
恐らく自分は、感動を得る機能が欠落しているのだ。そしてその代わりに得たのが、この無意味な頭脳なのだろう。
凡人が一を聞いて一を知るところを。
それは一を聞いて千を知り、千の知識から億を学んだ。また学んだ億から垓を知り……と。
もはや天才という言葉では表せぬ怪物的な理解能力。
なるほど、聞けば皆が羨むだろう。手を伸ばして欲しがるだろう。
だがそれは、自身の力を無意味と評した。
何の意味もないガラクタだと、見下した。
「……」
……結局、それが感じることのできる感情は一つしかない。
虚無だ。
苦しいわけではない。嫌なわけでもない。
ただ疑問に思う。なぜ、自分は生きているのかと。
生きる喜びを一切感じない自分は、どうして生命活動を続けているのかと。
考えれば考えるほど、それは身が擦り切れていくような気分になった。
恐ろしくもない。悲しくもない。
でも、虚しい……。
「……ん」
僅かに外が騒がしくなったのを感じ、先程までの思考を断ち切る。自分の根幹に関わる思考すら、それにとっては無価値なものだった。
今考えるべきことは他にある。
なにせ自分の義兄となる人間が来るのだ。母親の日葵はいい子だと言っていたが、それでも他人は他人だ。
余計な摩擦が生じないよう、適切な対応を取らなければならない。
情報を整理する。
「歳は今年で十二歳。引き取られた理由は聞かされてないが、表情や仕草から夫婦の蒸発と予想。性格は大人しく温厚で無害。髪は黒。身長は平均の男性……」
これだけ揃っていれば、後はどうとでもなる。所詮はただの人間だ。人心掌握など他愛もない。
しかし念には念を入れて。
紬は衣服を違和感なく崩しながら、幾千ものシミュレーションを行った。
結果は……問題なし。
どのような人間が来ても、完璧な対応が取れるだろう。
……ガチャリ。
「……」
扉が開く音がした。
さぁ、一体どのパターンの――
「……へ?」
「――」
……あ?
え?
……。
「……んぅ?」
紬の目の前に、何かが現れた。




