二十九話 女狐
ああ、なんという幸福であろう。
天音は想い人である彼の胸に顔を埋め、肺いっぱいに彼の匂いを取り込みながら涙した。
長かった。本当に長かった。
この結末を辿るまで、一体何度試行したことだろう。一体何度、悲しみに暮れたことだろう。
もはや覚えることも忘れてしまった。
本当に、辛い道のりだった。
「あぁ、ああぁぁ……」
「……」
彼が天音の前で自害するたびに、歯噛みした。それこそ世界を滅ぼしてしまいたいと思うほどに。
どこまでも彼に優しくない世界を天音は軽蔑した。
もういっそ、自分と彼以外の全てを滅ぼしてしまえばとも考えた。
しかし、今。
ようやく、ようやくである。
彼が……あぁ、好きだと。意志の籠った、誠実なる眼で言ってくれた。
他の誰でもない、この天音に!
「すん、すん……孝仁、孝仁ぉ」
「はい、天音さん」
彼の少し掠れた声が耳を通る。優しく名前を呼ぶその響きは、そのまま脳に浸透し、体全体に行き渡っていくようだった。
思わず下腹部がじくじくと疼き、口から湿っぽい吐息が漏れた。
我ながら、何ともはしたない。
千年も生きてなお、雌としての機能は失っていないらしい。
「えへ、えへへ。ね、孝仁、孝仁。天音のこと、好き?」
「はい。深くお慕いしています、天音さん」
「……! くふっ、にゅふふふふ。うん、うん、天音も好き。あぁ……大好き……」
「……」
愛する彼の告白をおかわりし、もう一度、ぐりぐりと顔を彼の胸に埋める。
今度は匂いを嗅ぐだけでなく、マーキングの意を込めて。彼は自分だけの物だと見せつけるように。
特に浅ましくも孝仁を奪おうとした女狐には、たっぷりと。
「これからは、ずっと一緒だね。ここにずぅっといるの。朝から晩まで。ね、孝仁……?」
「……」
返事はない。
しかしそれは分かっていることだ。天音には全てが分かっているのだ。
何の問題もない。
「……天音さん」
彼の声が聞こえる。天音は顔を上げ、目を合わせた。
黒色の淀んだ瞳が僅かに逸れる。
……視線の先は、あれか。
「返事の前に……まずは、管狐様の治療をお願いしたく」
「……んー」
「どうか、どうかお願いいたします」
「……ん、分かった」
手をかざす。
蓄えられた妖力が宙に舞い、管奈の体へ入っていった。これで少なくとも三日は持つだろう。
あとは知らない。
天音の頭の中からは、すでに管奈のことなどは消えていた。
「これでいい、孝仁?」
「ありがとうございます。……本当に、ありがとうございます」
「ううん。それで……?」
「……」
孝仁は少し口を噤む。やがて意を決したように、口を開いた。
「天音さん。俺と、貴女が。人生を共にするという話ですが」
「うん」
天音は文字通りあらゆる手を尽くした。彼を愛すために、孝仁を救うために。
同胞を騙し、操り、傷付け。
邪法に手を染め、何度も未来を観測し。
情に訴え、媚び、涙を流し、幼き体も使い。
少し想いが溢れ出て、未来と逸れることもあったが。
とうとう天音は彼の告白まで辿り着いた。
だが、それでもまだ。
「……それは、できません」
「……」
届かない。
ここまでしても、彼は彼のままだった。自らを憎み、罰し、戒めて。
そして何より、天音を尊んでくれる人。
分かっていた。
彼はそういう人間なのだ。だから天音は、彼を愛しているのだ。
このどうしようもなく、いっそ哀れと思うほどに優しい彼を。
天音は自分の全てをもって愛したいと思ったのだ。
「……どう、して?」
「……っ。申し訳ありません」
あぁ、あぁ。なんと愛おしい。
天音が少しでも悲しそうな顔をすれば、彼はまるで胸を引き裂かれたような表情をしてくれる。
彼が自分のことだけを考えてくれる。
その事実だけで天音は天にも昇る心地になるが、努めて顔を悲しげに歪ませる。
全ては順調に進んでいる。
されど一つの失敗も許されない。
天音は仄暗い笑みを胸の中に沈め、憐れみを誘う声で囁いた。
「好き、なんでしょ? 天音が……ねぇ、なのに、どうして駄目なの? 天音、分からないよ……」
「……」
「もしかして、天音のこと、嫌い?」
「っ、違う! そんなことが、あるはずがない。だが俺は、それでも俺は……」
きっと針を心臓に刺されたら、こんな顔をするのだろう。
天音は高鳴る胸の鼓動を抑えながら言葉を待った。
「諦め、きれないのです……」
「へ?」
「貴女が……俺なんかじゃなく、もっともっと素敵な方達と出会って……幸せになる未来を。俺は諦められないのです……」
「――」
