二十三話 価値がないということ
高い天井を見上げて起床するのは、未だ慣れない。
不釣り合いなほど高級な寝具、広い部屋、安らぐアロマの香り。
本来ならば喜ぶべき待遇なのだろう。だからきっと、それに罪悪感を覚えてしまう己は、性根が捻じ曲がっているに違いない。
僅かに気怠い体を起こして、息をついた。
「……一体、いつまで」
不意にそんな言葉が漏れた。
正真正銘、心からの吐露。やはり捻じ曲がっている。
不満はないのだ、この暮らしに。妹がいて、管狐様がいて、衣食住が揃った完璧な暮らしに。
不満などあるはずがない。
ないが、しかし。
「……」
やめよう。このようなことを考えても仕方がない。
いつまで続くかなどは彼女らが決めることだ。場合によれば、長くなるやもと言っていた。
ならば己がすべきことは、ただひたすらに生きて。生きて。
せめてこれ以上迷惑をかけぬよう、必死に努力をすることだ。
方針を決める。
いつもの習慣。薄れないための、浅ましい確認作業。
ベッドから降りて服を正した。
「よし」
また、一日が始まる。
ジュウ、ジュウとフライパンが音を立てている。
焼き色が付いたベーコンと目玉焼きに塩コショウを振りかけ、選定する。
どれが一番不出来なものか。
形が崩れてはいないか。
確認して、サラダと共に皿に盛り付ける。
パンが焼けるのはもう少しかかりそうだ。
ちらりと時計を見た。
そろそろだろうか。そう思った矢先。
「おはよぅございます、兄さん……ふわぁ」
「おはようございます。もうすぐ出来ますので、暫しお待ちを」
「うん……」
目を擦りながら紬さんがリビングに入ってくる。
何事も完璧だと思われる彼女だが、意外にも朝は弱いらしい。
小さい頃はそうでなかったはずだが……夜に何か作業でもしているのだろうか?
心の内で頭を傾げていると、もう一人の人影が現れた。
「……」
「管狐様もおはようございます」
「……うるさい」
苛立ちを孕んだ言葉。
無言で頭を下げ、非礼を詫びる。
「……ちっ」
しかしそれも不快だったようで、彼女は舌打ちをして席へと座った。
優しいお方だ。
どれだけ怒りを感じていても、暴力を振るうことはない。見事な自制心である。
上司ならば今頃どうしていただろう。
三つは痣が増えていたかもしれない。
まあ、気にすることでもないが。
ピー、ピー。
パンが焼けたようだった。
思考もそこそこに、コトリ、コトリと皿を並べ始める。
「お待たせして申し訳ありません。どうぞ、先に召し上がってください」
「わぁ、今日もありがとうございます。美味しそうですね、管狐ちゃん」
「……」
にこにこと嬉しそうな紬さん。
管狐様は完全に無視することにしたらしい。
合掌をして食事を始める。
「ん~、美味しいです! やっぱり兄さんの焼き加減は天才的ですね! もぐもぐ……」
「ありがとうございます。喜んでもらえて何より」
「……はっ、大袈裟な」
「ふぉんなふぉとありまふぇん!」
「紬さん、喋るときは飲み込んでくださいね」
「ふぁい、にいふぁん!」
焼けたばかりのパンを木皿に乗せ、テーブルへ持っていく。
口に合えばよいのだが……。
あ、そういえば。
「大変熱いのでお気をつけて。特に、管狐様は」
「ちょっと待ちなさい。どうして私を名指ししたのですか? おい、お前」
「あ、いえ、その、苦手かと思いまして」
「勝手に判断しないでください! ……まぁ、苦手ですが」
ぷい、と顔を逸らし、管狐様は目玉焼きを口に含む。
彼女もそうだったが、妖狐は熱いものが苦手という特徴があるのだろうか?
