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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第二章
8/16

会合

 ルガと別れたトガルは、森の中へ視線を移した。ルガと別れたのは、ただ単純に邪魔になるからだ。すでに、複数の人間に囲まれている感覚がする。どうやら、あの三人だけではなく、そこそこの数をこの森へ配置しているようだ。

 こちらの移動経路を読んでいると言うよりは、考えられる場所全てに手を回しているのだろう。おそらくは街道にも敵が待ち伏せしているはずだ。

 トガルが戦いたくなかったのは、ルガを連れていたからだ。そのルガがいなければ、相手をすることもやぶさかではない。それに、今のうちに敵の数を削っておきたい。


「隠れているのはわかっている。出てこい」


 トガルがそう言うと、木の影や藪から短く刃の曲がった剣を持った男たちが、ぞくぞくと現れた。


(八人か。多いな……)


 トガルは手甲を装着し、戦闘に備えた。飛び道具が飛んで来たら、いつでも弾くつもりだ。

 彼らの中でも一番体の大きな男が前に出て、邪悪な笑みを浮かべた。


「お前がラルバか?」

「ラルバ?」


 何を言われたのかわからず、トガルは聞き返した。


「おれたちがラゴウだってことは知ってるんだろ? おれたちはお前を殺さないといけない。ラルバを取り返すためにな」

「何の話をしているのかわからないが、おれも暇じゃない。相手になってやるから、さっさと来い」

「ふん、誰もお前を襲うとは言っていない。おれは思いついたんだ。ファルがマナの子供を人質にとって言うこと聞かせたように、おれもお前の大事なものを人質にとって、言うことを聞かせればいいってな」


 彼は勝ち誇ったように言った。


「今、お前の大事な娘と犬を、おれの仲間が追っている。馬鹿なやつだ。自分から守る相手を手放してどうする?」

「ルベルはお前たち程度には追えない。だが、そういうことをしてくるようなら、やはりここで潰しておくか」


 トガルは、彼らが真実を言っているとは思えなかった。交渉のつもりなら、人質を捕えてからでもいいだろう。

 彼らのひとりに近づいていくと、相手は慌てて剣を構え、防御の姿勢をとった。


「何を考えている? おれに用事があるんだろう?」


 絶対に向こうから攻撃するつもりはないようで、剣を構えたまま、様子を伺っている。

 トガルは不審に思いながらもその相手の胸元を掴み、地に伏せさせた。ここまでやっても、周囲の者が助けに入る様子はない。

 さすがに不気味に思い、トガルは手を離してそこから飛び退いた。


「お前ら、本当に何だ? おれにどうしてほしいんだ?」

「言っただろ。お前に死んでほしいんだ。そのために、お前をここに足止めしている」


 トガルは苛立ちからそばにある木の幹を叩いた。


「お前らに追跡できるわけがない! 何を隠しているんだ!」

「そりゃそうだ。伝説の山狗さまに追跡で挑むなんて馬鹿な真似はしない。おれたちには強力な味方がいるんだ。小娘はそっちに任せてある」

「なんだと?」


 誰がルガへ接触しようとしているのかはわからないが、ここでゆっくりしている場合ではない。トガルが走り出そうとすると、その進路を彼らが塞いだ。


「行かせられないな。いいか? お前を止めようとすることは、敵意ではない。あくまでも我々の目的を守るためだ。おれはラゴウ、ユリクスの隊長、ハムシ。勝負だ山狗!」


 なぜ敵に素性を明かすのか、全く理解ができない。しかしトガルはもう、彼らの不審な言動にいちいち反応しないことにして、道を塞ぐ彼らの頭領であるハムシへ向き直った。

 体格がよく、堂々としている。戦うことに対して抵抗のない、暴れ者なのだろう。他の者は、あまりこちらと刃を交える気はないようで、怯えたように防御の姿勢をとっている。

 一対一で敵の頭と戦えるのは、トガルにとって思ってもいない好条件だ。こいつさえ倒してしまえば、今ですらあまり高くない士気を、さらに落とせる。

 拳を体の中心に構え、トガルは跳ねるようにして素早く距離を詰めた。そして、ハムシのアゴを狙って、拳を振り上げる。並の相手なら、これだけでアゴが砕け、気を失う。

 しかし、相手も防御に徹する気だったようで、トガルの拳をのけ反って躱した。その体勢から反動をつけて、剣を振り下ろす。刃はトガルの頬をかすめ、地面にぶつかって火花をあげた。どうやら、叩きつけて力任せに相手の骨を砕くような使い方らしく、刃が欠けることをまったく恐れていないようだ。