「すみません……すみません……」
彼は項垂れた。ぽつぽつと何かが落ちる。
そこには初めて見る、彼の涙があった。幾千と繰り返した未来の中で、彼が泣くのは、これが初めてであった。
……あぁ、やはりだ。やはり彼なのだ。
どこまでも他者を尊び、天音の幸福を願ってくれるのは彼だけなのだ。
彼の頬を伝う水滴はこの世のどんな芸術品よりも美しく、崇高だった。
「どうか、どうか俺を忘れてください……そしてどうか、お幸せに……」
「……」
とどのつまり、これが彼の本音なのだろう。
天音が孝仁という人間を愛していると知ってなお、傷付けると覚悟してなお。愛する存在を突き放してでも。
これよりももっと幸せな未来があるはずだと、彼は言うのだ。
それは彼の、最初で最後の我儘だったに違いない。
「……孝仁」
……天音も一度は考えたのだ。
もしかしたら、孝仁を救うことは、自分ではできないのかもしれないと。
なにせ自分は天狐である。人外の力を持った化け物である。
そもそもが間違っていたのではないかと。
孝仁を幸せにするのは、何の力もない人間で。
孝仁を救うのは、格下である妖狐で。
孝仁が愛するのは、もっと別の……。
そこまで考えたとき、気付けば天音の口が動いていた。
「嫌だ」
「へ……?」
「嫌だ嫌だいやだ。やだ! 孝仁と一緒にいられないなんてやだ! 孝仁が他の女に取られるなんてやだ!」
想像しただけでも吐き気が止まらない。
冷静にならないといけないのに、どうしても感情が邪魔をする。
それは原罪の一つ。
名を、嫉妬。
なんてことはない。
たとえ未来を観測し、人知を超えた力があろうとも。千年の時を生き、膨大な知識を持っていたとしても。
彼女もまた、心あるただの生き物なのだ。
「ねぇ、お願い、孝仁。うん、って言って。ずぅっと一緒だって、言って?」
「……俺は人間です。貴女からすれば、一瞬の存在でしかありません」
「そんなのどうとでもなる! 天音なら、孝仁と永遠に……!」
途中で言葉に詰まる。
孝仁の顔を見たからだ。未だ流れる、涙に濡れた顔を。
「人は、永遠には生きられません。その理を曲げるということは即ち、人の道を外れるということです。……俺にはそれが、どうしても正しいことだとは思えません」
「ぅ、うぅ……! でもっ」
「この閉じた世界で天音さんと二人というのは、些か狭すぎる。貴女はもっと多くと出会うべきです。出会い、愛し、そして……別れるべきです」
「っ、ぅ、いや!」
「天音さん」
「いや!!」
頭を振る。さながら子供のように。
涙をぽろぽろと零し、孝仁の服を握りしめた。
「離さない……孝仁が嫌って言っても、絶対に逃がさない……!」
「……」
事実、天音にはそれができる。ここまで彼の意思を聞くことなく、無理やりにでも従わせられる。
だがそれでは無意味なのだ。
だって天音は、彼を幸せにしたいのだから。彼と一緒に幸せになるために行動しているのだから。
そんなことをすれば、何もかも台無しになる。
天音もそれが分かっているからこそ、そうしないのだ。
「……天音さんが俺を拘束するというなら、止める術はありません。ですがそこに、はたして幸せはあるのでしょうか」
「あるよっ。天音は孝仁といるだけで、ずっと幸せ……。孝仁は、違うの?」
「勿論、幸福の限りでしょう。貴女と共にいられるのなら、それに勝る幸福はありません」
「ならっ」
期待を藍色の瞳に乗せ、彼の顔を見る。
しかし孝仁はゆるゆると首を振り、代わりに静かな声で応えた。
「俺は罪人です。果たすべき義務があります。それを差し置いて、幸福を得てはなりません」
「っ、罪ってなに!? 孝仁はなんにも悪くない!」
「見て見ぬふりをすべきでした。新しき人生を歩む母に、俺は声をかけてならなかった」
「子供が母親を求めて、なにがいけないの……? 大体、元はといえばあの女が逃げなければ……!」
「天音さん」
「ぁ……」
少し、声を固くして。
天音は自らの失言に気付いた。そんなことを言えば、彼がどんな反応をするのか、分かりきっていたはずなのに。
「……俺が愚かだというのは、自分でも承知です。実際、裁判でも俺に刑罰は課せられませんでした。それはきっと、世間から見れば俺は無罪ということなんでしょう」
「そう、そうだよ……」
「ですがそれでも、俺の中では罪なんです。これはもう、どうしようもなくて。天音さんがこんなに言ってくれるのに、直せなくて」
そこで、ふと。
彼がうっすらと笑う。いつの日か見ていた、あの笑顔だ。
