奢りたい先輩と恐怖する新人
会社に入り何年かすると、かわいい後輩ができるもの。俺の場合、努力家で素直な奴だった。かわいそうなことに彼は貧乏。なのでいい飯を奢ることにする。
少々お高いレストランへ。個人店。東京ならではの多様なメニュー。黒や白のシックな内装。後輩と向き合い座る。ミドルクラスといった店内。
「す、すごいですねここ。宮殿みたい」
後輩はテーブルを凝視。白いテーブルクロスに汚れはない。キョロキョロしない礼儀が愛らしい。
「今日は俺の奢りだ。遠慮しなくていいぞ」
「そんな……破産しちゃいますよ」
大袈裟な。メニューを渡し、見させる。しばらくして、彼は目を回した。値段を見たのだろう。いつもモヤシと白米を食べているのだ。こうもなる。
「これが最後の晩餐なんですか」
「大丈夫だって。どんなのも奢るから」
そう言ってやると、泣き始めた。こいつは情深い。そして泣き虫。感動と感謝の涙に不快はない。
店員がやってきて、少し遅めの冷やを出す。後輩は水と店員を交互に見た。まさか外食もはじめてというワケではあるまい。ビビりながら手を伸ばし、コップに触れる。曇りがとれ、透明の液体が見える。彼はゆっくり手を離す。
「何円ですか」
「タダだよ。他の店と同じ」
疑心暗鬼のまま、両手でコップを取る。ひと口。顔を太陽のように輝かせた。
「公園の水道水が泥みたいだ」
比べる対象間違ってないか。
彼は注文もとらず水だけ飲む。このままでは俺も食べられない。促す。
「なぁ、そろそろ注文しようぜ」
「何をです?」
「料理」
「先輩は水じゃ足りませんか?」
「いやいや水は料理じゃないからね。メニューから選んでよ」
不可解であるとの文言を目から発する後輩。メニューを一瞥して、
「じゃあ、ライスで」
とだけ言う。
このままじゃ何も食べられず、何も食べん。後輩のライスと、俺の飯を注文。俺の分は山ほど頼む。大食いなのだ。
ライスはすぐ届く。それを、後輩は少量スプーンですくう。口にした。牛が如くノロノロ咀嚼、飲み込む。目を閉じ涙をこらえている。
「ボク、死なないでしょうか」
米一つで話がデカい。塩かけて食べるとより泣く。
俺のパスタが届いた。そんなに多くない。盛り付けは芸術。後輩はこちらを見ないよう必死だ。
「分けるよ。どんぐらい食べる?」
「先輩、ボクのことが嫌いだったんですか」
「拷問じゃねぇし旨いもん食わせたらいじめなのかよ」
「でも、考えてみてください」この男、パスタを凶器として見ている。「この分量、正直少ないです。つまりカロリーも低い。この程度のカロリーも摂取せずにいると、先輩は死んじゃいます。ボクへの不満を餓死で表そうとしているのでは?」
「パスタ食べないだけで餓死とか貧弱すぎだろ。そこまで弱けりゃ研究分野だわ。まぁ、食え。遠慮すんな」
「でも、そんなことしたら……」
「気にすんなって」
「じゃあ一本だけ」
「一本?」
彼はスプーンを使いパスタの麺を一本だけ取る。食べた。
「……旨い」
それで味判るとか肥えてんな。
「みみっちぃからまとめて食べろよ」
「先輩何言っているんですか。もったいないですよ」
「俺の奢りだからもったいないも何もない。巻き方は知っているだろ? 食えって」
しかし食べなかった。ここまで怖気づかれるとたまらない。ここは一つ、酒でも飲ませよう。気を大きくさせて、楽観的に。
頼んでおいた白ワインが来た。丁度いい。
「おい、せっかくだ。酒飲むか?」
「お酒ですか」気難しい顔。しまった、苦手だったか。「糊から作ったものしか飲んだことなくて」そりゃ苦手にもなる。
「悪い。酒は酒は嫌だったか」
「……ワインってブドウなんですよね」
しめた。興味ありだ。こんないい店で聞く話が貧乏ってのはあまりにも悲しい。酒に酔って楽しくなってもらおう。
「そう、ブドウだ。ひと口ぐらい飲むか?」
「で、では。いただきます」
グラスごとやる。これでこいつは飲み放題。クセのない白ワインだ。きっと気に入ってくれる。
後輩は、ワインを恐る恐る口に含んだ。グラスを唇から離し液体をまじまじと見る。まんまるな目。もうひと口。目に見えて感動している。
「旨いか?」
「エタノールとは全く違う味です」
「同じだったら重罪だよ」
「こんなに飲んじゃいました」確かにグラスの半分まで減っている。「失明しないでしょうか」
「エタノールから離れろよ」
「すみません。昔、父が洗剤から作った酒で盲目になって」
こいつソ連か戦後に生きてない?
だが酒の効果はあるみたいで、顔が赤い。
いいタイミングでステーキが届いた。肉の焼ける食欲の音。いくらこいつでも、ステーキの魅惑には勝てまい。たんぱく質は何であれ旨いものだ。白ワインとは、合わないかもだが。
「それ、何のお肉ですか?」
「牛肉さ」貧しいということだから、牛はめったに食べないだろう。俺だってたまにしか食べられない。「食べろよ。旨いぞ」
「いえ」いつになく真剣な顔。「それを食べたら牛になっちゃいます」
「まぁ食べすぎたらな」太るよな。
「いえ、ひと口でもです。モーモー鳴いちゃいます」
「もしかして白黒の四本足のこと言っている?」
「そうですけど?」
江戸時代かよ。マジで牛になると思っているのか。酸っぱいブドウってこんな感じなんだな。俺は別の意味で感心した。
少し切って、口へ。やはりステーキは旨い。後輩は何も言わずにいた。人の信条に口を挟まないのは素晴らしいのだが。相変わらず自分の分を頼もうとしない。
サケのムニエルが来た。流石にこれは食べるだろう。皿を彼のほうへやる。
「食うか?」
「いいんですか?」
好感触。もうひと押し。
「遠慮すんな」
ゴクリと唾を飲んでいる。たどたどしく切り分けれ、いざ実食。
また泣き始めた。源氏物語もかくや。くどいぐらい味わっている。ナイフとフォークを置いた
「こんなに上手いの初めてです……こんなんじゃ舌がイキっちゃいます」
「一応、聞くけどさ」心配の高まりに耐えられず、質問。「魚って食べたことある?」
「捕まえた川魚を何度か。マンションで拾ったフライパンで焼いて」
「拾った?」まさか盗み?
「ポイ捨てされていました。あれのお陰でやっと自炊できたんです。それまでは公園ので……」
「水道水か」
「いえ、草を」
悲劇が人の形をしてやがる。哀れみの極地に達した俺は、届けられたチキンステーキを差し出す。その肉へ疑問符の目。
「何のお肉ですか?」
「鶏ももだよ。食べな」
図らずも、俺の声は慈悲深くなっていた。彼は照れながらチキンを切り分ける。フォークで刺し、パクリ。
泣くどころか号泣し始めた。
「鶏ももなんて、初めて食べました……こんなに旨いものが……先輩、一生着いていきます……」
やっぱりこいつには可愛げがある。
その後のこと。元から上に気に入られていた俺は出世。ついに役員にまで登り詰めた。傍らには、あの時からの後輩がいつもいた。本当に一生着いて来てくれたのだ。
彼は周りから「チキンステーキ従者」と呼ばれたそう。