(こん棒を振り回すだけの相手なら簡単だな)


 トガルは次の一撃が振り下ろされた時に、武器を握る右手の指をへし折ってやろうと、拳を腰の辺りにつけた。その構えを見て、ハムシは笑った。


「速さ比べか。いいだろう」


 ハムシは剣を両手で持ち、頭上にかかげた。その動きに嘘はなく、絶対に振り下ろすという覚悟が見える。

 かなり場慣れしているのだろうということが伺えた。こういう一対一の戦いにおいて、自分の戦法を隠さないことは、相手に敬意を払っているととらえることもできる。しかしそれは、トガルも同じくらいに戦いに身を投じている場合のみである。そもそもトガルは彼のそういった粋な姿勢には、まったく興味がない。そのため、速さ比べと言われても、そのつもりは毛頭なかった。

 ハムシの剣が振り下ろされると同時に、トガルは左へ飛んだ。ハムシは驚いたようにトガルを目で追う。本気の振り下ろしであったために、体がついていかないのだろう。

 トガルは着地すると姿勢をつくり直し、握りしめた鉄の手甲で、ハムシの右手の甲を打った。嫌な音と共に、まるで貝殻のように簡単に骨が砕け、ハムシの右手が赤黒く染まる。

 剣が地面に転がって、大きな音を立てた。


「て、てめえ! 避けるなんて卑怯な!」

「誰も正面から打ち合うとは言っていない。お前が勝手に勘違いしただけだ」


 そう言って、うずくまって右手を抑える彼の顔を、トガルは思い切り蹴り上げた。ハムシはそのまま気絶し、静かに地面に横たわった。


「さて、他にやりたいやつはいるか?」


 他の者たちは、トガルの無粋なやり方に怒りを覚えているようで、みな一様に睨んでいる。恨みを買うつもりはなかったのだが、想像以上に戦いというものに対する認識が違うようであった。


「つ、次はおれが相手だ」


 震える声で名乗り出た青年は、剣を片手に、じりじりとトガルへ迫る。


「お、おい、やめておけ! ハムシ隊長から言われているだろ!」


 近くにいたひとりが彼の手を握って止めようとするも、力づくで振りほどいた。


「知るか! あいつは卑怯な手でハムシ隊長に泥をつけた! これが我慢できるか!」


 青年が激昂してトガルへ飛びかかった。トガルは迎え撃とうと、彼に目標を定め、拳を握る。しかし、彼の剣は、トガルへ届くことはなかった。


「お前、それは……」


 トガルが動きを止めて彼に呼びかけると、彼も自分の異変に気がついた。


「……これは、ああ、くそったれ!」


 彼の体の中心に、黒い線が入っていた。内臓を連れ去る黒い爪が現れる兆候だ。

彼は一瞬だけ絶望した顔を見せたあと、トガルを睨み、自分が死ぬ前に一矢報いようと思ったのか、力いっぱいに剣を投げつけた。

 トガルがそれを難なく避けて、彼に視線を戻すと、すでに地面に倒れ込んでいた。

 あの爪が出現する条件は不明だが、少なくともこちらに害を為す相手に限定されているようであり、トガルは少しだけ落ち着いた。


「もう行ってもいいか?」


 そう聞いても、もう誰もトガルに刃を向けようとはしていなかった。倒れてしまった仲間の姿を、ただ茫然と見つめているだけである。

 あの爪は彼らにとっても恐れるべきものなのだろう。本当ならば爪の正体を問い詰めたいところだが、今はそんなことをやっている時間がない。どのみち、彼らとはまた会えるだろう、とトガルは山狗の隠れ家に向かって走り出した。