あぁ、そうだったのか。どうして彼の笑顔にこんなにも惹かれるのか、ようやく分かった。
「俺は本当に……生まれてきちゃ駄目だったんだなぁ」
彼の笑顔には、幸せがないのだ。
あるのは後悔と罪悪感と、僅かばかりの寂しさだけ。喜びを表すはずの笑顔は深い絶望を覆い隠す仮面となり。
これが唯一、彼の弱音を吐く方法だったのだ。
不謹慎ながら天音はそれを見るのが好きだった。
普段は見せない彼の弱さを知れて嬉しかった。同時に救いたいと思った。体を抱きしめ、頭を撫でてやりたかった。
このどこまでも救い難い、優しい青年を救いたかった。
そしてその方法を天音は知っている。
「孝、仁……」
「天音さん。俺は貴女と出会えて幸せでした。全く、過分なほどに」
孝仁は天音の両肩を優しく掴む。
その意図を理解してか、彼女はより一層体を押し付けた。二度と離れぬよう、ぴったりと。
孝仁は困ったような顔をして、彼女の震える狐耳を見た。
「天音さん」
「……」
出来るだけ優しい声で語り掛ける。
ぴくりと耳が反応したのを確認してから、続けた。
「そのままでも構いません。どうかお聞きください」
「……」
「一つお願いがあるのです」
「っ、ぃやっ」
まだ願い事を言っていないのに、彼女はそれが分かっているかのように首を振った。
否、事実分かっているのだろう。
それも承知で、孝仁は口を開く。
「俺を救ってほしいのです」
「……! ぅ、ぅう……」
「長く、長く続いたこの地獄に……終止符を打ちたいのです」
「やだ、ゃだぁ……」
孝仁は不思議な心地だった。
いやいやと首を振る愛しき御方を抱きながら、終わりを望む。
彼女を幸福にしたいと思いながら、今こうして苦しめている。
酷く矛盾していると思うが、しかし迷いはなかった。
「……天音さん」
「っ」
再三、彼女の名を呼ぶ。
もはや俺にできるのは、これくらいしかなかった。ただ願い続けることだけだった。
暫しの沈黙がある。
痛いほどの静寂の末、か細い声が耳に伝った。
「……そう、か……」
「はい」
「もう……終わりに、したいか……孝仁……」
「……はい」
「……っ、ぅ。なら、分かったのじゃ」
とん、と手を胸に押され、距離が開く。
未だ彼女は顔を伏しているため表情は分からなかったが、点々と沈む水滴を見て、察せられた。
「……これだけは、したくなかったのにのぅ」
「すみません」
「……んーん。お前さんが悪いわけでもない。全ては、孝仁を救えなかった儂の責任じゃ」
「何を言いますか。貴女のおかげで、俺は救われるのです」
「……違う、違うんじゃよ、孝仁」
「……?」
そこでようやく、孝仁は彼女の違和感に気付く。
口調が変化したのもそうだが……明確に、何かが変わったような気がした。
気のせいだろうか。
いや今はそれよりも、違うとはどういう……。
「本当に、救いたかったんじゃ。儂は孝仁を幸せにするためなら、何でもやった……」
「一体、何を」
「でも無理じゃった。孝仁はどうしても、自分を許せんかった。……なんと、口惜しいことじゃ。ようやく好きと、言ってもらえたのに」
「天音さんっ」
どこか正気ではない彼女の姿に、危機感を覚えた。
取り返しのつかないことが起きる。それは度重なる死の直前に感じたものに、よく似ていた。
「あぁ、口惜しい口惜しい。未来通りになるとは、口惜しい」
「は……?」
その言葉の意味を問うよりも早く、彼女は悲しげに呟いた。
「孝仁、お前さんにかけた術を今解いたのじゃ……」
「……っ、それはつまり」
「あぁ……お前さんを守るものは、もうない……」
「……!」
孝仁の行動は迅速だった。
理解できない何かが迫っている。ならばその前に先手を打つまで。
どこまでも機械的に擦り切れた彼の脳は、戸惑いなく実行に移した。
まずは舌で確認を。
もし傷が付くなら、あとは何とでもなる。幸いにして、この部屋には凶器となる物が無数にある。
自害の方法などいくらでも思いつく。
目を部屋の隅々に走らせながら、彼は舌を噛む力を段々と強めていき……。
「ぁん、痛いです」
「……は?」
声が聞こえた。殊の外近く、それこそ真後ろから聞こえた気がした。
柔らかい声である。聞くものを安心させる、静かで優しい声である。
どこかで聞いた、そう、どこかで。
……まさ、か。
「ふふ……なんだか二番煎じみたいになっちゃいましたね? 私、残念です」
「……紬、さん」
舌をちろりと出しながら彼女は悪戯っぽく笑う。
その舌先は、まるで何かに噛まれたように、赤く腫れていた……。




