月と百年目
「月が綺麗ですね」
満月の夜。 月がよく見える広場で。
さっきまで、色々と話して、それが終わって、少しの沈黙を経て。
僕が言ったのは、夏目漱石の有名な愛の言葉。
それを聞いた彼女は、前髪を押さえるためのヘアピンを調整しながら、こう答える。
「そうだね。ずっと前から、月は綺麗だよね」
月が広場全体を照らし、どこかで電車の音がする。
色々と台無しなことを言うものだから、僕は彼女にこう言った。
「...不合格。色々と台無しだよ」
「えー? なんで?」
「だから、色々と台無しなの」
「うーん、ならもう一回! もう一回やろっか」
「...はぁ。分かったよ
...月が綺麗ですね」
「...うん。月は綺麗だね。でも、月から地球は綺麗に見えているのかな?」
「......それってどういう意味?」
「ん? ただ疑問に思ったことを言っただけだよ」
「...そっか」
だとしても、その返しは酷いと思う。彼女は僕が言おうとしているけことが、分かっているのだろうか。
「ねぇ、夏目漱石って知ってる? あと、『月が綺麗ですね』も」
「うん。それくらい知ってるよ。常識でしょう?」
「...そうか」
...少しの間、沈黙が続いた。
「ねえ、2人で駆け落ちしよう?」
その言葉が、夜空に響く。
なにを言ってるんだろう、このバカは。
「どこに? どこに逃げたって意味無いでしょ」
僕の彼女の間を、冬の冷たい風が駆け抜ける。
本当にバカだ。どこに行ったって意味無いのに。
だって。
「僕はもう死んでしまったから」
学校帰りに、運悪く、こんな所で死んでしまったのだ。
そんなやつと駆け落ちしようとするなんて、本当にバカだ。
でも、隣で笑う彼女の横顔はどこか儚い半月のようで、美しかった。
「どこまでも逃げればいいじゃん。49日が来たら、閻魔大王の裁きを受けて、地獄に堕ちるんでしょ」
あまりにも簡単に言うので、こっちが拍子抜けしてしまう。
「バカなの?
閻魔大王から逃げるだなんて、小学生でもそんなこと言わないよ。それに、地獄や閻魔大王が本当に存在してたなんて僕だって昨日まで知らなかったんだし...
それに、第一、君はまだ生きてるだろ。そんなこと言ってる暇があったらテスト勉強でもしたら? 一週間後だろ? テスト」
「えぇー...
なんか、いつも通り過ぎてつまんない。本当に地獄に堕ちるの?」
自分の長めの髪をかきあげながら、答える。
「本当に堕ちるよ。だってそう言われたんだし。現に、死んでるのに今話せてるだろ?」
死んだ直後、まだ状況が理解できてない時に、どこかから声が聞こえてきて、49日後に地獄に堕ちる、ということを知らせてきたのだ。
「誰だって蚊くらい潰したことあるだろ。
死んだやつなんて所詮みんな地獄行きだよ、今更抗おうだなんて思わないね」
ふと、横を見ると彼女は真顔になっていた。
「...そうじゃなくてさ」
「?」
「なんか、もっと生きてる間にしたかったこととか、なかったの」
「...」
風に吹かれ、彼女の髪が長くたなびく。
「...私は、悲しかったよ」
「...」
彼女を見続けることが出来なくて、顔をそらして、月を見る。
月はまるで悲しんでいるかのように、雲で隠れている。
「...それでも、僕は駆け落ちもしないし、抗いもしない」
満月が、僕らを照らしいた。
どこかで電車が走る音がする。
彼女は立ち上がり、この場を立ち去る。
「バカ...」
僕は、ただ、去っていく背中を見続けた。
身長的には僕よりも大きい筈の背中は、なぜか小さく見えた。
...次の日、彼女は僕が見えなかった。その次の日も。そのまた次の日も。一週間後も。二週間後も。
ーーーーつまらない人生だった。