 駆け足で進むルベルが、あるところでぴたりと止まった。

 すでに夜の帳は降りて、森の中は濃い闇に覆われている。ある程度目は慣れたが、どこまでも広がる暗闇のどこかに追手が潜んでいると思うと、緊張は解けなかった。

 ルベルが止まったのは、大きな木の手前である。その根元は盛り上がり、地下に空洞が見える。


「ここなの?」


 ルガがルベルに聞くと、ルベルは顔を上げてルガへ顔を向けた。そして、足を折ってルガが降りられるように体勢を低くする。

 不安になりながらも、ルガはルベルから降りて、荷物から松明を取り出して、火打石で火をつけた。木の根元は人が入れるくらいに大きな入り口が開いている。

 ルガは恐る恐る松明を中に投げ入れて、様子を伺った。空洞の闇は真っ直ぐ先へ続いている。

そっと降りて、ルベルの方を振り返る。彼女は入り口で誰も来ないように見張っているようであった。

 ゆっくりとルガは中へ進んだ。足元しか照らしていなかったが、すぐに広い空間に出たことを感じて、松明を掲げた。天井の隙間からは夜空が見える。ここよりも先があるのかはわからなかったが、ひとまずトガルを待とうと、ルガは立ち止まった。

 壁際に松明を固定する金具を見つけて、そこへ松明をさしこむ。そしてほっとすると、途端に疲れが体を襲った。座り込んで、背中を壁に預ける。トガルは大丈夫だろうか、と軽く目を閉じたその時、不意に正面の暗闇から物音がした。


「こんばんは。待っていたよ」


 慌てて立ち上がって、正面を睨むと、ひとりの女性がいた。茶色の外套を身にまとい、短い髪と、鋭い目をした女性である。ルガは身構えて、彼女に言った。


「あなた、ラゴウの人ですか?」


 ルガがじりじりと出入口の方へ移動すると、彼女は目を細めた。


「察しがよくて助かる。あなたがルガね。私はラゴウのマナ。よろしく」


 彼女は近づかず、顔が見えるぎりぎりのところで立っていた。手に武器の類はなく、黒い革の手袋をしている。それが少しだけ嫌な雰囲気を放っていた。


「あまり時間がないから、手短に話すわ。私はラゴウだけど、あなたに警告をしに来たの」


 有無を言わさず襲うつもりがないということだろうか。だからと言って安心はできない。


「私たちの狙いは、あなたと一緒にいたあの男だけよ」

「トガルさんが、何をしたんですか」

「あの男はね、ラルバなの。ガンドルトに深く関わっているあなたなら、この意味がわかるでしょう?」

「ラルバ!? そんなはずは……」


 ラルバとは、邪神ガンドルトの手下。ガンドルトの代わりに獲物を選別し、供物をささげる役目を持つ。しかし、そう簡単に現れるものではない。様々な細かい条件もあるとされているが、何よりもこの世に絶望していなければならない。これが難しく、自分が生きていることすらも恨みながら、絶望しながらも生きていけるほどの強さを持っている人間はあまりいない。だから、ラルバとなる候補は本当に限られた一部の者なのだ。

 トガルがそうであるとは、ルガには信じられなかった。彼が時折見せる影が、それほど大きな傷だとは思っていなかったからだ。


「信じるとか信じないとか、私には関係ないわ。あの男を殺せれば私の仕事は終わりだし。私があなたに望むのは、ここで彼と別れなさいということよ。まだルガを探して殺せとは言われていない。でも、あなたを見つければ彼らは必ず殺せと言うでしょう。結界を張られるわけにはいかないのだから」

「マナさんは、私を殺さないんですか?」


 マナは肩をすくめた。


「どうでもいいわ。あの男の生死と同じで、あなたの生死もどうでもいい。私は私のためにやってるだけだから」

「嘘、ですよね」


 ルガが思わずそう言うと、マナはまた、目を細めた。


「本当に私がどうでもよかったら、こんなふうに警告しないはずですから。自惚れかもしれませんけどね。でもマナさん、本当は優しい人なんじゃないですか? 相談があったら、聞きますよ?」