何にせよ微笑ましい。
そう、本当に……。
「……ふふ」
「……? 紬さん?」
「いえ、何だか懐かしいなぁ、と」
「……そうですね」
どこか騒がしい、賑やかな朝の風景。
確かに懐かしい。
敦司さんはよく日葵さんに怒られていた。
少しふざける彼と、それを楽しそうに叱る彼女。
笑い声が横で聞こえる。
くすくす、小さな彼女が笑っている。
その時、己はどうしていたのだったか。もう、思い出せない。
「……お二人はお元気ですか?」
「へ?」
懐かしい記憶を思い出したからか。
気付けばそんなことを尋ねていた。資格がないと分かっていても、聞いてしまっていた。
……失礼だっただろうか。
失言を悔やむ己に対し、彼女はにこりと微笑んで。
「はい、とても元気ですよ。何ならお父さんは元気すぎるくらいです。ふふ」
「それはよかった」
「はい。……それと、二人とも凄く心配していました。きっと今でもずっと、心配しています」
「……」
「出来ればでいいんです。でも、出来れば一度だけでも……二人に会ってあげてください」
「……そう、ですね」
曖昧に頷く。
申し訳ないが、確約は出来なかった。
見せる面がない。
あのような迷惑をかけたうえ、身勝手にも家を飛び出した己が、どうしておめおめと帰れるのか。
分かっているのだ。
所詮は怖いだけだと。彼らが己を、憎むはずがないと。
だが己が憎いのだ。
己が、己自身を。どこまでも憎んでしまっている。
だから駄目なのだ。
己はもう、許すことが出来なかった。
幸せを求めることが、出来なくなってしまった。
頬の内側を噛んで、嚙み締めた。
戒めとしてのそれは軽いものだが、やらないよりはマシだろう。
全く、愚かだ。
「……はぁ、素敵……」
「……? すみません、今何か?」
「いえ、なんでも。それより、もう冷めましたかね? 早くいただきたいのですが……」
「ああ、そうですね」
皿の上にある、一番不格好なパンを手に取る。
まだ熱いが、食べられないほどではない。頃合いだろう。
「ええ、もう大丈夫だと思いますよ」
「ほんとですかっ。じゃあ……」
ひょい。
とても軽い動作で、己の手からパンが消える。
見ると、紬さんがにこにこ笑ってそれを撫でていた。
……何故?
「その、紬さん。それは、あまり……」
「えぇー、私これがいいです。もう触っちゃいましたしー」
「それならば、己が」
「ぱく」
「あ」
もぐもぐと、小さな頬を膨らませて彼女は食す。
瞳が愉快気に細められているのは気のせいだろうか。
……これはどうやら、浮かれている。
久しぶりに会ったのが、彼女に対し何らかの興奮に繋がったらしい。
いやまあ、嬉しそうなら、それでいいのだが。
「ふふ、おいし……」
「……」
どうにも間違っているように思えて仕方がない。
彼女はただパンを食べているだけである。
だのに何故かこう、倒錯的というか、何というか。ボタンをかけ間違えたような、そんな印象がある。
いやまあ、笑っているなら、それでいいのだが。
いいのだが……うーむ。
「……相変わらず、気味の悪い奴らです……」
少し騒がしくなった食卓で、管狐様がぽつりと呟いた。
「それでは、行ってきますね」
「はい」
「今日は少し早めに帰れそうです。晩御飯、楽しみにしてくださいね?」
「はい、とても。どうかお気をつけて」
「はーい、行ってきまーす」
ぷらぷら、名残惜しそうに手を振って紬さんが扉を閉める。
ガチャン。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ……。
オートロックがかかる音が続く。
一体何個の鍵がかけられているのだろう。
絶対に侵入させまいとする意志が感じられる。防犯意識が高くて安心だ。
「さて、と」
お見送りは完了した。
つまり、これよりは己の時間ということ。といっても、既にやるべき内容は決まっている。
目をきらりと光らせた。
居候。広い豪邸。外に出てはいけない約束。池の鯉。溜まった洗濯物。
何をするべきかなど、考えるまでもない。
「確か雑巾は……」
まずは掃除から。
ひとり呟いて、雑巾とバケツを取りに向かった。
さあ、今日も頑張って生きよう。