小学生の頃から勉強ばかりして、あまり人と関わらなかったから、虐められていた。
中学校でも虐められてたけど、ただひたすら、勉強していた。
だけど、ずっと虐められ続けて、もう嫌になったことがある。
その時だ。“君”が助けてくれたのは。
僕を庇ったことで、明るくて容姿がよく人気者だった君は僕と同じように虐められていた。
それでも、君は笑っていた。僕を助けてくれた。
高校では、あまり頭の良くなかった君に、僕が勉強を教えていた。
...正直なところ、中学生の時から、学力の最下位争いをしていた君が、あの高校の入試で受かるなんて、思いもしなかった。
...君は、勉強頑張ったと言っていたけど。入学後の成績を見るに、多分あまり良くない方法も使ったんだろう。
でも、僕はそれを特には気にしなかった。むしろ、そうまでして僕と同じ高校に入ろうとしたことに、感動し、感謝していた。
君が居なければ、きっと僕は高校でも虐められていただろう。
そんな君だったからこそ、僕は尊敬し、そして好きになっていた。
きっと、僕の気のせいでなければ、君も僕のことが好きだったと思う。
...高校を卒業したら。ちゃんと働けるようになったら、君に告白するつもりでいた。
だけど、僕は死んでしまった。
満月の日の前日。昨日だ。
最初は絶望した。悲しんだ。怒った。憎んだ。
でも、そういう感情はあまり長続きしないらしい。
1日経つ頃には、僕は落ち着いていた。
...諦めた、と言ってもいいだろうか。そんな感じだ。
僕は死んでしまった。起こってしまった現実。事実。そう考えると、不思議と落ち着いた。
このままあの世へ行ってもいいと思うほどだった。
当然、未練はあった。
家族の事、将来の事、数少ない友達の事。
...そして、君の事も。
叶わない恋。告白しても、お互い苦しむだけ。
でも。僕は告白した。
きっと、何も言わないよりも、好きだというおもいを表した方が、いいと思ったから。
...きっと、君は、それが嫌だったんだろう。
だからあんな風に、誤魔化した。
君は比較的国語は得意で、綺麗なフレーズが好きだった。
『月が綺麗ですね』なんて、当然知っていたのだ。
それならば、きっと、そういうことだろう。
君が僕を好きだったなんて、僕の気のせい。
もしくは、死んだ人と両思いなんていう、辛い状況が嫌だったか。
ねぇ。そうなんだろ? 死んだ人なんてどうでもいいだろ?
だから、そんなことをしなくてもいいだろう? だから、やめてよ。
毎日、夜遅くまで僕を探しに来るのは。
一ヶ月後。彼女はいつもどおり月がよく見える広場に僕を探しに来た。
珍しく降っていた雪が、彼女の白い肌を更に白く染める。
諦めと後悔が入り混じった表情。どこかすがるように、彼女は広場を見回す。
こんな時、この広場は嫌になる。どこにも隠れる場所が無い。
彼女が見回すだけで、僕と視線が合ったような気がするのだ。
...気のせいでは無かったようだ。彼女はしっかりと僕を見据え、ゆっくりと近付いてくる。
僕の隣で止まった彼女は、その場で座り、僕の方は向かずに月を見ていた。
1月ぶりに見る月は、いやに輝いているように見えた。
「...月が綺麗だね」
久しぶりに、彼女の声を聞いた。前はいつも聞いていた声。綺麗な声。愛しい人の声。
...もう、聞けないと思っていた声。
その声で呟いた、その言葉。
ずっと求めていた言葉。一瞬の間を置いて、僕は震える声でこう返した。
「そうだね。まるで百年目に咲く百合の花のようだ」
彼女は驚いたように俺を見て、そしてすぐにほうを膨らませてこう言う。
「...100年も待てないんですけど」
そう言った彼女は、「でも、」と続け、
「 」
そう言って笑った。