 ルガは不思議と、彼女のことが怖くなくなっていた。何か理由があるわけではなく、直感的に、マナが悪い人ではないと思ったのだ。


「……この状況でそういうことが言えるのは、心が強いのか、馬鹿なのか、判別できないわ。私があの男を殺して、あなたもここで殺せば、たくさんの恩賞が出る。そうすれば、一生食うには困らないでしょう。ここで私のために死ぬ?」


 マナは外套の中から、一振りの剣を取り出してマナに向けた。松明の灯りが刃に反射してきらきらと光る。しかし、やはりルガは怖くなかった。彼女の全てが演技に見えていた。


「それも嘘、ですよね?」


 ルガが言うと、マナは大きなため息をついて剣を懐に戻した。


「……あなた、やりにくいわね。まあ、とにかく、巻き添えで殺されたくなかったら、あの男から離れなさい。そしたら、あなただけでも助かるように、なんとかしてみせるから」


 マナがルガを助けようとしていることは、わかっている。しかしそれは、トガルを見捨てて助かれと言っているようなものだ。

 ルガにしてみれば、その選択肢はありえないものだ。たとえ自分がいたことで得はないとしても、選べるものではない。そんなことをして、助かりたくない。


「いやです。私はトガルさんから離れる気はありません」

「強情な子ね。あなたが足を引っ張ったせいで、トガルが死ぬこともあるでしょうに」

「もし、そうであったとしても、ここで私がトガルさんから離れることはできません。あの人は、苦しんでいます。私にどうにかできることではないのかもしれませんが、でも、どうにかできることかもしれません」

「それは、ルガとしての考え?」

「私個人の考えです。ですので、お引き取りください」


 ルガはきっぱりと言った。彼女の提案を受け入れないことに決めたのだ。


「はあ、わかった。じゃあ、次会う時は覚悟しておいてね。まあ、会わないかもしれないけど」


 マナは諦めたように、つかつかと歩き、ルガのとなりを通って外へ向かった。


「マナさん」


 ルガが声をかけると、マナは立ち止まった。


「マナさんは、誰の味方なんですか?」


 そう聞かれて、マナは自嘲するように笑った。


「私は私の味方さ。ラゴウの味方でも、あんたの味方でもない。誰かのために戦うとか、そういうのは、もうごめんなんだ」


 本心で言っている。ルガはそう感じて、口をつぐんだ。彼女にも、彼女の都合がある。しかし、好きにさせるわけにはいかない。

 だから、せめてどこへ行くのかだけでも見ておこうと、マナの跡をついていく。外へ出ると、マナは部下のふたりと合流し、何か話している。そのとなりで、ルベルが寝そべっていた。


(ルベルさん、何をされたの?)


 そう思っていると、マナがルガの方を向いて、手に持った小袋を見せた。それは、ルガがトガルからもらった香り袋と同じものであった。あれがあると、オオカミは敵だと認識しないのだろう。悠々と、マナはルベルの脇を抜け、闇へ消えていった。

 彼らが消えてすぐ、入れ違うように、トガルが走ってきた。


「おい、大丈夫か! 何があった!?」


 彼も何かあったのだろう。あの冷静なトガルが少し興奮気味に言った。

 ルガは何があったのかすぐに話した。隠れ家の中にマナがすでにいたことや、香り袋を持っていたことだ。


「それが本当なら、やはりあいつらは追跡はできていない。どうやって隠れ家の場所を知ったのかは考えなくてはならないが、とにかく別の場所へ移ろう。隠れ家はもう使えん」


ルベルにルガを乗せ、トガルは足早に進み始めた。

月が傾き始めるくらいの時間を黙々と歩き、広くなっている場所で、トガルは立ち止まった。


「焚き火は起こせない。凍死しないように厚着して寝ろ。足を覆うようにして、しっかりと固定するんだ」


ルガは頷いて、荷物の中から予備の外套を取り出して自分の体に巻きつける。

寝るための準備をしながら、ルガはマナの言っていたことを思い出しながら、トガルへ言った。


「トガルさんのことを、ラルバだと言っていました」

「ラルバ?」

「トガルさん、最近不思議なことありませんでしたか?」


 そう問うと、彼は少しうつむき、手を遊ばせたあと、言った。


「黒い爪が現れるようになった」

「黒い爪……。それ、ガンドルトの爪ですね」

「知っているのか? これは何だ? 頼む、教えてくれ!」


 トガルは必死な顔でルガへ言った。何も知らない彼には、ガンドルトの爪は恐怖だっただろう。


「ラルバは、神の目という意味の、ラゴウの言葉です。ガンドルトは今、トガルさんの目を通してこの世界を見ています。そして、もっとも厄介なのが、トガルさんに危害を加えようとする人に、もうひとつの世界、テイクルシアから爪を伸ばしてきます。距離は関係なく、見えていればどこへ逃げても必ず爪は相手の体を裂いて内臓を持っていきます。最近、そういった経験があった、と思っていいのでしょうか?」


 ルガの問いに、トガルは小さく頷いた。


「こういう仕事をしているが、おれは今まで、人を殺したことはない。あんな不気味な爪が目の前に出てきて、急に人を殺した。初めの何日かは、恐ろしくて眠れなかった。あれからしばらく見なかったが、今日また、ラゴウのやつにあの爪が出て、殺したみたいだ。おれにはもう、どうしたらいいかわからん。なあ、どうしたらこれはおさまるんだ?」

「そうですね。まず、その問いの答えは簡単です。結界を張れば、ガンドルトはこの世界に対する影響力を失います。なので、この旅が無事に終われば、同時にラルバの役目を終わらせることができます」

「そうか。それは、よかった……」


 彼は心底安心したように言った。現状の解決方法は、たしかにそれでいい。しかし、ルガにはどうしても聞いておきたいことがあった。


「あの、ラルバというものは、この世界に絶望している人でしかなれないんです。それも、生半可なものではなく、心の底から憎しむくらいでないといけません。トガルさん、何があったんですか? 話しては、もらえませんか?」


 今度こそ怒鳴られるかもしれない、とルガは思った。だが、それは恐れることではない。感情的に怒るということは、それだけ敏感な傷なのだ。

 トガルは喋りたくないのか、黙り込んでしまった。ならば、とルガはトガルに向きなおった。


「トガルさん、聞いてください。私はルガとしての役目を持っています。ルガの役目は結界を張ることだ、と言いましたよね。その結界なんですが、ユカナの中から行うものなのです」

「……なんだと?」


 トガルが驚いた顔でこちらを見る。そう、彼の想像している通りだ。


「結界を張ってしまえば、二度と外に出ることはできません。私の残りの命は、ユカナに着くまでのものなのです」

「馬鹿な。こんなわけのわからない化け物のために、命を捨てるのか?」

「私がやらなくても、誰かがやらなくてはなりません。ガンドルトが完全に復活すれば、今トガルさんの周囲で起こっている爪などとは比較にならないほど、大規模な殺戮が起こります。大昔にガンドルトを封じた戦いでは、およそ五千人が死んだと聞きました。そんな悲劇を繰り返すことだけは、あってはなりません。五千人を救うために、五十年に一度、ひとりのルガが犠牲になるのです」


 ルガはほがらかな顔で言った。もう全て受け入れていることだ。自分が死んで、まだ小さな兄弟たちが生きていけるのなら、それでいい。心の底からそう思っており、またそれが最大の幸福だとも思っていた。


「すみません。犠牲、という言い方はあまりよくありませんでした。もっと、そう、土台、でしょうか?」

「礎、か?」

「ああ、そうです。それが一番おさまりがいいですね」


 笑顔でそう言うルガとは対照的に、トガルの表情には暗い影が降りていた。何か思うところがあったのか、しばらく考える素振りを見せて、重い口を開いた。


「……おれには、家族がいた。妻と子供がひとりな。だが、ふたりとも十五年前に死んでしまった。なぜおれの家族だけがこんな目に会うのか、とおれはやり場のない怒りを持っていた。世の中に絶望していると言えば、そうなんだろうな」

「そう、だったんですか……」


 ルガは少しだけ音が遠くなるような感覚と、軽いめまいがした。いくら十五年も前の話でも、軽く話せるようなことではない。妻と子に先立たれ、その結果世の中を憎むようになったのは、無理のないことかもしれなかった。


「私から聞いたので、こう聞くのはおかしいんですが、なぜ話してくれる気になったのですか? こんな大切な話は、初対面の相手には絶対しないことですよね?」


 ルガは自分の発言が失礼であることは承知の上で聞いた。トガルは怒ることもなく、苦笑した。


「おれも最初は話す気なんてなかったさ。だが、お前の背負っているもの、お前に残されている時間に比べると、こんなことはたいしたことじゃないって思ったのかもな。それに、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。相手が聖職者さまなら、願ったり叶ったりだ」

「私で良ければ、いくらでも話を聞きますよ」

「そういえば、孤児院の出身だったな。こんな話は聞き飽きているだろうに」

「そう卑下するのはやめてください。数多くの孤児たちの話を聞いたから断言できますが、誰一人として、同じ境遇の不幸というものはありません。みんながそれぞれ、自分だけにしかわからない痛みを味わって、つらい思いをしています。それを分かったようなふりをして話を聞いたり、自分の知っているものに当てはめて適当に理解するなどということはしません」


 ルガはまっすぐにトガルを見つめた。彼は目を合わそうとはせず、しきりに視線を動かしている。何か話してくれようとしているのだろうが、言葉が見つからない様子であった。

 彼は今、濁流の中で掴めるものを探しているのだ。ならば、とルガは彼が話しやすいように、言葉を続けた。


「しかしながら、身近な人の死というものは、簡単には乗り越えられません。刃物で刺された傷とは違い、心の傷はもっと複雑なものですから」

「それは、わかる。おれのここは、十五年も痛んだままだ」


 トガルは胸のあたりを強く握った。


「何度も忘れようとした。妻と子なんて最初からいなかったと思えば、楽になれると信じていたからな。だが、忘れようとすればするほど、あいつらはおれを逃がしてはくれなかった。夢に出て、何度もおれに言うんだ。『お前のせいで死んだ』ってな。妻の出産につき添っていれば、死ななかったかもしれない。ずっと子供に連れ添っていれば、死ななかったのかもしれない。そう考えると、やっぱりおれのせいでふたりは……」

「違います!」


 ルガはトガルの言葉を遮って大きな声を出した。目には涙が浮かんでいた。


「何が違うっていうんだ?」

「全部、全部違うんです。トガルさんが直接手にかけたわけではないのでしょう? だったら、自分のせいで死んだなんて、言わないでください。それに、何よりも、ふたりを忘れようとするなんて、やめてください。家族の繋がりって、そんなに単純なものじゃないでしょ……」


 声が小さくなっていき、やがて、ルガは鼻をすすり、ぽろぽろと涙を流し始めた。


「どうしたんだ」


 トガルもさすがに予想していなかったのか、うろたえた様子で言った。


「忘れるなんて、絶対ダメです……。最初からいなかったことにする、なんて、じゃあ、死んだ人は、そこで終わりなんですか? この世界には、いなかったことになるんですか? 生き残った人が、死んだ人のことを覚えて、大切にしてくれないと、死んだ人が、本当に死んでしまいます……」


 ルガは涙を流し、時折嗚咽をまじえながらそう言った。

 抑えようと思ったのだが、感情を抑えられなかった。死んだから、死んだことに耐えられないから忘れるなんて、悲しすぎるではないか。


「トガルさん、トガルさん!」


 ルガはトガルの手を強く握った。彼は驚きに声も出なくなっていたようで、ただただ目を丸くして、されるがままになっていた。


「死んだ人のことは、ずっと背負って生きてください! 忘れないで、いつだって思い出してください! 奥さんと子供さんの分も楽しんで生きるのが、残された人の務めです!」

「無茶苦茶だな……」

「約束してください! トガルさんが自責してしまうのは、きっと、ふたりが大好きだったからでしょう? だったら、自分を喜ばせることが、ふたりを喜ばせることでもあると思ってください。生きている人が精いっぱい生きなかったら、それこそ、死んだ人から恨まれますよ!」


 始めから終わりまでずっと感情論で、理屈も何もあったものではない。ルガもトガルを説得しようと思って話を聞き出したわけではなかった。だが、言っておかなければ、我慢できなかったのだ。

 言葉にすることで、自分がなぜ死ぬことを覚悟できていたかもわかった。死んでも覚えていてくれる人がいる、と確信をもっているからだ。誰にも知られることなく、邪神を封じるための犠牲にされていたら、今ほど落ち着いていられなかっただろう。

 彼に忘れられようとしている妻子のことを思うと、胸がしめつけられて、涙が止まらなくなる。

 さめざめと泣くルガを前に、トガルはしばらく困ったように手を遊ばせていたが、やがて覚悟を決めたように、目を細めた。


「ああ、そうだな。お前に言われたら、そんな気がする。だが、山狗では、死んだ人間は大地へ還るものとしている。だから、死んだ人間のために生きることはできない」


 人の命に対する考え方は、いくつもある。ルガもそういったことに深く携わる者として、この北の大地だけでも複数の捉え方があることを知っている。人の死に関する話題が誰にでも話せるものではないのは、そういう理由もあるのだ。

 トガルは一呼吸あけて、続けた。


「でも、今もふたりがおれと一緒に居続けてくれるかもしれないと思うと、腐っている場合じゃないな」


 そう言って、彼は初めて笑顔を見せた。普段の仏頂面とは違い、柔らかな表情であった。


「……いいんですか? 山狗の教えとは、違うのでしょう?」

「元より、おれは信心深い方じゃない。死んだあとどうなろうと、生きている人間と話せないのは同じだ。今回みたいなことでもなければ、邪神ってものの存在も信じていなかっただろう。こことは違う世界があるなんて話、信じられるはずがないからな」

「ガンドルトさえ封印できれば、トガルさんはこの悪夢から解放されます。そしたら、もう一度、自分の人生を考え直してもらえますか?」

「ああ、そうだな。実はな、おれもルベルに寿命が来たら山狗をやめようと思っていたところだ。さっきも言ったが、ここにいると、死んだふたりを思い出してしまうからな」


 居るのもつらい場所から逃げ出して、南へ行こうと思っていた、とトガルは言った。帝国に統一された今なら、面倒な関所や入国の審査も緩いだろうと目論んでのことだ。


「いいなあ、私も行きたいです」


 ルガはつい、深く考えずにそう言ってしまった。トガルもバツの悪そうな顔をしている。彼はルガに、役目を全うできるよう手伝ってくれているのに、その心にトゲを刺すようなことは言うべきではなかった、とルガは反省した。


「ええと、じゃあ、私の分も、楽しんでください。そうしてくれるのが、一番嬉しいです」

「……今ならまだ間に合うぞ」


 ルガはかぶりを振った。


「トガルさんの言いたいこともわかります。逃げ出したっていいのかもしれません。ラルバであるトガルさんがここからいなくなれば、ラゴウは慌てて南へ人を向かわせなければなりません。それに、教会の方でも新しくルガを立てて、結界を張ることでしょう。ただそれだと、私はずっと、ルガのまま、ルガではなくなるのです。それは、私にとって、死ぬよりもつらいことです」


 役目が終わらなければ、名前がもらえない。名前をもらうには、役目を終えるしかない。


「だから、私が結界を張ってガンドルトを封印できるように、全力で手伝ってください。お願いできますか?」

「お前が死ぬことを受け入れろって言うのか?」

「ええ、そうです。そしてついでに、私のことも背負っていってください」


 ルガは冗談めかして言った。半分は本心だ。彼が最後に会う人間なのだから、ずっと覚えていてほしい。忘れるなんて、言わないでほしい。


「……ああ、任せておけ。そのためにも、まずは目の前のことをなんとかしないとな」


 トガルは彼女の気持ちを察したのか、頼もしく凛々しい顔でそう言った。


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